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2010-11-07

スケッチを描く意味

@Yam_eye 先生経由で @takenouc さんのtweetを拝読。

後輩「、今はスケッチはCADでやるんですよ」、私「俺は手書きスケッチだよ」 後輩「え、もうデザインとかやめたほうがいいですよ。もうデザインは無理なんじゃないですか?」

これはまさしく、先日のエントリーで書いた問題が顕在化した例だと思った。「何が人間として重要な基礎体力であり続け、何は技術発展と引き換えにおのずと退化を厭わなくなっていくのか」。目的と品質と能率を見据えたとき、より有意義な答えはどこにあるのかが世代をまたいで議論される時代を迎えた。

この問題については、簡単に答えを決めず、じっくり慎重に見極めていきたいなぁと思っている。自分がそのやり方で覚えたという理由で若い人に古いやり方を推奨するようなことも避けたいし、かといって軽率に新しいものは良きものと、目先の効率を重視して移行を推奨するのも危険だと思う。齢34歳の私の立場からすると、前者に無自覚に固執しないよう注意を払いつつ、後者を採ることで効率と引き換えに、どんな品質への影響があるのかきちんと見定めて顕在化していきたいと思う。中途半端な捉え方では、年寄りの戯言として聞き流されてしまう。

昭和生まれの34歳、個人的には品質あってなんぼ志向の私が普通に受け止めると、上の例はやはり「手描きのスケッチ」に一票を投じたくなる。そこで、ではなんでそう思うのかなぁと考えてみた。そうしないことで、何が失われる危惧を抱くのか。

「描く」に留まらず、「読む」「書く」「聴く」「話す」「触る」「嗅ぐ」「見る」という直接に身体を使って対象と向き合う行為に目を向けてみた。インプットとアウトプットの行為にとりあえず分類してみたくなる。

インプット「読む」「聴く」「触る」「嗅ぐ」「見る」
アウトプット「書く」「描く」「話す」

そうすると、うーむ…とこの分類に違和感がわいてくる。実体験を振り返りながらより分けていくと、いずれもそう簡単にインプット、アウトプットに分類できるものではない気がしてくるのだ。身体を使ったこれらの行為は、それを成しているとき半自動的に、反対側も動くようになっている、そんな感覚がわく。

仕事をしていても、何か人の話を聴いていると、それを図式化しながらふんふんとノートに整理を始め、自然じゃあココとココをつなげてこんなことができるかなとか、あれの前にこの工程が入ればスムーズかとか考え出す。

「聴く」行為単体を捉えようとしても、そのすぐ周辺にさまざまなイン・アウトが交差し、ぴたっとひっついて、その境目が極めて曖昧になる。切り分けが難しい。「聴く」は確かにインプット行為、「描く」は確かにアウトプット行為かもしれないが、実際の「聴く」シーンを思い起こすと、「聴く」というインプットだけに留めて行為を続け終えることが、人間にはできないのではないかと思う。

インorアウトプット単体で言い終えられるのはあくまで概念の世界に限ったことで、実際の行為としては同時並行で自動的にインandアウトプット行為が作動するようになっている、それが人間って気がする。それが人間の特徴だとすれば、特徴は活かしたほうがいいと考えるが、その身体を使った総合格闘技的な人間らしい営みが退化していくことを、私は恐れているのだろうか。使わなければ特徴は退化する。

@takenouc さんは先のtweetの後にこんなtweetを残している。

探りながら或いは試しながら、手書きで描き記す行為は、探索や試行の結果を理解するために適したスタイルですね。対象に現れた種々の情報の理解のためにも、手で描くスケッチと言うのは向いているようですね。自分に合った手段を選択できるか否かがポイントですね

整理。頭の中のアイディアは、外在化をすることでより研ぎ澄ますことができる。そのため人は、一旦自分の頭の中のものを書いたり、描いたりしながら外在化する。その手段を何とするかが問われている。より本質的な対象の特徴を捉えようとするとき、より良いアイディアを生み出そうと試行錯誤するとき、より身体的な対象との関わりプロセスを挟むことで、その創作過程を良質化できるのかもしれない。

目的、品質、能率を考えたとき、自分が選べる手段は豊富なほうがいい。案件ごと最適なプロセスと手段を選べればいい。ただ気をつけなきゃいけないのは、身体を伴う手段は使いこなすのに鍛錬が必要だし、使い続けないと失ってしまうことだ。すると選べる手段は制限される。中途半端なメモだけど、とりあえず書き残しておく。

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コメント

微妙に違うけれど似た問題を考えてここにたどり着いて拝読させていただきました。
風景のイラストは、写真をフォトショップとかで加工して得られるイラスト風のものにどういう面で勝てるのか、というような。
ただ、やっぱり、単純にアウトプットだけを比べると似ていても、二つは別のものですね。特にデザインとか、新しいものを生み出す目的での模写というような場合には。

「微妙に違うけれど似た問題」というのが、すごく伝わってきました。そうですね、きっと両方を知って両方を生かしあうのがいいんでしょうね。勝ち負けでなく、別物とみて。
思考プロセスや制作プロセスの違うものには、最終形からくみとるものも違うところが表出してくるような気がします。それは、絵そのもののどうこうだけではなくて、描く側次第ということでもなくて、受け取る側の人間によっても、多様な汲み取り方というのがある気がします。2種が同じように見える人もいれば、まったく別のものと見る人もいるのだろうなぁと。話を散らかしてしまいました…。

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