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2011-05-30

身近な部外者

数年前ある場所でマイクをもったとき、私は「Web業界の人材開発部員でありたい」と話した。Web業界というのはまぁ便宜的にそう言い表したものだけど、今もその気持ちは変わらない。自分の所属する会社、自分の所属する部署がそういう社会的意義をもてたらいいと思っているし、そうでなくとも、私は会社の中にいようと外に出ようと、個としてそういうふうに貢献できたらと思っている。

人材開発部というのは、つまり現場の外だ。現場の外でありつつ、Web業界株式会社の中にあるということ。つまり、最も身近な現場の部外者でありたいと思っている。現場の外にいて、その分野では第一線に遠く及ばないけど、部外者の中では最も彼らの身近にいて、彼らとはまた異なる人材開発の専門性を磨いて、彼らのために働く。

部外者の能力をわきまえつつ、部外者だからこそできるサポーターとしての仕事を、どれだけ身近で、どれだけ献身的に、どれだけ専門性をもってできるか。そのためには、自分の器を、自分なりのやり方で、もっと大きくしていかないといけない。

それがここ数年は、今の環境のなかで巡り合う案件を実践することで磨いていけた。ここ数年の法人研修の仕事は、クライアントの要望や講師とのやりとり、受講者の反応を受け取って、それを形にしたり後から振り返ったりの実践をすることで、私の器を1.5倍、2倍と大きくした。

けれど今ここに立ってみると、このままの環境を保って、ここ数年の1年間と同じ伸び率を今年度実現することは、かなわないだろうなと直観する。もはや自分がイメージできるゴール設定とその実現では、この先できて1.1倍の伸びしか期待できない気がする。

これからはきっと、環境面の変化を加えていって、自分の思い描けるゴールイメージが拡張、高度化していくような取り組みをしないといけない。自分の描けるゴールイメージが停滞すれば、自分が実践できること、ひいては貢献できることも停滞するのが必然だ。このままでは井の中の蛙になってしまう。

今再び、「ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。」(きつかわゆきお著)より、この言葉を思い出す。

不確かなものを愛せよ。確かすぎるものに愛されるな。

だって結局、世の中も、人生も、本質的には不確かなものにちがいないのだから。

キャリア支援とは、弱者救済的な仕事じゃない。もっと生産的で、もっと創造的な人と仕事の交差が世の中にあふれていくような支援に仕えたい。そんなエネルギーで世の中が満ちていったら、美しいだろうなって思う。

※注:「今ここ」とは会社辞める辞めないの話とは別で、私の概念世界のお話です。

2011-05-26

わかるための図

「人に伝えるために図を描く」というのは図のあり方としてよく知られるところだけど、原田泰先生(千葉工業大学准教授)の説明でぐっとくるのは、「表現活動にも2段階ある。1つ目は自分がわかるための表現、2つ目が相手に伝えるための表現」という話。

著書「デザイン仕事に必ず役立つ図解力アップドリル」から引くと、次の2段階。

  1. データを集め組織化し、傾向や結論をつかむためにその構造を図化=考えるための図
  2. 構造を示す図をもとに、目的や受け手の立場に合った表現に翻案=伝えるための図

「1」の工程を踏んで自分でわからないと、「2」の相手に伝えるところには到達しないわけで、このステップはきちんとわきまえておきたいところ。じゃないと、「1」どまりの自分にしかわからない図のまま人前に出しちゃったり、「1」の工程を踏まず傾向も構造も意図も未整理な図を人様に出しちゃったりということになる。

「1」を頭の中でできちゃう人もいるかもしれないが、私は絶対手を動かさないとダメだ。ということはよくよく承知しているので、これまでも「1」の工程は無意識にやっていたのだけど、これまでは上の認識がなかったぶん精神衛生上よろしくなかった…。

例えばお客さんのところでヒアリングしてきて提案書を起こす場合は、集めた情報から自分なりの提案シナリオが浮き上がってくるまで、何度も何度も紙に書き直して精緻化してくるのを待つという感じ。最初はとにかく集めたデータ/情報の書き出し、そして情報整理、情報不足点の発見、構造の理解、傾向把握、問題発見、アイディアだしみたいなのがごちゃごちゃっと紙にあふれる。それを何枚か書き直しているうちに提案内容などが精緻化されていって、最終的に人様に見せられるドキュメントが仕上がる…みたいな。

この間の「今どこ走ってんだろう私」的な精神不安定感が軽減されるのではないかという期待。今後は割り切って、今は「人に伝えるため」じゃなくて「自分の思考の外在化」に時間をあてているのだ、だから汚くてもいいのだ、いいのだ!と快く「1」の工程に時間をあてたい。そうすると、だいぶ精神状態が楽になるのではないか。いや、そう変わらない気もするな。まぁ多少はいいか。

それにしても、以前に先ほどの本を読んで「おぉ!」と唸っていたのに、つい先日先生のお話を伺う機会があって、その説明を聴きまた「おぉ!」と同じ調子で唸ってしまった自分の忘却力が怖い。ともあれ読み返してみるに、この本は本当に「はじめに」から「おわりに」のメッセージまでしびれる。中身ももちろん潤い豊かだ。デザイナーにはなきゃ困る知識領域だけど、私みたいな普通の人にもあるべきデザイン知識の宝庫だ。楽しい本だし、お薦めです。

2011-05-23

「伝記」という救い

カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドの名を知ったのはほんの数日前。久しぶりに会った友人が「誕生日プレゼントに」とくれたのが彼の「バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年録音)」。こういうプレゼントができる女性はほんと憧れる。

私は(何事にもそうだけど、こちら方面もまた)まったく知識がない(感性もないが…)。ただ、ピアノの音色はたいそう好みなので、いただいたその日から繰り返しかけている。さらに、ちょうど誰かの伝記を読みたいと思っていたときだったので、タイミングよく通りがかった彼の伝記「グレン・グールドの生涯」を読み始めた。

これまで誰かの伝記を読みたいと思い立ったことはなかったのだけど、ここしばらくの気分がそこに救いを求めているように感じられたので(歳だ…)、何かないかなと探していた。しかし「伝記」で検索すると、ビジネスの上で大成した人の著書が並び、どうもしっくりこない。今読むなら、私の中でなじみがなく、つかみどころのない分野の人の声が聴きたい気がした。

そんなときに通りがかったのがグレン・グールド氏で、そうそう、こういう人の伝記を求めていたのだと。つまりCDをいただいた流れで、ほとんど何の事前知識もなくこの本を買った。風に誘われたのだ。そして翌日Amazonから届いた本のページをめくると、「あぁ、私はこの本に今出会うべくして出会ったのだ」と思った。基本、非科学的人間です。

伝記において本当に大切なのは、その人物が何を思い、考えたかであって、その人物が何を成し遂げたかではない。−グレン・グールド

まさしく、私が「伝記を読みたい」と思った核心がそこに記されていて、しかもこういった思いをもつ人の人生に触れたくて私は伝記を読みたがっていた。といきなり言い当てられた気がして、この一節を冒頭にとらえたときは本当に驚いた。

というわけで、届いてみたら550ページ以上ある大作だったのだけど…、のんびり読み進めている。天才の心のうちを覗ける読書とは贅沢である。とりあえずこの本を読み終えるまで、この気分ともよろしくやっていこうか。それじゃ遅いか。そろそろ時間いっぱいである。

2011-05-10

臆病者の想定範囲

私の好きな漫画に樹なつみさんの「オズ」というのがある。漫画は中学卒業以来ほとんど読まなくなってしまった&手放してしまったのだけど、これは手元に残してあって、3.11の大地震の後に久々に(10年ぶりか、20年ぶりか…)読んだ。1988年~1992年の作品で、当時は中学生だったかリアルタイムで読んでいた記憶がある。

話の設定としては、1990年に第三次大戦が起こり、世界は核ミサイルによって崩壊。全世界の軍事基地や主要都市、産業施設が消滅し、半年ほど続いた氷河期によって植物は完全に枯死、生存者中25億人は凍死・餓死に至り、全世界では内乱が多発、地球規模の戦国時代が到来。その31年後の2021年10月からお話が始まる。サイバノイドとかバイオロイドとか出てくるSF漫画。少女漫画に類すると思うけど、主人公は傭兵で東洋系の男性(すごいかっこいい)。

2011年の実世界に立ってみると、こっちはこっちでとんでもないことになっているわけだけど、あらゆることを想定範囲内におさめておきたい臆病な私は、なんとなく目安として、最悪このマンガの設定が起こるようなところを極限値として心に置いている感がある。

核ミサイルで世界がほぼ消滅して、氷河期が到来して、その自然の驚異に人間のなす術はないというようなことが明日起こるとも限らないという。この漫画に出てくる「ホモ・サピエンスは結局戦争という手段でしか人口調節も発展もできやしないのさ」という台詞も、人間のイメージとして一方の想定範囲の際に置いている感がある。

もちろん頭で想定範囲内におさめているだけで、実際にそんなことがあったら身体がどう反応するか想像もつかないけれど。

別に世の中や人間をすごく悪く見ているとかではなくて、想定範囲の一方の際を、そういう徹底的な「底」に置いておくことで、いろーんなことが起こっても自分の足元が「想定外…」といってふらついてしまうことがないよう足場を固めておいているというか。

その上で、視線はあくまで想定範囲のもう一方の際にやって、上を向いて歩いていくというのが、個人的に落ち着く身の構えなんだろう。この構えをとっておくことが、私に明るい未来を希求しやすくさせている。

このバランスで自分を成り立たせるっていうのは、いつ頃覚えたんだろう。まさしく臆病者の知恵で、幼少期から無意識に築いてきた心の持ち方なのかもしれない。再読してそんなことを思った次第。一応感想文。

2011-05-08

娘の分際

3日は、母の日のカーネーションを買って実家に帰った。夕方家に着き、遺影の前にカーネーションを。その後、父は就寝するまでの5時間ほど、ほとんどぶっ通しでしゃべり続けた。前回の帰省時からその日まで、大小さまざまな気がかりがたまり込んでいたようで、とにかく一つひとつ話を聴いては荷解きしていたら、5時間経過していた。この間に30個くらいのもやもやは晴れたのではないか…。

翌朝はお勤めしていたときのスーツ類を整理したいというので、一着一着クローゼットから出しては、これはいる/いらないの判断をして分類。台所にある使わなそうな調味料も、常備薬の箱の中にある使わなそうな薬も、気がかりだけど捨てられない…と困っているようなので、一つひとつ手に取っては品定めして、いる/いらないをざくざく分類。

要するに「いらない」とは思っているのだけど、もったいなくて自分では「捨てる」という判断がつかないという類いのもの。ものがない時代に生まれて「もったいない」がしみついているのだとは本人の弁。さらに一つひとつが母が買ったもの、母が使っていたものと感じられるところもあるのだろう。

とはいえ、虫さされの薬なんて使用期限をみてみると2001年もの、2005年もの、2009年もの、2012年ものと何本もあって(どのお宅でもそうなはず!)、「これはさすがに2012年もののラナケインだけでいいでしょう」と。すると父が「いや、2009年のは残しておこうか」とか言うので、「いや、2009年のも十分使用期限ぎれだし…」とたしなめて捨てるコーナーに。

でも確かに、こういう作業は二人であーだこーだやる分にはおかしみもあるけれど、一人ではやる気にならないものだ。ちっちゃな文字で、チューブの端に書かれた使用期限をチェックしていくのは億劫だし目も疲れる。そんなわけで、調味料の類いも同じように賞味期限ぎれのものをあーだこーだ言いながら整理。いやー、すっきりしたと父が安堵の表情を浮かべていて、これもよかったよかったの一件落着。

それから、お寺さんとお墓に足を運んで新盆と墓石の情報収集。帰りに伯母の家に立ち寄り、新盆の予定の情報共有におしゃべり。父がしゃべりたいことは父にしゃべらせて、言い損ねていることは「あと新盆の話」と促し、父が私に言ってほしそうなところはこちらで話を引き受け、従姉妹に「まるで秘書みたいね」と言われたが、一応母に代わって似非パートナー。

兄と妹と電話でやりとりし、新盆の予定も目処がたって、母の洋服ダンスにも一通り新しい防虫剤をセット。とりあえず諸々すっきり。なんとなく、今後の家族の中の自分の役割が位置づけられてきた感あり…。ひとまず大方今後の予定も見えたので、あとは一つひとつやっていくかという感じ。(似非)母さん頑張るっ。

父は毎朝起きると、まず仏壇のお水を新しくして、母にモーニングコーヒーを出し、続いて朝ご飯を作って母に出す。毎朝ありがとうとごめんねの言葉をかけているという。彼女のストレスを自分が半分でも負ってあげられなかったことを詫びているのだという。一人で出かける先は母との思い出の地。初めて一緒に暮らした団地にも足を運んだようで、写真を数枚撮っていた。どんな気持ちだったろう。

私が東京に戻る日、父は予定があって私より先に表に出ていった。「じゃあ、またね」と軽く挨拶をして。前日に父と私とで、いるものといらないものに分類したスーツの束は、2階の一室のじゅうたんに広げたままになっていた。私はその束を大きな透明の袋3つに分けて入れ、1階に移動し、「古着」と書いた紙を一袋ずつに貼った。次の市の有価物回収の日がいつかを調べ、何日の何時までにこの3袋を出しておけば有価物として市の人がリサイクルにまわしてくれる、雨天時はダメだそうなので翌週にまわすこと!と書き置きを残して東京に戻った。

つまるところ、娘にできることというのは、そういうことであり、それくらいのことでしかなく、それをこそすべきなのだと、そんな気がしたのだった。適当に選んだ慰めの言葉は、意味をもたないどころか、より一層の自責の念を生むことになりかねない。娘が父にかける慰めの言葉なんて、毒になることはあっても父を救うことには働かないだろうと気が引ける。父が私に、あなたのせいじゃないと言われて、どう救われるというのだ。

ただ私にできることは、父が吐く言葉一つひとつを丁寧に受け止めること。そして、こまごまとした父の気がかりを晴らすこと。例えば、父の古着を3袋に詰めて書き置きを残すこと。自分のために面倒な作業をかって出る娘があることの記憶は、少なくとも娘が父にかける慰めの言葉より救いがあるに違いないと信じて。父からは晩に「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」とメールがあった。

2011-05-03

コミュニケーションデザイン事例

この間近所の喫茶店で本読んでたら、向こうの席から電話の着信音が聴こえてきたのよ。それもけっこうなボリュームで思いのほか長くなり続けるもんだから、みんな「早く止めなさいよー」って顔で発信源の彼に目をやったの。

その喫茶店、レジとかは1Fにあるんだけど、客席は階段くだった薄暗い地下にあってね、そりゃもうひっそりこじんまりって感じなのよ。そのときはお客さんも全員一人だったもんだから、音がなるまではしーんと静まり返ってたわけ。そこに大音量の機械音がいきなり割り込んできたもんだから、そりゃもうみんな一致団結していらっとした表情だったわ。

それなのに当の彼は、端っこの席で微動だにせずよ。なーんか無表情でスマートフォンっていうのあれ、ちょっとおっきな携帯電話の画面に釘付けで、のほほーんとしててさ。してやったり…みたいな顔してたら、それはそれであれなんだけど。

で、何度かなった後その着信音が止まったの。彼が止めたのね。みんなふぅってため息ついて私も手元の本に視線を戻したんだけど、それが今度は別の着信音なりだしちゃったわけよ。それもまた何コールか続いて。ひと呼吸したと思ったら、また違う音がなりだして。どうやら彼、のんきに着信音選び始めちゃったらしいのよ。笑っちゃうわよねー。

それでみんな、眉間にしわ寄せてまた彼睨みつけて。全員無言で一致団結して「え、着信音選び、この静かな喫茶店で、音出してやるわけ、やり続けるわけ?」って表情よ。

で、これまた彼が無反応ときたもんだ。表情も変えずに音選びに集中してるのよ。次へ、次へって音替えていって、着信音のコーナー通り越して「チャチャッチャチャッチャチャッチャラー、ルパン・ザ・サァード♪」とか流れてきちゃってさ。みんな「なんなの!この非常識。こっから何曲聴かせる気?ムキキーッ」って感じよ。ただでさえさえない喫茶店の空気がさらに…って、あら失礼。

でもさ、さすがにおかしいじゃない。ひっそりしたさえない喫茶店で、大音量で音選びってどんな遊びよ。で、チラ見じゃなくてしっかり彼のほう見てみたら、あらやっぱり。彼の耳にイヤホン入ってるのよ。

あたしもさー、最初はなんなんだかと思ってちょっといらっとしちゃったけど、それ見たらもう一気に気の毒になっちゃって。だって全然悪気ないのに、この店中の客からものすっごい目で睨まれてるのよ。私ももうちょっと早く動いてあげたらよかったのに、腰が重かったって反省したわ。

それで自分の席から「あのー」「すいませーん」って声かけたの。でも没入してるから気づかないのね。イヤホンしてるし。で、彼の視界に入るように手をぱたぱた、腕をじたばたさせて「すいませんー」ってやったら気づいてくれて。みんなこっち見てたわ…。一応英雄扱いだったから、こっちに向けられた視線は痛くなかったけど。「言え、言え、言ってくれー」って感じ。

で、「え、あ、はい?」って反応した彼に言ったの。さぁ、なんて言ったでしょうか。あなたなら何て言う?私はこう言ったの。「音がもれているようなんですけど」って一言。それで彼が「あ」って気づいて、そこで音が止まった。これで一件落着。そのまま視線を本に戻して、喫茶店を平穏ムードに。

あたしがここでやりたかったのは、音を止めることもあるけど、店中の人に「彼は無神経に音を出してたんじゃなくって、イヤホンをさしていて自分では音が外でなっているなんて思っていなかったんです」ってことをわかってもらうことだったのよね。

これを「その音うるさいんですけど!」で済ませちゃったら、彼にも他のお客さんにも本当の平穏は訪れないじゃない。だから彼の席まで行って静かに注意してもダメだったわけ。みんなに居心地の悪いものが残っちゃう。だからこの一言を、自席からさりげなく、大々的に発表する必要があったのね。

って今、そんなややっこしいこと設計立ててから行動してるのかって思ったでしょう。そんなことあるわけないじゃない。しかもプライベートで。ここに書き起こしたこと、ほんの1分程度のことよ。そんな1分積み重ねて毎日過ごしてたら気がくるっちゃうわ。後から考えてみたら、なるほどなぁって話よ。

つまりね、後から分析して語られるほど、本人はそのとき考え抜いてやってないってことよ。世の中の大方ってそうなんじゃないかしら。完璧に調べ抜いて考え抜いて、型にはめてから始めようなんて言ってたら日が暮れるどころか、人生尽きちゃうわ。

イヤホンに気づける自分、気の毒だなぁって思える自分がいれば、言うこと為すこと自ずとついてくるものよ。なりたい自分より、ありたい自分。自然体の自分をしっかり育てとけってことかしら。ちょっと違うかしら。まぁいいわ。なんでこんな文体なのかって、気分よ、気分。

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