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2010-11-28

「わかる」を分ける

「わかる」と「できる」は別物という話は、以前withDというサイトに連載コラムを寄せていたとき書いたことがあるのだけど、「わかる」に限った話でも、いくつかの「わかる」の解釈を混同してしまっていることが少なくない。

日常的に使われる「わかる」を私なりに4分類すると、

  1. その存在を知っている(名前を言える)
  2. その名前が意味するものを知っている(概念を述べられる)
  3. それをルールにのっとって使える(使い方をデモンストレーションできる)
  4. それを使いこなせる(それを用いて問題解決にあたれる、新しい価値を生み出せる)

みたいな感じ。

例えば「Twitter」。「最近流行ってる、つぶやいてどうのこうのっていうの。なんだっけ?三咲ちゃん、わかる?」「あー、ツイッターでしょ」「そう、それそれ」という会話で、三咲ちゃんは確かに「わかる」を成しているわけで、これが1番目の「その存在を知っている」。存在は知っているけど名前を言える程度の知識でも、1番目の「わかる」は成立させることができる。

続いて2番目の「その名前が意味するものを知っている」は、「で、Twitterっていったい何なの。三咲ちゃん、わかる?」に対して、これの説明(性質、特性など)が口頭なり筆記なりで述べられる状態。説明できればいい。使えるかどうかは関係ない。ただ、1番目の「その存在を知っている」は前提条件になるだろう。1番目の知識を前提に、2番目が成り立つ関係。

3番目の「それをルールにのっとって使える」は、「三咲ちゃん、ねぇ、Twitterわかるんだよね?会員登録ってどうすればいいの?ログインするのは?どうやってつぶやくの?フォローするのってどうやるの?」に答えられるか。やって見せられるか。ここでは、2番目のような説明ができなくても、3番目の「わかる」が成立させられることに注意したい。

4番目の「それを使いこなせる」は、例えばクライアントから「美咲さん、Twitter詳しいんですよね?実は上司からTwitterを活用したプロモーション施策をなんか考えろと言われていて。まずはTwitterわかる人連れてこいってことになったんですけど、一度ご来社願えませんか」と。こういう「わかる」の使われようもある。「美咲さんはTwitterのことよくわかってるよ」みたいな。美咲ちゃん、実はデキル女であった…。

この辺で使われる「わかる」は4番目。何らか問題が起こっている状態で、Twitterを使いこなし、その解決にあたれているとか。インプットの充実・効率化、人脈形成・コミュニケーション活性において、ほかのサービスでは得がたい価値をTwitterで生み出しているとかかしら。この「わかる」を実際に達成するためには、3番目の「わかる」はもちろん、1、2番目の知識も前提条件になってくる。

最後のは、冒頭で挙げた「わかる」と「できる」の区分けでいくと、完全に「できる」の話に入っちゃっているのだけど、日本語で「わかる」を使っていると、「できる」領域に踏み込んでいる「わかる」の使用が少なくないなと思う。上の4領域、全部「わかる?」という日本語でまかなっちゃっているケースが身近に結構ある。

ゆえに、発している側の「わかる」と、受け取っている側の「わかる」が、意味として大幅にずれているということも起こる。うまく応えられないと、受け手は「わかるって言ったじゃな~い」と思うが、「わかる」と言ったほうは「いや、わかるとは言ったけど、そこまでわかるとは言ってないよ」と思う。

ガニェさんの提唱する「学習成果の分類」では、上2つは「宣言的知識」、下1つは「知的技能」と区分され、別物として扱われている。これは非常に理に適っていると私は思うのだけど、このまったく別物の2種類「宣言的知識」と「知的技能」を含んで、いずれにも「わかる」という日本語を適用していることが、時に混乱の素になるのだと思う。

いちいち日常生活で意識する必要はないけれど、仕事場面で「わかる」を使うときなんかは、自分が何をわかり、何がわからないのか、少なくとも上2つ領域か下2つ領域かの2分類には整理して捉えておくとトラブルが少ないし、次の学習計画も立てやすい。

自分の「わかる」をいくつかに分けられるというのは、それこそが「わかる」を分けられる→「わかる」をわかる、ということであるからして。あるテーマについて、何がわからないかを説明できたとき、その手前までを「わかった」と言えるのではないかというわけわかめ。

2010-11-20

あまり使えない知識

棒読みするように覚えた知識は、人に言われれば「あぁ、知ってる知ってる」と返せるが、使える知識にはなっていない。だから、あの本を読んだ、このテーマのセミナーは受けたとは思い出せるものの、自分の日常を振り返ってみると、それを活かした実体験は思い出せないだろう。

これとは別に、使えるけどごく限られた文脈でしか使えていない知識というのもある。これをホワイトヘッドさんという人は「不活性知識」と名づけた。

例えば最近は、あるテーマについて教える/学ぶのに、ハウツーに限った教え方/学び方が少なくないが、その文脈でしか使えないとなると、かなり応用範囲が狭くなるし、ものすごいスピードで当たり前のやり方が変化していく現世では、その知識の寿命は大変に短いものとなる。そうすると、廃れてはまた新たにゼロベースで習得することの繰り返しになり、結果的に大変非効率な学習プロセスを辿ることになる、と。

じゃあどうすればいいかって、ハウツーを学んだ場合にはまず、今日はハウツーを学んだのだということに自覚的になることだ。そして、ハウツーを学んだということは、それを自分の日常に持ち帰ったときに、どう応用範囲を広げられるのか、そのためにはそのハウツーにどのような変更を加えないと活きないのか、それを息長く使える知識に昇華するためにはどのように解釈を展開すればいいのか、自分で考えることだ。

ハウツーに焦点をあてて教わった場合は、上に書いたような学習について、それをするもしないも、そこからどんな学びを経て日常に展開していくかも、完全に自分にゆだねられていると受け止め、学習を展開する必要がある。

ただ、いつもどんなテーマもハウツー中心で、そこからの帰納的学び方しかしていないと、すごく浅薄な学習体験しか知らないカラダになってしまう。

少なくとも、自分はこれを専門としているんだというテーマについては、演繹的学び方、それの原理、定義や方法論、応用展開などを基盤固めしていくような学びを積み上げていくことが大切だと思う。

そうすると、時代変化に応じてパーツパーツを入れ替えていくような学習も容易になるし、他のテーマについて学習するときに、どういう知識構造のなかの何を自分がハウツーとして学んでいるのか、あたりをつけて学習できるという副産物もある。

教える側は、ハウツーに焦点をあてた講座コンセプトだったとしても、可能なかぎり、応用展開しやすいように配慮してお話しすると、深みが増し、学習者にいろいろなイマジネーションの機会を提供できると思う。と、朝の走り書き。

※ちなみにハウツーは、それの興味関心をもつとっかかりとして有効なこともあるし、何より即効性が高い。なければ大変非効率な作業ともなるので、知識の必要性としてどちらが優劣と語りたい話じゃない。

2010-11-19

優しさと知性と色気

優しさには、知性が必要不可欠だと思う(注:今回の話は相当「心のうち」色が強いです…)。例えば私と誰かの間になんらかの問題が生じたとして、そのときまず、その事象を自分が解決すべき問題として捉えられるかどうか(いや、まず最初は「がびーん」「めそめそ」だとしても、その後に)、自ら問題解決にあたろうという構えをとれるかどうかが、優しさに知性を要す始まりの一つだと思う。

自覚・無自覚を問わず、放置したり、気づけなかったり、困ってはいるけれど自分が解決すべき問題としては引き受けられなかったりすれば、それは「うやむや」という状態になり、何らかのストレス状態を増幅させることにつながる。ぬるま湯につかり続けることはできても、それは本当の優しさの対極にあると思う。

では問題解決にあたる構えをとれたとして、先の道筋はざっくり3つ。私を直すか、相手を直すか、私と相手との関係性を直すか(間に取り決めを設ける等)。ここで知性を持ち出すのが適当かはわからないけれど、とにかくそうしたものがない場合、まず「私を直す」という策は意識の上にあがってきづらいのではないか。無意識に「相手」や「相手との関係性」のいずれかに問題点を絞り込んで解決策を練り出してしまいがちなのではないかと。

しかし、この「相手」や「相手との関係性」に問題点を置くという選択は、いずれも相手のほうに何らかの不自然な行いを強いることになる。このことに意識が及ぶだけの心の状態が自分の中にあれば、なんらか心にざわつきを感知して、視野を広げて再考できるのではないかと思う。

一方の「私を直す」という策に目をやると、自らに何らかの不自然を強いることにはなるものの、3つの策のうち自分にとって最もコントローラブルな対処法であると言える。では何故そこにまず目が行かず、コントロールしがたい外界の2つ(相手か、相手との関係性)に問題点を置き、解決を試みようとするのか。

それは自分の目から見た認識世界からしか事象を捉えられていないままに、問題解決にあたろうとするからではないかと省みた。相手の側から見て、あるいは第三者から見たときにも同様に、それは「相手」あるいは「私と相手との関係性」に問題を置くのがまっとうな話なのか。そう落ち着いて捉え直してみるのには、やっぱり知性的であることが必要不可欠だと思う。

認知は自分が決めている。必ずちがう見方が存在する。自分の見方が世界の中心じゃない。

肝に銘じておきたい。そういえば以前、こんな言葉をつづったこともあった。

優しくありたいと思って優しい人になれるわけじゃない。優しくしたい人がいるから、優しい人になれるんだよ。

誰かに対して、どこかの場面で、自然と自分の優しさが発動されてしまったとき、「あぁ、私けっこう愛情深い人間じゃないか」と気づかされるくらいが、本当の優しさなのかもしれないな、と思う。優しくありたい、愛情深い人間でありたいと繰り返し唱えても、優しくしたい人、せざるをえない場面がなければ、それはなかなか叶わぬ願いなのではないか。

「じゃあ、私の周りにはそう優しくしたい人がいないし、そういう場面にも遭遇しないから、私が優しくないのは環境の問題?」という問いがあるとすれば、そういうものでもない。その環境の見え方もまた、自分の認識次第だったりするから奥が深い。別の人から見れば、その対象は優しくしたい人であり、優しくしたい場面と捉えられていたりもするのだ。

優しさというのは、健康な心の幹のもとに、知性や、ほかさまざまな枝葉とともに、時間をかけて育っていくものなのかなと思った。そうしてある日、私と誰かの間に問題が生じて、あぁ困った、あぁつらいなと痛みを抱えて、それでもなお、優しくせざるをえない人がいて、優しくせざるをえない場面に遭遇する。そういうときに、自分の中に湧く優しさに触れて、苦しさの反面、「けっこう優しいじゃないか、私…」と泣きながら笑う。そんなもんかなと。

そんなうっとうしいことを考えてしまいました。まぁ、お世辞にも色気のある優しさじゃないな、という読後感。

2010-11-07

スケッチを描く意味

@Yam_eye 先生経由で @takenouc さんのtweetを拝読。

後輩「、今はスケッチはCADでやるんですよ」、私「俺は手書きスケッチだよ」 後輩「え、もうデザインとかやめたほうがいいですよ。もうデザインは無理なんじゃないですか?」

これはまさしく、先日のエントリーで書いた問題が顕在化した例だと思った。「何が人間として重要な基礎体力であり続け、何は技術発展と引き換えにおのずと退化を厭わなくなっていくのか」。目的と品質と能率を見据えたとき、より有意義な答えはどこにあるのかが世代をまたいで議論される時代を迎えた。

この問題については、簡単に答えを決めず、じっくり慎重に見極めていきたいなぁと思っている。自分がそのやり方で覚えたという理由で若い人に古いやり方を推奨するようなことも避けたいし、かといって軽率に新しいものは良きものと、目先の効率を重視して移行を推奨するのも危険だと思う。齢34歳の私の立場からすると、前者に無自覚に固執しないよう注意を払いつつ、後者を採ることで効率と引き換えに、どんな品質への影響があるのかきちんと見定めて顕在化していきたいと思う。中途半端な捉え方では、年寄りの戯言として聞き流されてしまう。

昭和生まれの34歳、個人的には品質あってなんぼ志向の私が普通に受け止めると、上の例はやはり「手描きのスケッチ」に一票を投じたくなる。そこで、ではなんでそう思うのかなぁと考えてみた。そうしないことで、何が失われる危惧を抱くのか。

「描く」に留まらず、「読む」「書く」「聴く」「話す」「触る」「嗅ぐ」「見る」という直接に身体を使って対象と向き合う行為に目を向けてみた。インプットとアウトプットの行為にとりあえず分類してみたくなる。

インプット「読む」「聴く」「触る」「嗅ぐ」「見る」
アウトプット「書く」「描く」「話す」

そうすると、うーむ…とこの分類に違和感がわいてくる。実体験を振り返りながらより分けていくと、いずれもそう簡単にインプット、アウトプットに分類できるものではない気がしてくるのだ。身体を使ったこれらの行為は、それを成しているとき半自動的に、反対側も動くようになっている、そんな感覚がわく。

仕事をしていても、何か人の話を聴いていると、それを図式化しながらふんふんとノートに整理を始め、自然じゃあココとココをつなげてこんなことができるかなとか、あれの前にこの工程が入ればスムーズかとか考え出す。

「聴く」行為単体を捉えようとしても、そのすぐ周辺にさまざまなイン・アウトが交差し、ぴたっとひっついて、その境目が極めて曖昧になる。切り分けが難しい。「聴く」は確かにインプット行為、「描く」は確かにアウトプット行為かもしれないが、実際の「聴く」シーンを思い起こすと、「聴く」というインプットだけに留めて行為を続け終えることが、人間にはできないのではないかと思う。

インorアウトプット単体で言い終えられるのはあくまで概念の世界に限ったことで、実際の行為としては同時並行で自動的にインandアウトプット行為が作動するようになっている、それが人間って気がする。それが人間の特徴だとすれば、特徴は活かしたほうがいいと考えるが、その身体を使った総合格闘技的な人間らしい営みが退化していくことを、私は恐れているのだろうか。使わなければ特徴は退化する。

@takenouc さんは先のtweetの後にこんなtweetを残している。

探りながら或いは試しながら、手書きで描き記す行為は、探索や試行の結果を理解するために適したスタイルですね。対象に現れた種々の情報の理解のためにも、手で描くスケッチと言うのは向いているようですね。自分に合った手段を選択できるか否かがポイントですね

整理。頭の中のアイディアは、外在化をすることでより研ぎ澄ますことができる。そのため人は、一旦自分の頭の中のものを書いたり、描いたりしながら外在化する。その手段を何とするかが問われている。より本質的な対象の特徴を捉えようとするとき、より良いアイディアを生み出そうと試行錯誤するとき、より身体的な対象との関わりプロセスを挟むことで、その創作過程を良質化できるのかもしれない。

目的、品質、能率を考えたとき、自分が選べる手段は豊富なほうがいい。案件ごと最適なプロセスと手段を選べればいい。ただ気をつけなきゃいけないのは、身体を伴う手段は使いこなすのに鍛錬が必要だし、使い続けないと失ってしまうことだ。すると選べる手段は制限される。中途半端なメモだけど、とりあえず書き残しておく。

2010-11-05

成長と拡張のはざま

前回から1週間と間をおかずに催された第三回インタラクションデザイン研究会に参加。テーマは「技術とデザインの身体性」、登壇者は慶應義塾大学の山中俊治教授と東京大学の暦本純一教授。私は講演テーマについて門外漢なのだけど(専門的な人がたくさん聴きにきていた…)、お二人の話を聴きながら考えた個人的関心事をのらりくらり書く。

暦本先生が、参加者からの質問に応える形で「身体に機能をつけることによって、自分は退化する可能性がある」というような発言をされた。私にはそのことが結構な関心事だったので、「おぉ、きた!」と、これにはすごく反応した。

山中先生も講演中、アスリートの義足のデザインを手がけているという話の中で、「義足をつける場合、実は1本より両足を義足にしたほうが速く走れる」というような話をされていて、こちらも「やはり…、ふむむ」と心に絡みついた。

これらを極端に推し進めて考えていくと、将来どこかの時点で「もう、素の身体はいっか」というパラダイムシフトが起こるのだろうかと思い至る。そして、今もすでに身体の“部分”に対しては、こういうことが浸透しだしているのではないかと。

例えば顔。化粧して厚塗りすれば、素肌は荒れる。それでも厚塗りするという選択は、もう当たり前にあるのだろう。髪にパーマ、耳にピアス、背中に刺青。「素の身体の“一部”が欠損・劣化・退化しても、他に価値をおいてそちらを選択する」という行為は、日常にあふれているように思う。背中に刺青はそうでもないか…。

例えば歯。歯が悪くなると、抜いてさし歯にする。これが2本3本…と数が増えていくと、いっそ総入れ歯のほうがメンテナンスが楽ということになる。健康な歯も全部抜いてしまえと(いや、わかんないけど)。また、嘘か本当か知らないが海外の芸能界?で、新人を売り出す前に全部歯を抜いて、美しい総入れ歯にしてしまうという話も聴いたことがある(もう十数年前の噂話だけど)。

こう考えると、身体の“部分”においてはすでに、事故や病気で悪くしてしまった/なくしてしまったから、代わりに人工物で補うという範疇ではなくなっている。ものづくりの観点でみると、発端は「なくなったものを、ある状態に戻す」という「修復」目的だったとしても、一旦それが世の中に存在してしまうと、人はそれに留まらず、「高性能化」「多機能化」「美容」「予防」と多目的にアイディアを練り、ものづくりを発展させていくのが必然だと私は思う。人はその応用範囲、可能性を考えずにいられない創造的な生き物だと思うから。

それが人の欲求に対応するものなら、その流れをビジネスが加速させる。老化しない、古びない、悪くならない、病気しない、怪我しない、痛みがない、面倒がない、より機能的な、より性能が良い、より美しい。そういう製品・サービスが生み出され、人々が身体の一部を取り外し、それを装着していく。それが浸透して時間が積み重ねられ、時間が時代というくくりになれば、文化的意味あいをももってくるのかもしれない。

こうして世の中が基本「ある部分に起こり、さまざまに応用され、全体へと多目的に広がる」巡りをしていると考えると、これは「身体を人工物に総入替」みたいな果ても、ありえないことではないよなぁと。今すぐではないし、全人類にってことでもないだろうけど。

「生身の素の身体」より、それを取り外してでも人工物を組み込んだ「外部装置込みの自分」の価値を高めることに重きをおく、という考え方が一般化される日。身体の一部ではすでに始まっているのかもしれないけど、それが身体の大半に移行する、その頭の切り替えを迫られる事件の一日が、自分が生きている間にあるのかなぁと。

その流れの中のどこかで「待った」をかける一つが、良識だったり倫理観だったりするのだろうけど、良識も倫理観も絶対的・普遍的なものじゃないから、どこまでが食い止めるべき、踏みとどまるべきことで、どこまでが時代に呼応して変化すべきことなのかって判断は、人によって答えが違って当然。違って当然なのに、人が判断するほかとりあえずなさそうでもある。この議論の数々に立ち会って生きるというのはなかなか意味深い。

もう一方で、何が人間として重要な基礎体力であり続け、何は技術発展と引き換えにおのずと退化を厭わなくなっていくのかというのも気になる。記憶力とか視力とかは退化過程にあるのだろうか。ゼロは困るが重要度は低まっていくのかな。長期的にみて、何が大事であり続けるのか、その見極めはかなり難題にして重大。そして何が新たに大事になっていくのか。

私は、人としての良識や倫理観を尊いものだと思っている一方で、古い考えに不用意に固執したくないと思っているし、無意識にそうならないように比較的注意深く生きている。何が基礎体力であり続け、何は時代によって変化するものなのかも、表層にだまされずに見極めていきたい。新しい時代の変化を快く受け入れながら、普遍的で本質的な価値に、ずっと焦点をあわせて生きていけたらなぁと思う。でも極力「素の身体」がいいなぁ。って、ほんとうに極めて門外漢の感想文に終わります。

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