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2011-04-30

Facebookの謎

ちまたで話題の「フェイスブックインパクト つながりが変える企業戦略」を読みながら、Facebookについて自分の思うところを言葉にしてみた。私は個人的に使っている立場にすぎないんだけど。あと、まだ本は前半しか読んでいないんだけど…、文章が長くなってしまったのでとりあえず一区切り。ともあれ確かに、この本は読み応えがある。

●アクティブユーザー6億人の「アクティブ」とは

まず、「フェイスブックのアクティブユーザーは6億人」と言われ、この本の冒頭にもそう書いてあるのだけど、「アクティブ」ってつけられると、とりあえずアカウントはあるけど使ってはいない人を排除しているように見える。だからログイン頻度とかからみて、アクティブさんの数を割り出しているのかしらと思ったけど、そうでもないふう。普通に登録ユーザー数っぽいんだけど、ではなぜ「アクティブ」とつけているのか。それとも、やっぱり単純な登録ユーザー数ではないのか。

何にしても私の周囲をみまわしてみると、ネット系の仕事仲間、海外とのコミュニケーションが活発な友人以外で実質アクティブ感漂う人はおらず。少し前に学生時代の友だちがちらほら登録する時期もあったけど、概ね「よくわからない」「何が面白いの?」といって現在沈黙中。というわけで現状一定の誤差は確実に存在し、6億アクティブはないだろうという肌感覚。

でもその数字が何であろうと、世界中で一番登録され利活用されているSNSがFacebookということに間違いはないのだろうし、数字が大きすぎて「とりあえず億」ってことでいいじゃないかという気がするので次の謎へ。

●アクティブユーザー6億人に価値があるのか

6億のアクティブユーザーがいるとして、その「数の大きさ」が1社の企業戦略においてどれだけビジネス上の価値を高めるものなのか。世界でも名だたる企業群がマーケティングに活用するっていうのは、まぁいろいろ仕組みを考えて活用するんだろうなぁと思うのだけど、グローバル展開していない多くの中小企業にもおしなべて、この6億という数字が、その数をもって特筆すべき価値になるのか。それとも、やっぱり活用して有益なのは一部のグローバル企業に限定されるのか。その辺が曖昧なまま「6億」を強調することで、Facebookをうさん臭く見せてしまっていないか。

6億人相手にビジネスする企業は限られているし、一般にマーケティング戦略ってシャープにターゲットを絞り込んでこそゴールに到達できるってものではと考えると、「6億人相手にビジネスできますよ」っていうのはこれと真っ向対決していて腑に落ちない。

この辺を、本では3章で丁寧に扱っている。これまではそれこそ「グローバル展開なんてとんでもない」と思っていた企業が、Facebookが提供する英語化対応の手軽さを手にすることでグローバル展開に踏み出しやすくなるという逆転の発想みたいな提案をされていて、なるほどと思った。この章の文章はすごく地に足ついていて、「6億」ではないFacebookの価値を丁寧に書き起こしている。Facebookと企業戦略を実際的に結びつけたこの本の屋台骨になっていると思う。

●Facebookは今後、企業戦略上の利用価値を伸ばすのか

私はSNSって、この先みんな複数サービスの登録が基本になっていって、それをうまいこと用途に応じて使い分けていくスタイルが定着していくんじゃないかなと想像している。その一つとしてとりあえずほとんどの人が登録しているのがFacebookであり、「全世界とつながる/社会的な自分として参加する」みたいな特長を活かしてみんな活用していくのかなと。ただそれ以外にも、自分の住む地域社会や文化、趣味・嗜好に合ったSNSを、各々選んで登録・利用していくようになるのが自然な流れかなと思っている。

ある分野が成熟していく過程って、多種多様なサービスが出てきて、利用者の選択肢が広がっていって、それがまた淘汰されたりして残ったサービスがより良いサービスに育っていってという流れをたどり、ユーザーは「広く浅くの全部入り」より、「狭く濃厚な個別最適」サービスに傾倒していくもんじゃないか。そうなると、私たちはFacebookといくつかの生活密着型SNSの利用者になり、後者のほうをより頻度高く、滞在時間長く、購買行動と密接に関連づいて使っていくのではないかと。

生活密着型SNSはユーザーが分散するから、ユーザー総数でいったらFacebookは圧倒的であり続けるかもしれないけど、購買行動とどうつながっているかみたいなことで考えると、Facebook以外のSNSのほうが断然力をもってくるみたいなことになるんじゃないかなーと。そこに誘導するまでのAttention-InterestにFacebookが一役かう部分はあるんだろうというような。これは相当に素人考えの妄想。

●本当に全部つながっちゃっていいのか

なんでこんな妄想をしたかというと、この先のことを考えてみて、親も子どもも親戚も、小/中/高/大学の仲間も、バイト先/就職先/転職先/取引先も一緒くたにつながったようなSNSで、人はそうそう自由に個人的な振る舞いはできなくなるんじゃないかと思うから。

私たち世代はまだ一緒くた感が弱いけど、今の子どもたちとかってまず親とつながっているところからスタートするのだろうし、それで例えば反抗期を迎えてFacebookに別アカウントを用意するかなぁと思うと、いや趣味・嗜好、仲間とのSNSはFacebook以外でアカウントもって、全然別の場所で楽しむんじゃないかなーと。

幼い頃や若い頃の一連の人間関係が全部つながっちゃってるSNSって、けっこう人間の精神衛生上きっついんじゃないかなぁと心配する。ある種、ぶちっと過去と縁を切れるのが前提になっている(必要に応じてつなぎあわせる)社会構造を保っておかないと、なんかもうこれからの人たちとか全部が全部つながりすぎちゃって困っちゃわないかしらと思う。

●ソーシャルメディアは人の行動や思考の全てを可視化しない

あと最後に、本の第1章は、役割的に読者のテンションをあげなきゃいけない立ち位置であったと拝察するのだけど、「ソーシャルメディアは人の行動や思考を全て可視化し、アーカイブしていく」っていうのはちょっと道理にかなっていない感。なんか揚げ足取りみたいになっちゃってあれなんだけど、でもこの言い切りはちょっと危険だなぁって思ったのだ。

そんな全員が全員、赤裸々に自分の行動と思考をソーシャルメディアに乗っけないだろうと。自分の行き先、食べたもの、ふと思ったことを全部外部に発信したい人ばかりではないって前提は忘れてはならない。ざっくり言えば、世の中の半数の人は外向けに発信すべき必然性がないかぎり、あえて発信行為には出ないだろう。

ソーシャルメディア上にのっかっているその人の発した情報から、一人の人間の全て、あるいは総体を捉えられていると思ってしまうのはすごく危険。私はその真逆であるべきと思っている。ソーシャルメディアにのっかっているその人の情報は、その人のある一側面しか表していないことをわきまえておくことこそ、必要なリテラシーじゃないかなぁと思うのだ。ここまで読んだあなた、偉い!

2011-04-29

「ミスター・ヴァーティゴ」の折り目

ポール・オースターの「ミスター・ヴァーティゴ」を読み終えた。読んでいる途中にふと思ったのが、この物語は一部の文章を切り取って額縁におさめるようなことが許されていないんだなということ。彼の作品は、あと「幽霊たち」と「オラクル・ナイト」しか読んだことがないので、彼の作品全般に思うかどうかはわからないけど、共通してそうかもって気もする。

私は本を読んでいて「おぉ」と思う一節に巡り会うと、ほとんど無意識にページに折り目をつけてしまうのだけど、「ミスター・ヴァーティゴ」の折り目を振り返ってみるとどれをとっても、そのページのその一節だけ取り出してもほとんど意味がないな、という結論に至った。

一文、一節を取り出して眺めると、まったくその真意を汲み取ったものになっていなくて、上辺だけ切り取った感じになってしまう。数行前までさかのぼって取り出してみたらどうかとやってみたら、むしろその不十分感は高まるばかりだった。

例えば村上春樹の小説なんかだと、その前後に語られるストーリーから立ち上ってくる真理を言い切るような一文が随所に埋め込まれていて、それらを取り出してtumblrに登録しておいたりできる。その一文には、まるでそうやって取り出されることを望んでいるかのように、登場人物の名前、ストーリーの具体的シーンに関する言葉が省かれている。実にシャープに、抽象的で、概念的で、普遍的な真理が、作者の発信したいメッセージとして語られているふうがある。

一方この作品には徹底してそういう一文がない気がする。ストーリーから完全に独立したような文章を入れ込まないように徹底されているふうがある。それでいて先々気がかりなストーリー展開のなかに、奥深い真理がしっかり織り込まれている上質さが感じられる。

勝手な憶測をすると、読者の頭の中に、作者の顔が浮かぶ機会を徹底して排除しているってことなのかもしれない。すべてはストーリーにのせて語る。土から引っこ抜いて花瓶に入れられて本来の生命力を損なわれてしまうことがないように、注意深く一文一文が編み込まれているような印象でもある。

村上春樹が「物書きの役目は単一の結論を伝えることではなく、情景の総体を伝えることにある」と書いていたけれど、オースターは徹底してそれをやっているのかなとも。それをして真理を伝えられる手腕をもっているってことでもあるか。

すべては物語の中につまっていて、物語の外に開けている、そんな感じ。骨太な真理を物語の中に埋め込みながら、その真理を一文で語りきることを徹底して排除することによって、オースターは彼が伝えたい真理を発信することと、その先で読者がそれぞれに生み出す多様な真理の可能性を限定しないことを両立させているのかもしれない。真理をどう汲み取るかを自らで語らず、読者側の頭で為すようしむけているってことかも。

って相当な妄想話だけど。彼の作品がどれも「物語」という表現がふさわしく感じられるのは、この辺に理由があるのかもなぁと。

2011-04-17

自然の擬人化

自然を擬人化して語るのもたいがいにしないとな、と思った。あんまり多用しすぎて、自然というと、もはや「本来の自然」より「擬人化された自然」のほうが頭の中に像として先に立ち上がってくるまで達していることに、はたと気づいた。

当たり前だが(と私は思うが)、自然そのものには意思も感情もない。海も山も空も、怒りを感じたりしないし、悪だくみもしない。意図的に何かするなんてない。天罰も下さないし、情けもかけない。何かの事象があっても、そこに意図はない。勝手にちっぽけな「人」の器に押し込んで語られたんじゃ、それこそいい迷惑だろう。ってまた擬人化してしまっているが…。

自然って冷静に考えると、人と比較したり人に置き換えて語るにはそぐわない概念だ。「自然と共存する」だなんて、ちょっと器が違いすぎて、改めて考えると馬鹿言っちゃいけないよって思う。自然の中で生きる者たちは横並びだ。人間と動物・植物の差異を人間ほど意識している生き物もいないんじゃないかってほど横並びだ。でも、人間と自然は横並ばんだろうと。

ってそれはそれとして、話をもとに戻すと自然には人がもつ意思も感情もないという話。「地球をよごしてくれるな」なんてメッセージも、別に自然がそんなこと思っているわけじゃない。自然を擬人化した人間の頭が、自然という擬人に語らせているメッセージにすぎない。人間が好き勝手やって、大規模な爆発起こして地球がふっとんだとしても、別に地球は悲しまないし憤らない。自然も地球も、何も思ったり考えたりしない。悲しんだり憤ったりするのは人間だ。地震も津波も、もちろん自然の感情の表れじゃない。

自然に自然という名前をつけ、地球に地球という名前をつけ、それを一つの概念として存在させているのは人間の仕業にすぎない。私たちが自然と呼んでいるもの、地球と呼んでいるものに、未練なんて感情はない。生存欲求もないし、存在価値を認めてほしいなんて欲求ももっていない。何かを実現したいわけでもないし、消えたくも消えたくなくもない。なくなったらなくなっただ。自然にとってみれば。と思っているんだけど…。

擬人化もほどほどにしないと、本質的なそれより擬人化されたそれのほうが先に頭に浮かんでしまって、そちらの像をもって語られている話に真っ向から向き合ってしまったりする。そんなことで人が傷ついたりするのは実に不毛だ。あったかい気持ちの中に、いつも冷静さを持ち合わせていたい。

2011-04-16

べそめも

実家に帰ってくると、やっぱりぼろぼろ泣いてしまう。まず郵便ポストのところで、母宛の郵便物を手にして、その時点でぐずっとくる。これを毎日父はやっているのだな、とも思う。玄関をあけて一歩中に入るとお線香の匂いがして、それでまた、少し距離をおいていた現実を感覚的に突きつけられる感じで、心がきゅっとしまる。玄関をあがると、まず洗面所に行って手を洗う。それから居間に入って、母のいる奥の応接間に向かう。母の遺影が、こちらを向いて微笑んでいる。それを見ると、もうぼろぼろ涙が落ちてくる。なんでおうちにいないのか。なんで写真の中で笑っているのか。どこにいったのか、今どこにいるのか。もういなくなってから2ヶ月も経つのに、相変わらず「ここにいるんだな」という具体的位置がつかめなくて、途方に暮れる思いがする。しばらく、特にこれという言葉も浮かんでこずに、ただぼろぼろ泣いている。そもそも千葉に戻ってきて、街を歩いている時点で、そこら中に母の思い出はあって、この街で正気で生活するのはなかなか…と思う。自分が東京で、どれだけ概念世界に偏って生きているかを痛感する。ともに過ごした土地に戻ると、わっと全身が対極世界に飲み込まれるのを感じる。人の気持ちというのは思いのほか、土地にひもづいているものなんだなと思う。ここに来ると、全身が途方に暮れる悲しみがあり、温かみがある。東京では自然距離をおいていた現実を、全身で受け止めて、身体が思い切り泣き出すのを、できるかぎり存分に泣かせてやって、バランスさせる。ほろ酔いの父の話を1時間ほど聴く。しっかりお見送りできて、遺体があってと、震災の不幸を思えばいくらでも、まだ良かったじゃないかという話は挙げられるのかもしれない。それでもな、それとこれとは別だよな。まったく私が思ったのと同じことを父は口にした。悲しみとは個人的なもの。比較できないものは比較するもんじゃない。個人的なものは、どこまでも個人的なものなのだ。個人的でない悲しみに、どんな意味があるだろう。

喪失と自由

ここ数ヶ月で、いくつかの大事なものを失った。ここまで見事に時期をまとめて一気にこられると、その意味を考えざるをえない。そして思えば、その時期を言いあてていた前世をみるおいちゃん、あながち適当なこと言っていなかったなぁと。いや、別に疑っていたわけじゃないけど。

ともかくここ数ヶ月、ごく個人的な、具体的な大ごとが重なり、相当にいろんな感情を体験し、いろんな考えを巡らせた。だいぶ鍛えられたし、成長もあった。そして今、ものすっごい潔く、等身大の自分を受け入れられている(気がする)。

私はなかなかこの、自分の潔さが好きである。あと、自分の弱さも迷いも、目をこらしてできるだけ仔細に観察して、メタ認知して、いつかの肥やしにしてしまおうという図太さも。今本当に立ち直っているのか、その気になっているだけにすぎないのかと自分に疑り深いところも。まぁそういうニッチなところしか褒めようがないとも言えるけど。

ともあれ、私にはもはや今月の仕事をまっとうすることと、父より先に死なないことくらいしか重く責任を負うところがなくなってしまった。という感があって、それをよくよく吟味して、咀嚼して、「喪失とは、自由を得ることでもある」というものすごい前向きな舵をきったところ。再び、のんびり、大海に出ようとしている。

それにしたって、これまで漠然と「70~80歳くらいまで生きるもんかなぁ」と思うでもなく思わないでもなくきたのに、ここにきて「例えば人生は59歳で終わる」というほうがずっとリアルな数字に感じられるようになってしまった。逆に言うと、自分が70とか80歳まで生きるイメージが消えてしまった。

ここ数ヶ月の出来事一つひとつを、自分がどう受け止めるかについては一通り整理ができた。あとはこの先だ。とりあえず、傭兵のタフさをもって生きていかないとやっていけないな、と思う。さて、どう生きるか。自由に、有意義に。で、どうしようかなーと考えながら、とりあえず毎朝泳いでいる。また、ここにもちょこまか書いていこうと思う。感じ、思い、考えること。

2011-04-05

「IAシンキング」講座と本

先述の「IAシンキング」本のChapter2-4にカードソーティングの演習があります。これはまさに弊社講座の演習ネタを使っていたので、ほほぉーと思って興味深く読んだのですが、使う道具や詳細設計が講座と本では微妙に違うので、鍛える筋肉も実は微妙に(マニアックにみれば大きく)異なっています。ということを掘り下げて考えてみたら個人的に勉強になったので共有メモ。

演習ネタが「料理本のメニューをつくる」というのは、講座も本も同じ。

  1. 味の素は、自社サイトで展開している「レシピ大百科」から人気のレシピをピックアップして書籍化することにした
  2. 今後、サイト内に蓄積されたレシピを編纂して、定期的にレシピ本を出していく予定
  3. 第一弾は、とにかくアクセス数が多いレシピを30個ピックアップして載せる

ということで、この第一弾の本の「目次」、そして「タイトル」を考えろというのがお題。つまり、提示された素材をよく吟味して、何らかの軸をもって分類し、本の目次を作成。ターゲットを定めてコンセプトを立てて、それを本のタイトルに表せという演習課題です。

で、本のほうはカードを付けるのが難しいこともあり、30個の「レシピ名」を一覧表にして文中に掲載しているのだけど、講座のほうはこちらでカードを用意してあって、チームごとに一組30枚を配って演習していただいています。

ここにちょっとした違いが出てくるのでして、本の一覧表をみて30個のカードを自作した場合、カードに書かれている情報は、本で情報提供されている「レシピ名」だけになるわけですが(つまり「肉じゃが」とか「焼きなす」とか)、講座のほうで配るカードには「レシピ名」のほかに「ジャンル(和・洋・中)」「カロリー」「塩分」「調理時間」「人数」「写真」が記されています。

つまり、提示される情報の種類が、講座のほうが多い。これは別に、優劣を語りたいわけでもなければ、演習の難易度がどっちがどうという話でもなく。情報量が多い講座のほうが易しく、情報量が少ない本のほうが演習の難易度が高くなるとも一概には言えないと考えます。どちらかというと、鍛える筋肉の核がずれる、違うタイプの演習になるというほうが適切ではないかと思うのです。

本のほうは、提示される情報の種類が「レシピ名」に限られるため、どんな分類が考えられるか、一から自力でタグ付けしていく力を養うことに主眼が置かれます。一方、講座のほうは、見えている情報の種類が多いので、まず普通は見えている情報からとりあえず分類を試してみることになる。

すると。この30種のレシピ、実は適当にピックアップしているのではなくて、「ジャンル」が和食に偏るようにしてあるのです。講座で配るカードは「ジャンル」が左上に書かれているので、とりあえずいろいろ分類を試してみようとカードをいじり出すと、まずたいていは「ジャンル」で分け始めるわけです。

そうすると、カードがあんまり「和食」に偏るので、これじゃ本の目次として不恰好だなということに気づく。「和食20品」「洋食7品」「中華3品」みたいな。必然的に、じゃあ他の分類でまた試してみようということになる。

そして、他の分類軸、例えば「カロリー」で分けてみようとか「調理時間」で分けてみようとか考えたときに、ただ頭で考えるだけじゃなくて、実際カードを動かして様子をみてみないと、さっきみたいに「分類してみたら不恰好だった」ということがあるかもしれないという懸念を抱く。そう直近で学習しているので、実際カードを移動して様子をみてみようということになる。そういう行動を誘発するように仕組んであるわけです。

そういうのがインストラクショナルデザインの一環で、実に底意地が悪いと思われるかもしれませんが、どうでもいいところで意地悪はせず、肝心なところに限っていかに意地悪できるかが大事なのであって、つまり腹は白いということをご理解いただきたい…。

そうして、カードをいろんな軸で実際動かしてみているうちに、いろんな分類軸、ターゲット、本のタイトルが、こちらの想定外の領域まで拡散的に発想されていくことを期待しています。さまざまなやり口を試していく時間の中で、手を動かしながらアイディアが広がっていく。答えはいろいろ、着地点は人それぞれ、ゴールはむしろ想定外のところに突き抜けていてほしいし、そういう創造的裏切りを起こすのが人間の尊さだと思っています。ただ、ある所を突破した上でその人ならではの創造的な答えを出すよう導きたい。それが再現性のあるスキルとして定着していったらいいなと。

なので、もし創造的な域に達せずに、カードに書かれている「ジャンル」「カロリー」「塩分」「調理時間」「人数」という与えられた枠組み(見えている情報)だけで分類を考え続けているようなら、ファシリテーターが頃合いを見計らって、「カードに書いてある情報で分類するだけじゃなくて、書かれていないことを分類の軸にしてもいいんですよ」と促す。そうして、ある所を突破するようドライブをかける。

最終的に目次・タイトルの決定に持ち込むと、だいたいチーム毎に異なるターゲットに向けた異なるコンセプトの本の企画が仕上がる。そこにたどり着くまでにどんな分類を試したかも、いくらかチームによって異なるというふうになります。

講座のほうで、「レシピ名」に留まらず、あえて情報の種類をやや多くしてカードを提供しているのは、実務面でもそういうケースのほうが多いと考えるからです。例えばクライアントさんからサイトに掲載する商品情報など素材をいただく場合、「商品情報」には、クライアント社内でタグ付けされた情報がなんらかくっついてくるはず。

その商品の管轄事業部名だったり、サイズなり定価の区切り方だったりが会社規定のものになって提供されるはずで、受け取る側はそれらのタグを意識的に着脱可能な状態に持ち込まないと、知らぬうちに事業部別の情報分類で済ませてしまうってことになりかねないと考えるわけです。

情報をもらった時点でタグ付けされている分類方法を意識して、自在に取り外したり区切り方を変えてみたりといった柔軟な視点が必要不可欠ではないか。そこにいかにユーザー視点を持ち込んで再分類できるか、中立的に情報を扱えるかみたいなことが欠かせないと思うので、その辺を考慮すると、カードソーティングの演習には一定の情報の種類をあえてくっつけて素材提供したほうがいいかなぁと考えました。

で、勉強会などでも使えるよう2種類のカードを作ってみたので、よかったらダウンロードして使ってください。

「cardSorting.pdf」(「レシピ名」だけのレシピカード)

「cardSorting_add.pdf」(付加情報ありのレシピカード)

リンク先のような名刺カード(A4紙1枚10面ミシン目入り)を買って出力したら、うまい具合に出てくれると思います。

ところで、そんなネタばらし、ここに書いちゃっていいのかって思われるかもしれませんが、たぶん大丈夫。これは出すべき答えのスタート地点をどう切るかって話に過ぎないし、本にも答えは載っていない。答えは自分で作るもの、というのが、あの本の言いたいことだと思うので。一抹の不安を抱えつつ…。

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