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2010-03-25

報酬よりいいもの

「報酬を与える」というのは、子どものしつけなり、部下の指導なり、仕事関係の勉強会企画なり、効果的な学習を促すのによく用いられる方法だ。テストが○点以上だったら○○を買ってやるとか、優秀者には○○を贈呈とか、実にポピュラー。動物のしつけではこれが基本とも言えるだろうけど、こと人の学習においては負の効果をもたらすとする研究結果が数々ある。

ひとたび報酬のために何かをさせると子どもは自発的な興味を失い、報酬を得るためにその課題をするようになる。そして、その課題遂行のための自分なりの工夫をしなくなり、報酬がもらえるようてっとりばやい方法でいい加減に結果を出そうとする傾向が強くなるらしいということ

「人が学ぶということ - 認知学習論からの視点」(今井むつみ・野島久雄著)

「報酬を与える」というのは、確かに理に適っている面もあるし、奏効することもたくさんあると思う。短期的に具体的な成果を上げやすいとも思う。ただ、だからといって、非選択的に、安易にそれに手を出したくないな、と思う。報酬がなくとも、というよりは、報酬を与えられない環境が確保されるからこそ、人は自然に、自発的に学習し続けられる面がある。そういう人の尊さを守りたいし、傷つけたくない。

人の学習を支援する立場としては、どういうやり方で動機づけるかについて、専門性と信念をもって選択できるようでありたいと思う。即効性を期待するものは報酬でもかまわないけど、もっと根源的にそれを学習する意味を感受してもらうことで、本人が永く自立的にそれに励んでいけるような学習を期待するなら、そうなるような仕掛けをつくるべきだ。

確かに、報酬を与えれば当人は目の前で喜んでくれるにちがいないし、支援する側される側、どちらも嬉しい気分になれる。それに、報酬ではない仕掛けを考えるより、「なになにを買ってやる」という報酬を考えるほうが楽なことが多い(いくらかかるかは別の問題だけど)。

なにせ、報酬ではない方法で学習を促すのは、けっこうな創造力を必要とする。その学習の面白さは何か、それができるようになるとどんなふうに喜ばしいか、その学習の根源的な魅力に迫っていく必要が出てくるはず。それを埋め込んだ仕掛けづくりが求められる。

だけど、報酬の喜びが短命で、それでは本当に意味があることにはならないと思い至るなら、そこは信念をもって考えたい。私はやっぱり、それを学習する根源的な意味をいかに感受してもらうかってことを考えながら、人の学習の場づくりに仕えていけたらな、と思う。だってそれはとても人の美しいところ、尊いところだと思うから。今朝ふと、深くそう思った。

2010-03-20

勉強会の構造づくり

講義やセミナーは、知識を習得するための学習手法じゃない。そこにはさほど貢献しない。これはよく考えれば当たり前のことながら、けっこう誤認されていることだ。

人は何もしなければ、話を聴いた20分後には4割を忘れ、1ヵ月後には8割を忘れる生き物。「エビングハウスの忘却曲線」で言われるその数字が何事にも共通するとは思わないが、この比率感は実際に自分の記憶をたどってみると、けっこう腑に落ちる数字じゃないかと思う(私だけじゃないことを祈る…)。

1ヶ月前に参加したあのセミナーの話の何割を覚えているか。これは「何もしなければ」の数字なので、聴いた話を活かせるように何らかの取り組みをする習慣がついている人は、もっと覚えている率が高いと感じるはずだけど。

セミナーに意味がないわけじゃない。知らないことに気づいたり、思い込みを排除できる発見の場として有効に働くし、忘れていた大事なことを再認識させてもらえる機会にもなる。自分が知らないことに気づく機会がなければ、その知識を習得するための努力もできない。そういう機会は他者との関わりの中でこそ得られるものだし、人が集う場に直接出向くことで動機づけられることも多分にある。短時間に多くの人に気づきを与え、心をドライブさせうるのも講義形式ならではのメリットだ。そうして多くの人が何かを持ち帰ってスタートを切れれば、そこには大きな意味が生まれる。

逆に言えば、「あぁそんなの知ってる」「あぁ、それは知らなかったな、へぇ」と思って聞き流しているだけでは、ほとんど何も残らない。つまり講義やセミナーの効果は当人によるところが相対的に大きいのだ。その話を受けて、その後自分がどうアクションを起こすかにかかっているから、それだけで終わらせている人には本質的な意味が生まれにくいとも言える。

仕事で学習の場をデザインする私はもちろんの責務として、参加する側もここの目的と手法の関係を正しく認識していると、もっと「自分個人の学習」と「社内外の人が集まる勉強会」の相乗効果を活かした学習ができると思う。特に仕事力の習得においては、片方だけではなかなか定着しないことも多い。

仲間同士で勉強会を企画するなら、何のためにやるのかを共有して、であればどういうやり方が効果的なのか吟味すると、もっとその場を活かせると思う。なんでもかんでも講義形式でいいというものではないし、講義形式ではつまらないからと演習形式を取り入れてみても、狙いにそぐうものでなければ、またそれに合わせて設計がなされていなければ、むしろ講義形式のほうが良かったね…ということにもなる。

私は、自分の仕事としては講義形式単体ではなくトレーニングやワークショップ形式を軸にしているけど、割ける時間と予算の条件を踏まえて意味のあるカリキュラムを生み出すには、それ一辺倒でものを考えていてもいけないと再認識した。

目的と対象をシャープに捉えて、割ける時間を前提に置いたとき、どこまでのゴール設定が妥当なのか、どこまでのゴール設定では無理があるのか、そうして設定したゴールに価値はあるのか、もっともっと考え抜けるはずで、それを踏まえた全体の構造づくりをする必要がある。まだまだ自分が磨けることはたくさんあるのだ。乱文御免なさい。とりあえず思いのまま。

器の入れ替え

自分の仕事の難しさを知った。これまでも知っていたつもりだったけど、もっと知った。こういうことの繰り返しなのかもしれない。自分なりの器をこしらえて、その中が満杯になるように仕事して、経験を積んでけっこう埋まってきたかなぁと思う頃に、それはもっともっと大きな器であることを思い知らされる。あわててその器に自分の仕事ぶりを移し変えてみたら、3割も満たないところで水切れてしまって、自分のおろかさを知る。

でも、そういうことの繰り返しなのかもしれない。一番大きな器がどんなものかわかるまで、じっとお勉強していても何も見えてこないし、誰の何にも役に立たない。小さい器からでもいいから、自分が見えているかぎりを目指して頑張って誰かの何かに幾ばくかの貢献をして、そうしているうちに、ある日もっと大きな器のあることが鮮明に見えるようになる。こんなに大きかったのかと愕然とする。いや、きっともっと大きいんだろうな、私には見えていないけど…ということにも思い当たる。

だけど、しっかり落ち込んで、しっかり受け止めて、しっかりはいあがる。そうしてまた、とりあえずは新たに移し変えた器を満たせるくらいの貢献ができるように頑張る。そういうことの、繰り返しなのかもしれない。

今日は自分の至らぬところ、まだまだやりきれていないことがどんなものなのか、昨日までよりずっとずっと鮮明になった。「何かをするとき、目的と対象を捉えることが大事」なんて、誰だって知っていることだ。だけど、どうだと鮮明で、どうだとまだまだ曖昧なのか、それをどれだけ確かに、シャープに捉えられるか、それを意味ある企画に展開できるかが、本当に意味のある仕事の本質なんだと思う。

私は、研修を提供する仕事を通して、大切にしたい人たちの大切な時間を奪う仕事をしているのだ。そこに割く時間を、奪った時間をどれだけ有意義なものにできるか。時間はあくまでご本人の時間なわけだけど、参加者の時間が彼らにとってもっともっと意味のある時間になるための仕掛けを作りこむのが私の仕事であって、その成功確率をもっともっと高めることはできるはず。

昨日まで自分がそれなりに鮮明に、深さのあるものと思っていた程度が、今はものすごく曖昧に、深さのないものとして見える。それは、まだ自分の力にはできていないものの、自分のモノサシはバージョンアップしたということ。しっかり落ち込んで、しっかり受け止めて、しっかりはいあがる。大切な人たちを、本当に大切にするためには、大切に思うだけじゃ足りないんだよ。

2010-03-08

34歳になる

この間、クライアントさんのところで研修を提供していたら、お世話になっているご担当の女性がすりよっていらして、「前から聞いてみたかったんですけど、hysさんておいくつなんですか?」と尋ねられた。「33歳です」と答えると、雰囲気的には「きょえぇぇーっ」という感じで驚かれた。いや、とてもしっかりしていて、品のある愛らしい20代半ばの女性であって、あくまで雰囲気的に「きょえぇぇーっ」だったという話ですが。

どうも、ご自身より3歳程度上?という見た目の印象だったということで、一所懸命「いや、でも、お仕事ぶりとかはもっとすごいと思うんですけど、見た感じが…」などとフォローしてくださる様子がなんともまぁ愛らしくて。とか思っている時点で歴然とした年齢差を感じざるをえない…。

ここ最近、久々の再会というご縁も多くて、10数年ぶりとかで再会した人にも「ほんと変わらないね…」と、どちらかというと呆れた感じで言われる私ですが、そんな私も明日で34歳になります。すごいなぁ、34歳なんて。明らかにオトナじゃないですか。でも34歳って、区切り的には中途半端で、33歳と34歳の境は比較的薄い。ただただ、次に控えているのが35歳っていうのが34歳独特の感慨ではないか。35歳の境界線を越えるときはけっこう衝撃が大きいと妄想する。

お姉さまには「34歳は大きく変わる歳なのよ、いい意味で変化の年になる」と言われた。ふーむ、そう言われると確かにそんな気がしないでもないなと思う。しばらく同じ土の上で奮闘してきたとも言えるし。35歳になって大丈夫なように一通り行っておくのが34歳って考えると、この一年はそれなりにまぁいろいろ土を耕したりならしたり、やることがありそうだなぁと。中途半端な気合いだな…。

まぁでも、基本的にいつも一生懸命生きようと思っているし、ある信念をもって健やかに素直に、時に勇敢に生きていれば、それなりにすくすく成長するもんなんじゃないの?と運命任せに生きているので、この一年も力まず、33歳ではなく34歳なりの私で、たのしく味わいながら生きていけたらなぁと思います。

きっといい一年になりますように。できることを伸ばして、これまでよりもう一歩、かたちにしていくこと、かたちを届けていくことができたらいいなぁとかは思っています。そんなわけで、この1年も「心のうち」ともども、よろしくお願いします。

2010-03-04

「今」「ここ」を味わう

今週はこの一年の中でも一つの山場みたいな一週間で、今日が主催のセミナーイベント(これは講義と演習の設計まわりのみの担当にさせてもらったので昨日の仕上げまでが山だったんだけど)、これに自分が一通り預かっている企業研修の本番が2社、あと一般向け講座の本番が2本ある。日曜から土曜までにまるっと収まっていて、連日本番であり、本番前夜であり、かつ本番前々夜みたいになっている。来週、再来週にも企業研修が控えており、それの講義・演習設計や場の構造づくりなどもある。

そんなこんなで、「忙しい日々が続いている」というのが一般的な言い回しだと思うのだけど、通常使っている「忙しい」という感覚とはちょっと違う。いや、だいぶ違う。忙しい状態というと、文字通り心亡くなってしまった感が否めないのだけど、そういう感じじゃないんだな。

いろんな感情がうごめいているかというと、そういうわけではないし、まったくそういう余裕はないのだけど、そのときそのとき、一つのこと、人たちに静かな心で向き合えている気がする。一つこれと決めて、その海の深海までもぐっていき、とにかくその人たちの声に耳をすまし、場を作っていく。これを一つひとつ、こつこつこつこつ。

こんな積み重ねをして当日、講師と受講者の間にこころよい表情の交換があり、受講者の反応から、あぁ、この時間に届けたいと思っていた核心が伝わったなぁと直感が働くとき、本当にうれしいなぁと思う。こんな伝えるのが難しいことを、こんな濃厚に本質的に伝えてくれる講師に心から感謝し、それを受け取って自分のものに展開していく受講者を頼もしく思う。あぁ、この人たちをこういう場と構造で巡り合わせることに貢献できて、よかったなぁと思う。

ぱっと見は研修終了時の一風景にすぎないかもしれないけど、その場を端からみていると、その空間には「とある研修会場の一風景」とは言いがたい空気感が感じられる。私はそういう空気の濃度にはものすごく敏感だ。目に見えるものではないのに、ほぼ目に見えている状態といっていいくらい。それで、すみっこで静かに真剣に感動してしまう。

もちろん、提供者が感動してものをいうことではないので、終わった後はあらゆる思い込みを排除して、受講者の声を聴いて、ご担当者の声を聴いて、アウトプットをみて、講師の声を聴いて、何が良くて、何が反省点なのかを整理するのだけど、本番の締めの時間くらいは、裏方として感じられる感動を誰よりも味わってしまう。

今がものすごくいとおしく感じられる。あぁ、本当によかったなぁって思う。私はそんなに「今」「ここ」を見るたちじゃなくて、どちらかというと少し先に焦点をあわせて動いていることが多いので、この「今」「ここ」を感じてうれしい、気持ちいいというのは、けっこう珍しい。

でも、あぁ、このためにやってきたんだなぁっていうのを、その場の空気感から自分の感覚器で直接受け取って、「今」「ここ」を堪能できる満足感っていうのは、いいもんですね。私はそういうのって、研修の場とか結構マニアックな場で感覚している気がするけど、これからもマニアックに堪能していきたいなと思う。

もちろん、やっていく過程では、もっと自分にこういうスキルがあったら、もっとここをシャープにできていたなぁと思うこととか、不足していた配慮とかもあって、反省もあれこれなのだけど、それもまた一つの発見として、一つまた一つ、できることを増やしながら深めながら、精進していきたいなぁと思います。

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