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2010-01-17

心の器にいれるもの

自分の心の器にいれるものというのは、大方自分の気持ちなんじゃないかと思うんだけど、それって世の中の何%くらいの人が大方そうしているんだろう。という、ここですでに拒否反応が出た人は、ご想像どおり「またかよ、hysー…」的内容なので今回は読み飛ばしたほうがいいかもしれないけど、次回は普通になるかもしれないので、また来てやって!(ってどこかのママさんみたいな…)

という注意を促しつつ本題。私は昨日書いたような話で、今いろいろな人の気持ち、というか具体的には4つの立場のかなしみを背負うような格好になっている。別にそれで誰かのかなしみが軽くなっているわけじゃないので、ただ「ような格好になっている」だけだけど。ただまぁ、人の気持ちを憑依させているような感覚で、あれこれ考えている。

だれだれの立場に立つとこんな気持ちが憑依してきて、だれだれの立場に立てばこういう気持ち、一方だれだれの立場に立つならこんな気持ちがわいてきて、別のだれだれの立場に立つとこんな気持ちなんだと。さらに、それぞれがこの先の節目節目で何を思うのかと時間軸を行き来する。

一通りぐるぐるまわってみては、もとのところに戻って、どういう方向性があるんだろうなぁ、自分が答えを出すんじゃないって前提のなかで、自分がやって有意義なこととか役割っていうのはあるのかなぁと考える。でもこれはすでに、いわゆる心のスペースから離れていて、頭のスペースでやっている。

心のスペースには、自分がいない感じがする。その主要と思われる4種類に、自分という立場は属していない感じがするのが、なんかやっぱりちょっとおかしいのかなと思う。これはなんなんだろうなと。書いていることが具体的でないのに、ほんとおまえは何を言ってんの!って感じだと思うんだけど、4種類の人の気持ちを主要とするなら、私という主体もその主要の種類(つまり当事者枠)に含んでおかしくない話なのに、そこに自分は含まれていないのが不思議なんだな。ってさらに意味をわからなくしているのか…。

今回の心の様子を見渡してみると、どうも私の心の器は、関わる人たちの気持ちを(もちろん今のとこ憶測がほとんどだけど)一つひとつ憑依させるためにすっかり空いていて、自分自身の心というのがあまり感じられない。これは人用に用意されている器なんだろうかという感じで、それは自分自身はひどく非情だったり主体性がないんじゃないかって疑わしくなるほどなんだけど、それはどう矯正できるってものでもないし、そういう性質なのかなって思っておけばいいんだろうか。それとも何か決定的に人として欠落しているのか。

そういえばまだ20代の頃に、今思えば実はこういう私の性質を指摘したんだろうなって思うことを言われたことがあった。指摘した本人はそんなつもりはなくて軽く突っ込んだだけのようだったので驚いていたけれど、私は不覚にもその軽い指摘を受けてぼろぼろ泣いてしまった。別にその言葉自体はなんてことないことだったと思うのだけど。

あれは、ここのところの、その頃はまだ無自覚だった急所をつかれた感じだったのかもしれない。そのときは自分で泣いている理由がわからなかったんだけど、今だったらきっと理由が自分でわかるから、そうなんだよねぇって返して、ある程度肯定的にそんな自分を受け容れちゃうのかなぁ。図太くなったものだ。

でも、それは人にどう思われようと自分の言葉に置き換えれば、非情とも主体性の欠落とも言い切れないものがあるって分かっているからと、天性の楽天家の私はそう思ってしまう。だからまぁ、そういう自分とつきあっていこうと思う。職業上はどちらかというとそれが適性だと思っているし、淡々と、淡々と生きているなかでも、私は自分のうちに自分であったかいものを感じられるなら、それが本物の熱にちがいないし、これを大事に育てていけばいいやと思う。自分が信じられるものって結局、自分が感じられるものでしかないし、それはみんなそうなんだろう。

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