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2009-12-31

父の話聴く大晦日

年越しの瞬間は、寝ている。ここ数年、23時前には眠くなって、0時にはすっかり夢の中…というのを繰り返している。大晦日は夕方実家へ帰って、家族で年越しそばとかタラバカニを食べる。それから紅白歌合戦をみて、途中でお風呂に入って、また紅白をみる。だいたい22時くらいに眠くなってきて、23時前に床につく。目が覚めると元旦の7時とかになっている。ちなみに父は21時に寝る。母と妹は0時過ぎまで起きているらしいが、若いなぁと感心。

大晦日の晩は、とにかく親とよく話す、というかほとんどは親の話を聴いている。近況報告じゃなくて、最近思っていることとか、実は昔からこういうふうに思っていたとか、そういうところまで話が深まってくると、なんとなくほっとする。ちなみに、そういう時テレビっていうのは本当に程よい雑音だなと思う(ほめてる)。

なんとはないおしゃべりの中で、最近は父が子育てのあいだ気にかけていたこと、心のうちで大切にしてきたこと、つらかったことなどこぼすことがある(基本的に強気で陽気でポジティブで、父は私が大人になるまでそういうことを一切こぼさなかった)。

今年の大晦日に話していたのは、子どもたちが高校を出るくらいまで、ここで雷に打たれて死ぬわけにはいかないと思って雷がすごく怖かったとか。毎年恒例で家族でなになにするっていうのが、その時はなんでもなくても後から振り返れば、なにかこれという思い出になるのかなと思ってやっていたとか(元旦の朝は応接間のほうに家族集まってまず父の挨拶があって、皆が順番に今年の目標を言った後におせち料理を食べるとか、初詣は成田山に行って帰りにあのお店でうなぎを食べるとか、GWやお盆にはきまって家族旅行に出かけるとか)。

そういったこぼれ話に私が言えることなんて何もないのだけど、ただ私はその思いを受け取った張本人だから、その思いとか考えとか行動が、私を大いに育んだことを、私が迷いなくそう思っていて、それを肯定していて、それに感謝していることを伝えることはできるのかなと。というか、それくらいしかできないので、気恥ずかしくてなかなか言葉にはできないのだけど、父が話しているあいだは目を見てとにかく話を聴く。父が合い間に「まぁ何になるかはわからないんだけどさ」なんて言うときは、「それはすごい大事なことだよ」と静かに言葉をはさんで全面肯定を表明する(何様…笑)。

経験してみないとわからないけれど、経験したらすごく大切だとわかる、そういうことが世の中には確かにあって、そういうものがあるんだってことを、分別つかないうちに親に一つでも二つでも経験させられていると、後の人生、そういうものの存在を自然と認められるようになるわけで。「毎年恒例で家族でなになにする」がどんな意味をもつのかなんて、私にとってはまさしくそういう経験だった。そんなことを感謝しつつ、さて23時も近く。おやすみなさい。

良いお年を。来年もどうぞよろしくお願いします。

2009-12-30

ほろり、国家の話

今日はいいお話ができたな。京都から里帰り中の友だちに会って、なんだかなー、いろんな話をした。その豊かな時間を過ごしに待ち合わせ場所に向かう途中、「吉本隆明の声と言葉。」を電車の中で読み返していた。

前に読んで、ここは!とすごく共鳴したところを開いて改めて文字を追っていたら、理由をつかみ損ねたまま、ほろりと涙腺がゆるんでしまった。なんだったんだろうなぁ、あれは。しかも国家の話で…。

吉本さんの講演録はこちら。1987年「農村の終焉」から一部抜粋。

国家というのは要するに、ある歴史があるときに国家というのが発生したんであって、人間が必要上作ったのであって、これはあるときに人類の歴史とともにあったんじゃないんですよ。歴史のあとの段階に必要上できたのであって、あるときに必要上できたものは、あるときに必要上消滅するに決まっているわけですよ。

私は実は、割とはっきりとこういう志向の持ち主で、近代とか現代とかの歴史と照らし合わせることはできないけど(歴史に弱い)、とにかく地球が生まれてから猿、人間とやってきて、そこからこの先の未来までまるっとひとまとまりで考えたら、国家も、企業も、組織的なものっていうのはいかようにも必要上生まれ、消えるものだと思っている。

人間なので普通に「場」に対する情みたいなのはあるけど、それを軸に(例えばこの場を守りたい、残し続けたいからという理由で)何かを判断するということはあまりないんだよな。場はやっぱり入れ物にすぎないので、大切にすべきは生身の人間、成し遂げるべきはその組織が希求してきた理念や目的(であって組織の存続ではない)、従うべきは自然の流れ、みたいなところがある。これはいい悪いじゃなくてタイプの問題だと思うけど、組織マネジメントは私と逆のタイプの人のほうが適性あるんじゃないかと思ってしまう(私は断然プロジェクトマネジメントのほうがなじみよい)。

と、話が横道にそれたけど、この講演録の下に添えてある糸井重里さんの解説の後半を読んだら、ほろりとしてしまった。急に取り出されてもわかりづらいかもしれないけど、お伝えしたいのでまるっと後半部分。

けしからんと思われるような国の振る舞いが、その時代時代に、あちこちにあります。でもそれは「国」がやってるんじゃなくて指導者がやってることですよね。それを「けしからん」と、その国のお茶の間の人たちを蹴飛ばすわけにはいかないんです。そこが「違うもんだ」とわかるかわかんないかは、大きいところですよね。こういうことをみんながわかってるというだけで、生きやすくなる気がします。僕は、ほんとうの思想って、僕らを自由にする道具としても使えるんだなぁと思っています。

なにか来るんだなぁ。来てしまう。何が来たんだろう。私はまだ赤ん坊だ。

ひとり占めを慎む

「せっかく自分が努力して身につけたんだから、人に言っちゃったらもったいない」というスタンスから、「みんなに共有してどんどんアウトプットしていったほうがいい、そのほうがその過程や結果として得られるインプットだって断然大きいよ」というスタンスに変わっていったのは、インターネットの普及とともに自然こういう空気感が広がっていったってことかなぁと漠然と思っていた。というか、その変化について深く考えたこともなかったのだけど。

松岡正剛さんの『多読術』に、「江戸の私塾」ですでにこういうスタンスの読書法が実践されていたことが紹介されていて、はっとさせられた。「慎読(しんどく)」といって、「読書した内容をひとり占めしないで、必ず他人に提供せよ。独善や独占を慎め」という教えが江戸時代にあった。松岡さんが大作「千夜千冊」を無料公開したのも、これを知って共鳴してのことだそう。

これを読んで、世の中の本当に大切なことは、もう全部きっと言い尽くされているんだろうなぁ、自分が知らないだけでなぁ、と改めて思った。こういうことは本を読むたびに思ったりするのだけど。

「ひとり占めを慎む」って心もちみたいなのも、きっと「慎読」が生まれる江戸よりも、ずっとずっとずーっと前からあったのだろうし、いろんな人がいろんな人に教え伝えて、江戸の池田草庵、吉田松陰、現代へと脈々と受け継がれてきたんだろうなぁと。

私はそれをのんびりながら学ばせてもらいつつ、現世の自分の行くみちなかで粛々と生かしていけたらいいなぁと思う。といっても自分が感銘を受けたと思うことを、なんとなくそんな世界観をもって生きていくってなものだけど…。悪くいうと努力ってのがない、フラットにいうと欲がない、良くいえば自然体。

話をすりかえて、『多読術』の別の章では「読書の効用」について尋ねられた松岡さんの回答も胸に響いた。「言うは易し行うは難し」ってまさにこれだなぁと。以下はごく一部を抜粋したもの。

読書は「わからないから読む」。それに尽きます。
本は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタイにいい。
馬鹿にしてものごとを見たら、どんなものも「薬」にも「毒」にもならない。

本読んでいて疲れてくると無意識に、わからないところは読み流して、わかっているところだけ読んでふんふんと気持ちよくなって済ましていることがあって、あとで我に返って「なんという本末転倒…」と自分に突っ込むことがある。よくある。

「わからないから読む」というスタンスで、本とは常に真摯に、わくわくしながら向き合いたいもの。そして本との対話のなかで得られたものを、自分にも人にもうまく循環させていけるといいなぁと。慎読は心になじむ。

2009-12-29

広告は企業のため

でもさ、というのは一つ前の話の続きなのですが。極論するとやっぱり広告は「消費者本位」じゃなくて「商品本位」だと思っているのです、私は。「企業のソリューションから、消費者のソリューションへ」っていうのは、「明日の広告」という本が読者に届けようとしているメッセージの核としてはそのとおりだと思うのだけど、もう一歩さがってみるとそれも「商品本位」あっての話で、それがないと上っ面だけになっちゃうなと。ここから超個人的な心のうち。

「消費者が変わったんだから、広告も変わっていかなきゃ」ということで、「消費者本位」の意識が必須になったのはそのとおりだと思うし、おそらく広告業界での経験・キャリアを積んでいない人の中には、はじめからこのような世界観をもっている人も少なくないと思う。

だけど、その前提として、やっぱり企業は「商品本位」であるべきというか、あってほしいと私は思う。だって、消費者がほかのこと考えている間もずっと企業のほうは、自分たちが出していく商品の領域でどんなことができるのかをあーだこーだと考えて、試作品を作ったりボツったり改良してみたりしているわけで(そうであってほしいわけで)。そうして商品化にこぎつけたものを、それまたどうなるかわからない不安と期待入り混じる中で「えいっ!」って世に問うていくわけで。

そこにはやっぱり、消費者のことを思って考え抜いた何かが詰まっているはずで、むしろそうでないと太刀打ちできない時代になったというところが、今の時代変化のいちばん核たるところじゃないかなって思う。そういう意味では、「明日の広告」の中ではスラムダンクの井上雄彦氏の広告のエピソードを語っているところが、個人広告の例ではあるけれど、この大前提の大切さを最も暗示できている読みどころだと思う。

最近注目されている「ユーザー中心設計」とか「人間中心設計」とかも、「消費者本位」同様ものすごく大事だと思うのだけど、この前提なしでは意味をなさないというのが共通するところじゃないかと思う。何を作りたいか、何をお客さんに届けたいか、何を社会に提示したいか。それがあって、それをどう商品化するかを考えて、作って、世の中に出していく。その過程でこそ「ユーザー中心設計」も「人間中心設計」も「消費者本位」も生きるのだと思う。

広告の仕事も、そのクライアントの思いと、それを体現した商品の価値がきちんと届くように最大限のサポートをすることが基本なんじゃないかなーと思う。応用としてきっと、競合が出しているのとほぼほぼ同価値なんだけど、商品価値の伝え方に優位性を持たせることで、その商品を選んでもらえるようにする、みたいな広告の力もあるとは思うんだけど。

いや、広告は門外漢なので、1サラリーマン&1生活者目線でなんとなくそういう感じ(「商品本位」であっても、それが健やかに成立する感じ)であってほしいなぁと思っているだけだけど。私はどちらかというとサービスを提供する事業会社側の視点が強いけれど、商品をつくりだす事業会社も、その価値を消費者に届ける広告会社も同様に、「商品本位」であることを胸はっていえるようなのが一番健全だと思う。

ちなみに、先にスラムダンクの例を挙げたように、著者がこのことを大前提に実践されていることは著書の中で十二分にエピソードが語られているので、その辺はその辺で意識して読むと勉強になるし心揺さぶられるものがある。

それで頑張って作ってみて、それが消費者の間でどういう価値を生むかは、結局作ってみなきゃわからない、やってみなきゃわからない面が絶対あるわけで。そういう当たり前のことを、事業会社も広告会社も消費者も共有している世の中っていうのは豊かだよなぁと思うのです。

Web業界と「明日の広告」

佐藤尚之(さとなお)さんの「明日の広告」を読んだ。こういう本は、ほんと出てすぐ読まないとうまみを半減させちゃうよなと積ん読を反省。初版2008年1月って、丸2年経過している…。しかし、まさに広告界の実務家が語る本という感じで、軽快に抽象-具象を行き来する話を興味深く読ませていただいた(Twitterでフォローしていたり、その方のブログを読んでいると、なんとなく勝手に一人で親近感をもってしまって敬語を使いたくなる)。

フランクで大変読みやすいだけでなく、相手の立場を想定して、いかに無理を強いずに読み手に今もっている先入観を取り払ってもらって本質を伝えるかという配慮(というか創意工夫、というか挑戦)に満ち満ちていて、さすがコミュニケーション・デザイナーだと思った。

というわけで、主には広告業界の人に向けた「変わらなきゃ!」のメッセージなんだけど、「いわゆる広告業界には属していないぞ」と思うWeb業界(便宜的に)の人も、さとなおさんが広告業界の人に向けて、どんな先入観を取り払おうとしているのか知っておくと有益だと思うし、それをどんな伝え方で取り払おうと試みているのかという面でも、大変学びがあると思う。

なんというかな、「広告という概念の時代変化はしっかり捉えられているよ」という人も、今広告業界が直面している、目の前に蓄積された豊かなノウハウとか知識の体系図、長年の経験で教え込まれたさまざまなことを一旦頭の中でぼかーんと崩壊させて脱構築するみたいなことを、実際広告業界の中の人がどんなふうにやってのけるかというのは、今後に大いに役立つような気がする。中に入って中で一定期間活動してきた人にとってのその挑戦は、外から見ている人が思うよりずっとずっと大変なんじゃないかって気がする。

でもたぶん、それって広告業界だけの話じゃなくて、Web業界の中でも今後、広告業界以上に頻繁に繰り返されていくことなんじゃないかなって思う。90年代と今じゃWebを下支えする概念てずいぶん入れ替わっているように思うし、今から10年後もまたけっこう概念そのものが変化しているんじゃないかなーと思うし。その入れ替え時期に、自分自身はもちろん、中で一定期間を過ごした周囲の人に対しても変化を共有していくのって、結構大変なんじゃないかって気がする。わけで、広告業界の今の問題解決に学べることってそういう意味でもあるのかなーと漠然と感じたりした(って本の感想から遠すぎるか)。

あと、Webを専業とする人が意識的に尊重しておいたほうが安全に思うのは、ネット外の他メディアを軽視、過小評価しないことか。中からは知らないメディアをわかったように評価するのはすごく危険だし、今の変化はWebというメディアに移行しているのではなくて、Web含めた各メディアの役割が細分化されて適用されるようになってきているという変化だと思うので、やっぱり他メディアへの一定の理解と、それぞれを尊重する気持ちがないとお話がつながらないなぁと思う。

ただ、これと別に、各メディアをすべて飲み込めるくらいの懐をもった情報インフラとしての「インターネット」というのがあるとも思っていて、だからそろそろ「インターネット」という言葉をメディアの一種っぽく使うのはやめたほうがいい気もしている。いやはや、話がずれすぎたところで素人の感想文終了。

2009-12-28

吉本隆明さん

吉本隆明さんといえば、「よしもとばななのお父さん」という紹介ではなんとも全体を言い切れていない悪寒がする思想界の巨人ですが、私はこれまで一冊も著書を読んだことがなくて、ここにきてなんとなく読んでみたいなぁと思う契機に恵まれました。「意を決して」することより、「なんとなく」したいと思うことのほうが、実はなんとなく価値があるような気がしないでもない(曖昧)。

ということで著書を読んでみようと思ったのですが、何も分かっていないながら、この方の本は適当に読み出してはいけないような小者ならではの嗅覚が働きました。なんだかスゴそうなものというのは、登山口を間違えちゃいけないというのが小者家家訓の第3条です。

それで糸井重里さんが仲介役をしてくださっている「吉本隆明の声と言葉。」「悪人正機(あくにんしょうき)」を読んでみました。なんて心強い仲介役。糸井さんて仕事能力もすごいのだろうけれど、自分をどう生かしていくとどんなふうに社会に健やかな風を送れるかみたいなところを自然体で感受してフラットに俊敏に自身を動かしていくようなところがすごいなぁと思う。なんかよくわからない説明ですね…。つまりすごいと。

で、2冊を読んでみて。気になるところばかりでここでどうにもまとめきれませんが、とにかく吉本さんは

結局は、大自然の動きを見るように眺めるしかないんですよね。

ということを思っていて、実際にそれをあらゆる面で深くやってのけている人であり、その考えを人に伝える言葉力みたいなものをもっている人であり、そこに力みがないというのが、僭越ながら私の第一印象。

一例として「悪人正機」の『「ネット社会」ってなんだ?』という章では、よくあるネットにまつわるいい悪いの論議に対してこう話しています。

どんどん発達していくことに伴って、よくない問題が出てきたら、その都度、どういう防ぎ方があるかとか考えればいいんで、発達していくこと自体を阻止しなきゃいけない理由はちっともないんですよね。小さな分野での問題を、全体論議にしちゃうのは、僕は違うと思いますね。

何を全体の論議のテーマとして、何を小さな調整事項と捉えるか、これを捉え違えた論議は巷にあふれている気がします。吉本さんは大正生まれですが、私も年を重ねても変化する環境、時代をこういう視野・視点で捉え続けていきたいし、年を重ねるほどに広く、深く、フラットでありたいなぁと思います。

あとまぁ、お気に入りを書き出したらきりがないんだけど、こういう心は私の心に深くなじみます。

でも、それはやっぱりダメなんですよ。真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、遊んでいたりするってことが許せなくなってくるっていうのは、間違っているんです。

というわけで、これから純粋な著書を読んでみようと思っているところで、またどこを登山口にしたらよいか検討中。一冊目にお薦めの図書がありましたらぜひ教えてください。

2009-12-18

言葉の行方

何が気になるって、この調査レポートになんで「折れ線グラフ」が使われているのかが一番引っかかるところなのだけど、それは頑張って気にしないことにする。本題は、本来とは違う意味で使われる日本語について。

文化庁が昨年度(2009年3月)実施した「国語に関する世論調査」(1995年度から毎年実施、対象は全国16歳以上の男女、今回の有効回収数は1,954人)で、「10.言葉の意味」を尋ねた結果。3つ下にピックアップ。それぞれ、1と2のどちらが正しい意味でしょうか。

  • 破天荒(例文:彼の人生は破天荒だった。)
    1. だれも成し得なかったことをすること
    2. 豪快で大胆な様子
  • 御の字(例文:70点取れれば御の字だ。)
    1. 一応,納得できる
    2. 大いに有り難い
  • 敷居が高い(例文:あそこは敷居が高い。)
    1. 相手に不義理などをしてしまい,行きにくい
    2. 高級過ぎたり,上品過ぎたりして,入りにくい

例文が上手だなぁ。どっちともとれる。で、正解は1、2、1。ぜんぶ合っていましたか。これ、調査では下のかっこ内の%で回答があったということで、3つとも誤答のほうが回答率が高かった(下線が正解)。

  • 破天荒(例文:彼の人生は破天荒だった。)
    1. だれも成し得なかったことをすること(16.9%)
    2. 豪快で大胆な様子(64.2%)
  • 御の字(例文:70点取れれば御の字だ。)
    1. 一応,納得できる(51.4%)
    2. 大いに有り難い(38.5%)
  • 敷居が高い(例文:あそこは敷居が高い。)
    1. 相手に不義理などをしてしまい,行きにくい(42.1%)
    2. 高級過ぎたり,上品過ぎたりして,入りにくい(45.6%)

「気の置けない人」とかも、この人は本来の意味がわかっているということをわかっている人じゃないと誤解されそうで安易に使えないし、なかなかどうして難しい。「言葉は時代とともに変化するもの」とも言えるし、「本来の意味を大切にしていこうよ」という考えも尊いと思う。

まぁ、だから、結局、なんともいえないんだけど、自分の使う言葉はかなり大切に扱っているので(の割には語彙力が貧相だが)、個人的には既存の言葉(で、まだ知らない言葉や使いこなせていない言葉)は、本来の意味を正しく理解して適切に取り入れていきたいと思っている。

目指すのは、自分の使う言葉の豊かさ。一生守り通したいのは、自分の使う言葉の健やかさ。取り入れ方の指針は、私の心のうちにある。

2009-12-16

二律背反の真髄

二律背反についてはよく考える。ここでも以前に2回ほど「二律背反性」という言葉を書いている。一つは、なまぬるカウンセリング批判みたいな…カウンセラーの端くれとしての思いを。もう一つは、ものづくりする人への安易な批判に対する批判めいた…ものづくり支援者としての思いをつづったもの。なんだ、けっこう批判的だなぁ、このブログは。でもこの思いは全然今も変わらない。愛情をもつ人間は批判を内包するものだという個人的納得。

これと関連して、最近「ルビンの盃(さかずき)」のすごさを再認識。「ルビンの壺(つぼ)」とも言う。再認識というより新発見。ルビンの盃って、見方によって図と地が反転するってところがすごいのだと思っていたけれど、それで終わってはいけなかったのだなぁと今さらながら。

ルピンの盃は、リンク先の絵をみていただくとわかりやすい感じ。黒いところに着目すると盃に見え、白いところに着目すると2人の人の顔に見える(ポインタを画像の上にのせると反転させて確認できる)。これは私たちが外界を見るときに眼にはいるものを、まとまりのある形(図)とそれ以外(地)に分けて見ているから。

この文章も、文字を図として、白い部分を地として見ているからこそ混乱せず読めているわけで、図も地も一緒くたに見えて図がうまく浮かび上がってこないと、文章を読むのはひどく大変な作業になることが推測できる。

ちなみに、下の図はパワポで作った私の自作「ルビンの盃」。色をつけ忘れた…。Googleで画像検索すると、ひっかかってくる画像がどれも笑っていなかったので、2人をちょっとごきげんにしてみた(クリックすると拡大にっこり)。

Photo_4

それはいいとして、これと同じことを言っているようでいて、実はもう一歩踏み込んだ捉え方だなと思ったのが今回の新発見。「わかりやすい心理学」(文化書房博文社)より。

わたしたちは、この同じ1枚の絵のなかにさかずきと人の顔があることを知っているのですが、それでも2つを同時に見ることはできません。つまり、一度に眼に入る範囲(視野)においては、一方しか図になることができないのです。

どうでしょう、これ。すごいなぁと私は思ってしまったのだけど。一方を見ようとすると、もう一方は目で捕らえられなくなってしまう、というのをまさに体感できる絵。ほぼ同時に見ることはできるのだけれど、完全同時にはどうしても捕らえられない。瞬間瞬間で行ったり来たりして盃と人を捕らえ直している自分を確認することができる。つまり、二律背反の真髄みたいなのを体感するのに、すごく簡単で明快なエクササイズだなって思ったという新発見。

自然界のさまざまな事柄は、相反するような両極を持ち合わせていて、どちらか一方という存在の仕方では成立しえないものがたくさんある。右と左、表と裏、前と後ろ、内と外、オンとオフ、善と悪、正と負、勝ちと負け、S極とN極、男と女、白と黒、静と動、天と地、光と闇、生と死、昼と夜…。わんさかわんさか。

ただ、両方存在することは比較的わかりやすくて皆了解しているんだけど、その両極をまったく同時には機能させられないという真髄はちょっとわかりづらい。それを瞬時に体で納得させてもらえるんだよなぁ、この絵は。これが二律背反の核ですよね。認識が甘かった。大丈夫、大丈夫ですよ。あっちの世界にいったりしてませんよ。私はこう見えてたいそう現実主義な人間なのです。ここにいます、はい。まぁ、とりあえずメモ。

2009-12-05

私的勉強会「解析しないと!」の感想

ちょっといつものノリと異なりますが(ここではあまりうぇぶうぇぶした話を書かないもので)、昨日参加させていただいた私的勉強会「解析しないと!」の感想をしたためます。自分の頭整理用と、主催&講演者のあんけいさん、講演者の森田さん、会場を提供くださったECナビの皆さま、懇親会でお話しさせていただいた皆さまに感謝の気持ちをこめて。

参加した勉強会は、Web解析をテーマにしたもので、私的とは冠しつつも日本屈指のWeb解析コンサルタントと言っても過言ではなかろうあんけいさん、そして彼の同僚でテスト専門のコンサルタントをされている森田さん、お二方の話を無料で聴けるありがたい会でした。

私は仕事で解析をするという立場ではないのだけど、まったくの門外漢ながら大変勉強になりました。ツールの使い方とかではなく、解析ツールから得ら れる数字のどこにどう着眼すれば何が見えてくるのか、それをどういうプロセスでビジネス活用していくのかがわかりやすく語られていて、普遍性の高い知識や知恵に反応しやすい私の心を射止めました。いろいろなノウハウを蓄積しているであろう中、「基本」にそぎ落としつつ「本質的なこと」を伝えてくださったんだろうなぁと思います。ありがとうございます。

それもこの勉強会、会場がすごくいい雰囲気だったのも印象的。なんだろうな、あの空気感は。お二人が講演中に作りあげていった空気感っていうのもあるだろうし、ECナビさんのものすごいお洒落なんだけど遊び心があってフランクに人がつながれる社内バーの空気感も好影響を与えているだろうし、参加されている方たちの、ちょうど良い感じの参加者温度みたいなのも良かったのかなぁなんて思います。参加者30人くらいというのも絶妙。

全部が全部、人の善意から生まれてこの場があるっていう共通認識がみんなにあったのも大きいんでしょうね。感謝の気持ちとか、この場を皆で有意義に過ごしたいよねっていう感じが、いやらしくなく素直に当たり前のようにそこにあったというか。さらに新しいものに取り組んでいっているっていう快活さみたいなものも参加者それぞれが持ち寄っていたのかなぁなんて思います。でもこういうのって言葉にすればするほど気持ちわるくなっちゃうから、この辺で切り上げておこう…。

で、肝心の中身は!というと、あんけいさんとこ(当日のスライドがダウンロードできる)linkerさんとこ(時系列の記録とポイントが見られる)でご覧あれ。いやぁ、ハイパーリンクって素晴らしい!いや、横着じゃなくて…、ほら、みんなそれぞれ違うものを出し合っていこうよと。

して、私が最も響いた発言は。

  • あんけいさん(の元上司)いわく「Web解析には“緻密などんぶり勘定”が必要」。なんて見事な言葉斬り。言い得て妙。緻密性に意識いきすぎて木を見て森を見ずとかになると、あんた何のために生きてんのよ!的になりますよねぇ…(飛躍しすぎ)。
  • 森田さんが「サイトの改善箇所選定ポイント」を3点にまとめていて、これがなんとも秀逸でした。「ボトルネックを解消する」「ポテンシャルを伸ばす」「王道を整理する」、この研ぎ澄まされた分類にうなった。

私の仕事上の活用は、また別の形で、はい。今すぐのアウトプットはこんなエントリーだけで大変恐縮ですが、とにもかくにもありがとうございました。そして続編もぜひ。今後ともどうぞよろしくお願いします。で結局中身のレポートとか書けないタチで、全然うぇぶうぇぶしていないまま話が終わるの巻。

2009-12-02

提案書を書く仕事

先週3日間お休みをいただいたこともあり、今週は考えることが山積み。数社のご相談ごとが手元にあり、自席で提案書をまとめたり、先方に訪問してプレゼン的なものをしたりであっという間に日が暮れていく。一日って早いなぁと改めて思う。けど、冬になって日が短くなっただけかもしれない…。

これはやってみるようになって初めてわかったことなんだけど、私はものすごい受託型の人間のようで、提案書を書く仕事も、頑張って考えてみましたけどこれどうでしょうってプレゼンする仕事も嫌いじゃないみたい。いずれも緊張するし、毎度ものすごい疲れるけど。

なにか問題を抱えているところから呼ばれてヒアリングして、それに対してこれという課題を設定して解決の方向性を導き出して、具体的にはこういう解決策を提供できますけどどうですか?みたいな現実的なプランまで筋道立てて枠組み作っていくような試行錯誤をけっこう楽しむアタマらしい。ということを、たぶん30歳いくかいかないかぐらいで自覚した(逆に言うと、問題のないところではまったく機能しない)。

もちろん、そういう指向のありなしは能力とは関係ないので、そういう仕事をするようになってまだ5年たらず、今なお修行あるのみなんだけど、法人からのご相談があれこれふってくる立ち位置を選んで今の会社に勤めている面もあるので、まぁ細々ながら日々鍛えられているのかなと勝手に信じている。

でも20代半ばくらいまでは、絶対私はこういう類の仕事をやらないだろうなぁと思っていたし、当時隣の席でばりばり仕事をしていた某コンサルタント女史に「30歳までにまっとうな企画書を書けるようにならないとダメ」っぽいことを言われたときも、それをなかなか我がごととは思えなかった。

キャリアばりばりの人にとって、あるいは法人向けに立ち回る仕事を選んだ場合には必須となってくるのかもしれないけれど、私はバリバリという感じでもなし、当時は個人向けに軸足をおいていて法人向けは食わず嫌いな状態だった。その女史があまりに仕事ができすぎたので、彼女のアウトプットを見るにつけ、企画書を書くっていう仕事が最高級に難しいことだと思っていたこともある。

けど、今の会社に来て、法人向けにも研修サービスを提供していこうって話が出てきたときに、それは社会的に有意義な取り組みだよなと思ったし、これは「法人向けは苦手意識があるので」って断る話ではないよなと思った(当然か…)。自分のミッションを再定義して、個人・法人問わず人のキャリアを支援できるように自分の側が変わるべきなんだと。それが自らはつかみにいけない成長機会にもなるんだろうと。

もちろんそう踏み切るには、それまでの積み重ねの仕事経験が大いに支えになったし、それなしに受けて立とうとは思えなかったかもしれないけど、とにかくそれで法人向けに企画をまとめてサービスを提供する仕事もやるようになって、それがにわかに増えてきて、今は時期によっては9割がた法人向けサービスに動くことも出てきた。

そうやって経験を積んでいくと、法人でも個人でも、そこにこだわりはなくなっていく。たとえ曖昧だろうと個人・法人問わず問題なるものが提示されれば、それに対して人の学習の場を作る立場から何ができるだろうかと考える。むしろ両方バランスよく自分の前に問題が立ちはだかってくれることで、自分ができることの専門性を双方で高めながら、より良質な支援が模索していけるのは良いことだろうと思うようになった。

個人向けしか対応できないというのは自分の都合だし、私は対象がどういう形をなしてこようと人のキャリア支援にそうものであれば、自分の力量によって制限されることなく応えられる自分を作っていきたいと思うので(それは私が何か突出した専門分野をもっているわけじゃないからなんだけど)、まぁ平たく言っちゃうと広く浅くなんだけど、ゼネラリストとしてできることを頑張るよと。それも突き詰めればスペシャリティの一つになっていくはずだよと。

まぁそんなんで、目的のためには豊かな手段を選べるように成長を遂げていきたいなぁと思う次第で。それから今後も、ここは向き合うべきと思うところでは、苦手意識のある領域でも踏み込んでみるって勇気が大事だなと。と言いつつチームマネジメントの役割は指向にあわないのでと断り続けているので勝手なもんですが…。まぁ長々、なぜだかなんとなく書いてみました。

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