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2010-01-30

「希望の仕事術」まえがき

昔ある上司から売上の目標数値を「前年比120%達成」と提示されて、「どうして120%なんですか?」と尋ねたら、「企業は成長を希求するものだから」という回答をもらったことがある。「なんでそんなことを尋ねるんだ…」という感じで、その人からするとひどく世間知らずな子にうつったと思うのだけど(まぁ実際世間知らずなのだけど…)、その後いくつか質問を加えたものの結局「なるほど、そうか」というすっきり感は得られずに、その時はその会話を終えた。

確かに売上が昨年対比100%を超えないより超えたほうが良いのはわかるし、そのように貢献したいとも純粋に思うんだけど、盲目的にその単一指標でものを考えて、それが期初にそのまま共有されるというのは、どうもバランスが悪いなぁと感じた。

世間知らずの天邪鬼に思われるかもしれないけど、決して揚げ足をとるような意図はなくて…、単純に考えて「企業の成長」にはいろいろな表れ、いろいろな希求の仕方があると思うから、最終的に売上・利益に目標の第一照準をあわせるとしても、最初から盲目的に「企業の成長=売上・利益の向上」で考えてしまうのは、ちょっと画一的にすぎないかなぁと疑問がわいてしまったのだ(面倒な部下…)。いろいろな希求の仕方が意識化された上での選択であれば全然ありだと思うのだけど。

極端に言えば、「売上あるいは利益などのお金面は昨年対比60%に落として、その中身をこういう形で250%の高密度に良質化していこうという方向性だって、企業の成長のひとつの形ではあると思う(実際の目標はもっと具体化が必要だとして)。そして今の時代背景でいうと、答えをどう出すにせよ、そういう領域も検討の上で答えを出していかないと厳しい時期にきているんじゃないかなぁと思う。

右にならえで旧来型の一般的な目標設定をしていても、どうにも首が回らなくなるんじゃないかしら。それってあなたは儲けたいからそうしたいかもしれないけど、世の中が求めているのかしらと。世の中にそれだけの大量消費欲求があるのかしらと。多様化の時代ってよくいうけれど、そことリンクさせて実際の動き方を変えるところまでいけないと、それをわかっていることにならないんじゃないかなぁと。

こういう、うだうだとした私のたわごとを、もっと明快な言葉で人に伝わるように言い斬っている感を覚えたのが、橘川幸夫さんの「希望の仕事術」のまえがきの一節。読んでうなった。

日本は、バブルの頃の経済の6割の規模で、あとは中身を充実していく道を進むだろう。量的規模を目指す時代から、内実の質を追求する時代が始まろうとしている。

中国やインドは、まだ国内に貧しさを抱えているから、かつての日本のような高度成長を目指す社会的モチベーションがある。しかし、日本はすでに豊かな社会を実現しているのである。これ以上、個人の生活を犠牲にして企業組織を拡大する理由はない。

企業の成長のあり方を、規模の拡大とか売上や利益の向上とかって、そういう分かりやすく一般化された指標だけでみる時代は、日本じゃもう終わったんじゃないかなぁという印象を強くした。

広告業界とか、自動車業界とかの業界限定ではなくすべての業界で、もう一度、経営理念に書いてあることをじっくり読み返してみる時期じゃないかなぁと思う。それを本当にしたいなら。私はそれを本当にしたい。会社やってるなら、深堀りして本質を考え抜くことを放棄しちゃいけないと思う。アノ時代とは違う目標を、今の自分の頭とか心とか体とか使って考え直さないといけないと思うなぁ。そんなことを思った読書体験。

2010-01-28

「いよいよ」の数値化

いよいよiPhoneか、そろそろiPhoneかと思って、その時期は「すぐ」なのか「半年後」なのかと考えてみたのだけど、まぁ半年後というか、今年の晩夏くらいかなと目処をたてた。のんびり…。

どうやらそう遠くないうちに次期iPhoneも出てくるようだし、(昨日の話を書いた後に)今のPHSを使い始めて2年経過するのは今年9月ともわかったので、その辺の頃合いで替えてみようかなと。まぁ、その頃にはいろいろ今年出るものが出て、ウィルコムの状況も見えて、程よい決断時期が到来しているのだろうと。

それにしても、「10年近く使っている電話番号」というのを基盤にしてモノを考えると、半年後とかが「いよいよ」とか「そろそろ」のうちに入ってくるから面白い。たぶん、これをベースにしていない私以外の人からみると、「いよいよが半年後かいっ!?」って突っ込みいれたくなると思うのだけど。特に、進化の速いデジもの購入がネタともなると。

つまり、背景を気持ちの上できちんと認識あわせしていないと、同じ言葉を使っても他の人は全然別のイメージをもっていて分かり合えないってことが多分に起こりうるんだよなぁということ。そして、気持ちの上で背景を共有できた人同士で交わす言葉は、とても強い。

というわけで、来年になっても同じ機種を使っていたら、誰か「オイ…」と一声かけてください。

2010-01-27

いよいよiPhoneか

今朝のニュースで、「ウィルコム、更生法活用で再建へ」というのがあって、いよいよiPhoneに乗り換えろということかしら…という風を感じてみた。

今もっているウィルコムのWILLCOM03というのがちょうど買ってから2年経つかなぁくらいなので(追記:調べてみたら今年9月で2年だった…)、購入時にささやかれた「2年使わないと損するよ」的な縛りからはそろそろ解かれる気がする。そんなことを思い始めて、少し前から「そろそろPHSをやめてiPhoneにでも変えたほうがいいかしら」と思っていたのだった(現代的生活への適応力強化のため)。

しかし、やはりアステルだかパステルだかの時代から10年近く、同じ070から始まる電話番号で生活してきた重圧があって、これが変わると何かと手続きが厄介だという縛りから、うーんとためらっていたのだった。

そこへきて、今朝のニュース。風ではないか。そうしなさい、そうしなはれやという孫風(そんぷう)が吹いておるのではあるまいかと。なので、ちょっと時間がとれるタイミングがきたら(くるのか…)、もしかするとそろそろ、いいかげん、10年近く使ってきた電話番号とおさらばするかもしれません。

それにしても、どこに電話番号の変更手続きをしなきゃいけないのかが洗い出しきれない…。まぁ、どうにかなるか。やるかやらないかは、心と時間の余裕の問題か。

2010-01-24

サラリーマンの贅沢

ここしばらく自社もの案件とクライアント案件が結構な数で並行して走っていて、さらに1月とあって旧知の皆さまとお会いする機会なんかもあれこれあって、スケジュールが濃密だった。

年末年始に出した企画たちは無事に受注が決まって、これから詳細落とし込みとあれこれの準備、本番へ。来期のご相談ごともちらほら入ってきていて、日によって頭に浮かべる企業さんの顔が違う。けれど、その日その時間は一つのことに集中して、そこの企業さんに貢献できるように仕事をしたい。当分のんびりとはいかないけれど、ありがたいことだ。

ここにいなきゃ、こんなご相談ごとが私のもとに舞い込んでくるはずもなく、やっぱりさまざまの機会を与えてくれる組織というのは、なんだかんだいってありがたいものだよなと思う。機会を与えてもらえば、そしてその機会に真摯に真正面から向き合っていければ、その積み重ねで人は育つものだし、人は価値を生み出していくものだ。機会が与えられない環境に身をおいたら、私は本当に何者でもなくなってしまうと思う…。

私が自分の仕事軸で尊敬する人はみんな会社の外にいるけれど、そういう人たちが社外であれ自分に刺激を与えてくれる距離にリアルに存在してくれていて、会社は自分が欲するさまざまの機会がふってくる場に役割を置いてくれている。三十路サラリーマンともなれば、これで十二分に贅沢な環境だ。

あとはこれを自分の中できちんと生かしていくこと。きちんと一つひとつお客さんのサポートになることを形づくっていくこと。自分の会社にも、関わってくれる社外の協力者にも、きちんと意味のあるものを残していくこと。その過程でまた社内外のいろんな人に支えられたり、導かれたりしていることに、きちんと気づいて感謝して生きていきたい。自分のなかにゆとりがないと、この大切なことが見えなくなってしまう。

そうして一つひとつの経験をきちんと積み重ねて、それがまた違う形に昇華されるといいなぁと思うけれど、生き急ぐのはやめよう。浅い経験のなかで全体性を捉えた体系化を急いでも何にもならないのだ。一つひとつをきちんと目的に適うようにやって、そろそろ集まったかなぁってふと思ったとき振り返ってみたら、自然ともう一階層上の体系とか別の意味が浮き上がってきたってくらいが私にはちょうどいいのかもしれないって思う。

大枠のフレームワークを最初にもっておくのは能率的だけど、それ以上はお勉強を続けていても仕方ない。機会をいただける場に身をおいて、その一つひとつで精一杯の価値を生み出す。その繰り返しの先に、本当に自分自身の内側から浮き上がってくる体系図とか新たな価値っていうのがあるんじゃないかなーと思う。あれ、何の話だっけな。まぁ、いいか。そんな2010年の始まりです。

2010-01-17

心の器にいれるもの

自分の心の器にいれるものというのは、大方自分の気持ちなんじゃないかと思うんだけど、それって世の中の何%くらいの人が大方そうしているんだろう。という、ここですでに拒否反応が出た人は、ご想像どおり「またかよ、hysー…」的内容なので今回は読み飛ばしたほうがいいかもしれないけど、次回は普通になるかもしれないので、また来てやって!(ってどこかのママさんみたいな…)

という注意を促しつつ本題。私は昨日書いたような話で、今いろいろな人の気持ち、というか具体的には4つの立場のかなしみを背負うような格好になっている。別にそれで誰かのかなしみが軽くなっているわけじゃないので、ただ「ような格好になっている」だけだけど。ただまぁ、人の気持ちを憑依させているような感覚で、あれこれ考えている。

だれだれの立場に立つとこんな気持ちが憑依してきて、だれだれの立場に立てばこういう気持ち、一方だれだれの立場に立つならこんな気持ちがわいてきて、別のだれだれの立場に立つとこんな気持ちなんだと。さらに、それぞれがこの先の節目節目で何を思うのかと時間軸を行き来する。

一通りぐるぐるまわってみては、もとのところに戻って、どういう方向性があるんだろうなぁ、自分が答えを出すんじゃないって前提のなかで、自分がやって有意義なこととか役割っていうのはあるのかなぁと考える。でもこれはすでに、いわゆる心のスペースから離れていて、頭のスペースでやっている。

心のスペースには、自分がいない感じがする。その主要と思われる4種類に、自分という立場は属していない感じがするのが、なんかやっぱりちょっとおかしいのかなと思う。これはなんなんだろうなと。書いていることが具体的でないのに、ほんとおまえは何を言ってんの!って感じだと思うんだけど、4種類の人の気持ちを主要とするなら、私という主体もその主要の種類(つまり当事者枠)に含んでおかしくない話なのに、そこに自分は含まれていないのが不思議なんだな。ってさらに意味をわからなくしているのか…。

今回の心の様子を見渡してみると、どうも私の心の器は、関わる人たちの気持ちを(もちろん今のとこ憶測がほとんどだけど)一つひとつ憑依させるためにすっかり空いていて、自分自身の心というのがあまり感じられない。これは人用に用意されている器なんだろうかという感じで、それは自分自身はひどく非情だったり主体性がないんじゃないかって疑わしくなるほどなんだけど、それはどう矯正できるってものでもないし、そういう性質なのかなって思っておけばいいんだろうか。それとも何か決定的に人として欠落しているのか。

そういえばまだ20代の頃に、今思えば実はこういう私の性質を指摘したんだろうなって思うことを言われたことがあった。指摘した本人はそんなつもりはなくて軽く突っ込んだだけのようだったので驚いていたけれど、私は不覚にもその軽い指摘を受けてぼろぼろ泣いてしまった。別にその言葉自体はなんてことないことだったと思うのだけど。

あれは、ここのところの、その頃はまだ無自覚だった急所をつかれた感じだったのかもしれない。そのときは自分で泣いている理由がわからなかったんだけど、今だったらきっと理由が自分でわかるから、そうなんだよねぇって返して、ある程度肯定的にそんな自分を受け容れちゃうのかなぁ。図太くなったものだ。

でも、それは人にどう思われようと自分の言葉に置き換えれば、非情とも主体性の欠落とも言い切れないものがあるって分かっているからと、天性の楽天家の私はそう思ってしまう。だからまぁ、そういう自分とつきあっていこうと思う。職業上はどちらかというとそれが適性だと思っているし、淡々と、淡々と生きているなかでも、私は自分のうちに自分であったかいものを感じられるなら、それが本物の熱にちがいないし、これを大事に育てていけばいいやと思う。自分が信じられるものって結局、自分が感じられるものでしかないし、それはみんなそうなんだろう。

2010-01-16

かなしいこと

とてもかなしいことがあって、ここ2日ほど気がつくとそのことを考えている。そのかなしいことに関わる人のことを思う度、目のふち全体が熱くなってきて、じわーっとする。

正解なんてないし、私は当事者じゃないから答えを決める立場でもない。だけど、このままこのかなしいことが完遂されちゃっていいのかなって思って、自分が下手に働きかけるのも無責任な気がするし、介入しないでただ行く末を見守るだけなのも、本当にそれでいいのかなって気持ちになる。何が自分のすべきことで、何は自分がすべきことじゃないのか、そんなことを考えながら、思考をぐるぐるさせている。

それと同時に、いろんな人の今の気持ち、それぞれの人がそれぞれに感じていくであろう明日、1週間後、1ヵ月後、春を迎え、夏を迎え、秋を迎えて、また冬がやってきて、1年後、3年後、5年後、その先もずっと節目節目に感じるであろう気持ちに自然思いがめぐってしまって、それはとても自分勝手な憶測なのだけど、止むこともできない。

まるで一番強度の高いところにあわせて掃除機をONにしたかのように、私は関わる人の気持ちの全部を推し量っては自分の体内に一気に吸引しようとしている。それで全部がもとに戻ったらいいのにって思っているのかもしれないけど、もちろんそんなことはできないわけで。私の中にどれだけ憶測上の人の痛みをつめこんだところで何の役にも立たないのだけど、そんな時間の過ごし方を日に何度かしてしまう。幸い結構案件が立て込んでいるので、仕事に集中している時間のほうが圧倒的に長いのだけど。

この間ラジオで、他の人が痛みを感じているのを見ると、それを受け取った人が自分の痛みとして感じる「ことがある」だったか「人がいる」だったかって実験結果が出た話をしていたんだけど、そういう感じで何か人の気持ちを自分の気持ちの上に憑依させつつ、それと話しながら自分はどうしたらいいのか、どうしないほうがいいのか考えあぐねているような感じ。

大切な人は、大切にしたい。大切な人を大切にするために自分がすること。もう少し考えて、動いてみようと思う。

2010-01-14

エアコン故障時のメモ

今朝は東京でも零下1度を記録したのだとか。ラジオからは「この冬一番の冷え込み」とか「明日は今日以上の寒さに」とか「この先も当分は…」とか聞かれる寒波のさなか。なぜエアコンが壊れるのか。一年前も前の家で壊れていた気がする。どうも暖とはご縁がない。

突然、家のエアコンの暖房機能が利かなくなったのだ。冷房にすると働き、暖房に戻すとまただんまり。しばらく電源を入れたままにしてみたら、知らぬ間に吹き出し口を閉じていた。さっきまで、とりあえず吹き出し口を開けるまではやっていたじゃないか!と突っ込んだ。が、それを境にして、電源ボタンを押してもランプを緑色に点灯するだけになり、最初から吹き出し口を開かなくなった。なんなんだ、この段階的に心を閉ざしていく様は…。

そんなわけで、今朝の一句。

霜の朝 エアコンこわれて 中も外

サラリーマン川柳みたいだけど…、「冬の朝」とせず「霜の朝」としたところに素人なりの努力がうかがえる。

エアコンが働かない中で、さてどうするか。とりあえず朝はお風呂(シャワー)であったまるところから。でもそう長くお風呂に入っているわけにもいかないので、部屋に戻る。すると1分で冷える。部屋の中では、起動してしばらく置いたノートパソコンの下に手をさしこんで、じわーっとする。さすがにそれだけでは無理があるので、数十分に一度洗面所に立ち、蛇口をひねり、手をお湯にひたす。じわーっ。小確幸。

で、先ほど修理やさんがいらした。どうも一時的な電気の誤動作かなにか(つまり気の迷い)じゃないかってことで、エアコンを担当しているブレーカーを一旦落として入れ直したら、復活した…。困ったときの再起動。どんなものでもそうなんだなぁと学びつつ、修理やさんに深々お礼。命の恩人。というわけで、本日は振替休日をとり、自宅作業とさせていただいております。

2010-01-11

言うか言わないか

茂木健一郎さんの「いかに生きるか」という講演の記録を聴いた( @tabbata さんのtwitterのつぶやきより)。素晴らしかった。茂木さんの熱のこもった、抑揚のある言葉。ユーモアもたっぷりで、聴かせるんだなぁ。1時間の講演だけど、終始聴き入ってしまった。

インターネット上の一部の匿名掲示板などを中心に(あと「オバサン」とか)、現代は「無意識の垂れ流し」になっていることを指摘。ここでのメッセージが熱かった。こんな感じのこと。

人間、いろんなこと考えますよ。そりゃ。悪いことだってあれこれ考えるでしょう。でもそれは、出してはいけないことなんです。何を出して、何を出さないか。心の中に浮かぶさまざまなことのうち、何を言って、何を言わないか、言うとしたらどういう言葉で表現するか。それこそが人間ならではの分別で、そこに人間の尊厳があるんです。(私の勝手な要約)

言論の自由はあるし、垣根なくいろんな人がいろんな人とつながって意見交換できるようになったこと自体は素晴らしい。けれど、昔は思ったことの100分の1も口に出さなかったところから、ふと思ったことをつぶやいて、それが多くの人に発信されるようなメディアを個人がもつようになった世の中で、私たちはそのツールの担い手として、思ったことの100分の100のうち、何をどこの場で発言するのか、それをどのような言葉に表すのか、これについてそれなりのリテラシーとか知性、それを受け取った相手の気持ちを推し量れる想像力をもたないといけないよな、と思う。

この講演、この話につづく後半もすごく素敵だった。草野球の「透明ランナー」って25年ぶりくらいに思い出したなー。身体を使った遊びと、コンピューターゲームの違い。コンピューターゲームは、「ルールが決まっている」中で遊ぶもの。一方、草野球とかって身体を使った遊びは、子どもたちが自分たちでルールから作っている(基本のルールはすでにあるにしても)。これが決定的に違うという。

透明ランナー(人数が少ない場合、塁に出ている途中で自分の打順が再びまわってきたら、透明ランナー制度を使って塁を離れバッターボックスに入る、打ったら透明ランナーは自動的に塁を進められる)とか、ちっちゃい子のときは下投げにしてやるとか、あそこの電信柱が1塁で、あのマンホールのところが2塁でと、確かに昔遊んでいたときって自分たちでルールを決めて始めていたことを思い出した。

人間は「ゲームが一番面白くなるように自分たちでルールを調整する能力」をもっている。これは、脳科学の専門家でもどうやってやっているのかわからないという。人間の神秘だなぁ。そして仕事をする上では、ルールを作る側の視野・視点と実行力を常に求められる。私はずっとその視野・視点と実行力をもって生きていきたいなぁと思う。

2010-01-06

不純な動機、できすぎた外見

“訳あって、今年の採用活動に出遅れます”というキヤノンマーケティングジャパンの「採用スケジュールに関する重要なお知らせ」が話題。キャリアカウンセラーの端くれとして、以前から新卒採用活動の異常な早期化は気になっていて、私は(いろいろ飲み込んじゃえば)基本この表明を肯定的に受け止めた…のだけど、いろいろ飲み込んだことをメモ。

ストーリーとしては、この決断の動機は「景気低迷、業績苦戦」だったんだけど、それをきっかけによく考えてみたら「学生が学業に専念する時間を大切にしよう」に至ったんだと。こうしたストーリーだと、今のネット事情ではリリース段階であれこれたたかれてしまうのは目に見えているけど、それも想定範囲内だったなら良いのかなと。

世間の素晴らしい達成の85%までは、不純な動機から始まっています。

って村上春樹さんの言葉は実に言いえているなぁと私は思うのだけど。この件も「女の子にもてたいから」とサッカーを始めた男の子が将来プロになって、それで活躍して子どもたちに夢を与えて、それの何が悪いのさ!っていうのとあまり変わらないかなと。つまり外野が何かを評価できるとしたら、その対象は動機ではなくて、実行したことがどれほど世の中的に意義深く発展を遂げたかってことかなと。

で、この件についてははっきりいって、今期だけではなんとも言えないだろうなと思う。つまり、まだ何かを評価するタイミングじゃないというか。来年とか再来年とか、3年後とか5年後とかまで見たときに本当のところが外側にも見えてくるのかなぁと。

公式表明したからには、来年、再来年に他社の動きが変わらなくとも、3年後、5年後に景気が復調しようとも、早期からの採用活動に戻さない覚悟があってしかるべきで。少なくとも、外からはそう見られる覚悟が必要だと思う。これがもし「景気が持ち直したので…」とか「やはり良い人材を一定数採用するには…」と時期をもとに戻したら、それこそ袋だたきの信頼失墜じゃないか(と思うと怖い)。

でも、それくらい企業側も発信する前に考えるだろうし、それ前提で発信したメッセージであれば、誠意をもった態度の表明ということにしておきたい。今のネット上の反応も中の人は想定範囲内で、「今はなんとでも言うだろう、けど長期的に信じてもらえるはず」と割り切っているくらいじゃないかと期待したい。

が、それとは別に、実際面でどうして見る側の気持ちをこれだけ不穏にしたのかって、このページのデザインが少なからぬ影響を及ぼしている気がしてならないのは私だけなのか。作られすぎた文章、なぜ全部画像?とか。なんというか、あんまりできすぎているところが、見ている側の反発を過剰にさせたのではないかと思った。

外側ができすぎているものをみると、人は内側が真逆なありようではないかと不安を覚えるものなのかもしれないなぁと。こんな手厚い感じで見た目を整えられると、中身はものすごい薄っぺらいんじゃないかと無意識に不安視してしまうのではないかしら。その不安が攻撃性につながっていくというか。あと、ここまで凝って作られると、これって中の人が書いた文章じゃなくて、外部のプロが書いた文章なんでしょ?みたいな気分にさせられるというか。

これが、もっとぺたっとしたテキストで、もう少し朴訥なプレスリリース調だったら、また反応は(多少)変わっていたのかもなぁと思うと、「できすぎ」ってのも怖いなぁと思う。時と場合によるんだろうけど、特にこういう内容だと見る側は意気揚々と前向きに見るものではないから、そういう心もちに配慮するって大事なのかもしれない。

それにしても新卒採用のスタート時期は法律で規制してもいいんじゃないかなぁと思う。大学3年生10月から本格始動って、そんなんないわと。半年ずらしたほうが国内外の学生・生徒にも、中小企業や地方の企業にも圧倒的に優しいと思う。これで少し風向きが変わるといいなぁ。

臨界値に達する

過渡期、過渡期と言われて久しいけれど、いよいよ「臨界値に達する」という感じなのかなぁと思う。紀元前6~5世紀の出来事が、ものすごく今の時代と重なってみえた。松岡正剛さんが、この時期それまで各地でばらばらに起こっていた原始的な宗教をまとめようとする人々が一斉に登場してきた背景を、こう話している(「17歳のための世界と日本の見方」より)。

おそらく言語や宗教や、あるいは国や都市の出現、さまざまな民族同士の戦争や侵略といったことが、非常に複雑になって、それがある量にまで達したからなんだろうと思います。このように、ある傾向が一定の量まで達することを「臨界値に達する」といいます。臨界値に達すると、それまでにないものが生まれてくるんです。それを「創発」といいます。

西でも東でも、現実世界においては新しいルールやしくみが必要になり、また人間の想像力やイマジネーションにおいても大きな変革が必要となっていたんですね。そこで紀元前六世紀から五世紀にかけて「創発」がおこって、ゾロアスターや老子や孔子やブッダやピタゴラスが出てきたんでしょう。

調べてみると本当に時期が集中していて、同じ地域ならともかく、ゾロアスター、老子、孔子、荘子、マハーヴィーラ、ブッダ、ピタゴラスにヘラクレイトスと、そうそうたる宗教者や哲学者が世界のさまざまな地域で一斉に出現しているのは意味深いことだよなぁと思う。

これを読んで、どうにも現代と重ね合わせてしまう自分がいたのは、今を生きている自分が今を特別視しているだけなのか、はたまた…。そんなのは一生わからないままかもしれないけど、いろいろなことが今までのやり方では間に合わなくなっていて、世界的に新しいルールやしくみが必要になっていて(追加じゃなくて入れ替え)、その傾向が一定の量まで達している感じっていうのは、あると思うんだなぁ。

で、この時代に改革が起こるか否かは、結局そこに生きている人たち次第なんだろうと思った。紀元前の宗教改革者たちがものすごい偉業を成し遂げたのは、時代が彼らにそうさせたとも言えるけど、彼らが時代の要請に存分に応えたからとも言える。そのまま放置して、次の時代の人たちに引継ぐこともできたわけだし。でも、彼らは引き受けた。もしその時代の人たちが引継ぎ引継ぎ問題を先延ばしにしていたら、徐々に世の中は取り返しがつかないところまで落ちていって、紀元前3世紀くらいには破綻していたかもしれない(適当)。

今にも通じるような偉業を成し遂げたのは、やっぱり彼ら自身なのであって、「今、自分が、やる」と思って実際やったからこその偉業なんだよなぁと。もし現代にその改革を起こすとすれば、それはやっぱりそういう人間がここ現代にも必要なわけで、それって自分たちなわけだ。そこで改革を起こす人がいれば全世界的な改革時代ともなろうし、でなければそのままずるずるっといくのかもしれないし、あるいは没落するのかもしれない。

少なくとも、このまま放置していたらまずいよなぁと思うことはいろいろ起こっている。旧来の法律では解決できないことばかりだし、無理やり法律に頼って答えを出しているから、一件落着ながらどうも腑に落ちないということもある。その割に私たちは法律以外に皆が合意できる解決策をもっていない。法律で決まってなきゃなんでもありって、それだけの判断軸しかもっていないんじゃ子どものけんかだ。そう考えると、ここは改革となったほうがいいんだろうなぁ、なんとなく。

で、そういうときに必要なのは、文句があるなら自分でやるってこと(少なくとも自分がそれに貢献できることを考えて、そっち方向でアウトプットする)と、後方互換<前方互換ってことかなと。前方互換と後方互換の両視点が必要っていうのはたいていそうなんだけど、実感値で後方互換に5割超えというのはちょっと不毛だよな。立場によるだろうけど、いって3割までがバランスじゃないかしら。

なんかよくわからないまま話を終えるけど…、どこ分野というのではなくて、あらゆる分野の人がそれぞれに改革メンバーなんじゃないかなぁと思いつつ、新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

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