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2011-01-16

感情を取りに行く

実は、前に話を書いた翌々晩(あれは実家で書いていたのだけど、連休最終日に東京に戻ってきて)、一人になってからおうちで大号泣したのだった。「この気持ちは、強い」と書いた矢先のことでなんのこっちゃと思ったが、そのことについて書いて解きほぐしておきたい。

1月10日。

週末は実家に帰る。テレビを観たり、たわいもないことを話したり、ご飯を食べたりの時間を共有するばかりで、特別なことは何もしない。昔一緒に暮らしていたときと同じ、日常に近しい時間がそこにある。母が横になっている時間は長いし、家事は父と私でするけれど、実家にはあの頃と同じ空気がある。

ただ、実家にいるときは何気ない風景、たわいもない会話だったその一つひとつが、実家を出て東京に戻ってくると、一気に重大な思い出にさしかわったように感じられて、そう感じる自分がまた痛かった。

実家が具象の世界なら、東京は抽象の世界だ。東京に戻ってくると、ちょっと前まで実際に見えていた人、物、風景、出来事が五感から放たれて形を失うと同時に、概念化された状態で私の脳内に再上映される。

あるいは、形あるものが背景にまわり、これまで背景に隠れていた「今、私たちが置かれている状況」「この先、私たちが置かれる状況」のようなものが、廻り舞台が転換するように前景にせり出てくる感じがする。

もとが私は概念に寄っているので、実家でどちらかというと実際的な生活を営んで東京に戻ってくると、反動で概念のほうに振り切ってしまうようにも感じられた。そんなこんなで、一人になったところでもう一つの現実を眼前にし、大号泣に至ったと。

それでも、先週末家に帰ったことも、今週末家に帰ったことも、もちろん後悔していない。一緒の時間を重ねれば重ねるほど、失ったときの悲しみは大きくなるばかりなのに、という捉え方もできる。それでも、家に帰らないという選択肢を自分の中には作れない。どんなにその時間を得たくても、叶わなくなってしまう日が近づいてる。悲しみを増大させる以上の、大事な意味をもっていることに疑いの余地はない。

わかってる。人間は死ぬもんなんだって。早すぎるし急だとは思うけど、いつかはその日がやってくる、その自然の摂理に抗いたいわけじゃない。親のそれも、自分のそれも、いずれ来ることを受け入れる覚悟…、少なくともその意思はある。

ただ、人間はつらいことを忘れようとする、その忘却の流れには抗いたいのだ。時間が経つとどんどん、年末の宣告が嘘のように感じられていく。そのまま1ヶ月、2ヶ月と経ってしまいかねない。たぶん、このまま実家に帰らず、忙しく仕事をして、東京に留まって時間をやり過ごせば、ある時点まで極端な悲しみに覆われることなく、もしかしたらこの事で悲しむ人生の時間は短縮されるのかもしれない。

でも、それは私の方法じゃないなって思う。私は別に、そんなことを望んでいない。しっかり悲しみたい。そのほうがずっと、私の方法なんだと思う。その感情のすべてが母が生きた証になると思うから。

だから、悲しいことを忘れようとする心の働きが自然というなら、私はそれには抗いたいし、リアルタイムに感じるのは適度に留めておいて、おいおいその悲しみを受け容れていけばいいのだというなら、私はできるだけ今の大きさのまま、今の鮮明さで、自分が受け止められるかぎりの感情を受け止めたいのだと反抗したい。

悲しみを増幅させることになっても私は会いに行きたいし、感情を取りにいきたい。それは、悲しい感情を取りに行くってことじゃなくて、豊かな感情を取りに行く、交換しに行くってことなんだと思う。だから、つまり、一週間前の涙も、弱虫の涙じゃなかったんだってことでいいのかな、と。解きほぐれました。

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コメント

私も、弱虫の涙じゃないって思います。
後悔の涙を流すことの方が怖いって思う。

アラタさん
ありがとう!背筋がピンと伸びたアラタさんに、こう言ってもらえると、うん、大丈夫だって思えます。
そうね、後悔の涙はこれの対極。そっちの涙は流さないようにします。

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