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2009-08-20

採血のテーマソング

今日は健康診断だった。無事帰還できて本当に嬉しい。祝杯をあげたい気分である。健康診断は一年に一回受けなきゃいけないものとされているけれど、実はここ2年ほど逃れ逃れてきた。うちの会社は「日を決めて自分で受けてきなさい」というスタイルだったので、「あぁ気がついたら一年過ぎてしまって…」ということにしてやり過ごしてきたのだ。

というのも、2年半ほど前に受けた、「30歳のうちに必ず受けなさい」という人間ドックで大変な目に遭ったのだった。その様子はまぁこちらにも書いたので割愛するとして、とにかくもともとそっち系は大の苦手だというのに、そのときの採血では気を失いかけ車椅子で運ばれベッドに寝かされ…とひどく怖い思いをしたので、そろりそろり後ずさりしながら生きてきた。

しかし、健康診断の受診率が著しく低いということで、総務から「こちらで手配をするので希望日程を教えてください」とありがたいご案内をいただき、希望日程を記入して次の人にまわす回覧板までまわってきて、この親切を無下にもできまいと痛いところをつかれ、もはやこれまでかと…。

それで今日が、希望していないけど希望日程な健康診断の日だったのだけど、朝からどきどき気がかりでならず、午前の打合せを終えて病院に移動している電車内で緊張もぐぐぐーんと高まり。私の採血のときのテーマソングは「おお牧場はみどり」なんだけど(これを頭の中で小人が大合唱する、場所は牧場、指揮者は燕尾服のイメージ)、いやむしろこういう「無理やりテンションあげていこうよ」的アプローチが良くないんじゃないか、今回は試しに別の曲でいってみたらどうかと考え出した。

だけど、浮かんでくるのはベートーベンの「運命」(じゃじゃじゃじゃーん)とか、映画「スピード」のバスが大暴走しているときの曲とか(ちゃっちゃーらちゃっちゃーら)で、むしろ一層追い込まれるんじゃないかという気分になり。もっとしっとりした曲を!と考えたら「遠きー山にー日は落ーちてー」が流れてきて、「もはや人生の終末」ムードが漂いしょんぼりしてきたので、今回は曲の差し替えをあきらめた。

で結局、今回は「おお牧場はみどり」も止めて無音状態に。無音でいろいろ自分への説得材料を考えていた。「イタイ」と思うから痛いのではないか。「イサイ」と思ってみたらどうか、「ヤサイ」みたいで体にやさしそうじゃないか、とかそういうことを待機中から延々…。

でも今回乗り切れたのはたぶん無音思考時間のおかげじゃない。前倒れてしまったとき、お姉さんから「次回からは横になって採血してもらうようにしてください」と言われて、それをお願いしたからだ。通常は椅子に腰掛けてすぐ採血に入るんだけど、私は今回事情を話してバックヤードのベッドに移動し、横になって採血してもらった。

座ってされるより幾分リラックスもできるし、まな板の上の鯉みたいな気分にもなる。それに今回は失敗なく1回で済んだし、ベテランさんだった感じもするし、前よりずっと時間が短かった気がする。採血の量を通常より少なくしてくれたんじゃないかと思うほど。お手数をかけてしまうけど、今後採血の際に横にさせてもらうのは欠かせない。

これに加えて、次回までに最適なテーマソングを見つけておければと。何か思いついたら、とか今すでに使っている効果覿面な脳内BGMとかあれば、一年以内にぜひ教えてください。

2009-08-18

あとは関わる人次第

少し前の話になるけれど、トリプルセブン・インタラクティブ福田敏也さんがRIACのセミナー(パネルディスカッション)でお話しされていたことが印象に残っている。冒頭「ここ5年くらいの広告業界を振り返ってみてどんな印象を?」といったモデレーターの問いに対して。私なりの解釈だけど、こんなお話だった。

「ここ数年を振り返るというのは、2008年秋で状況が一変してしまったからあまり意味がないと思っている。それよりも、これから経済環境が戻ったときに、企業がどういうお金の使い方をするかが広告業界の関心事。これまでよりずっと広告の効果・効率・有効性を問われるはずで、景気が回復しても前と同じお金の使い方に戻るわけではない。

今回の不況は、広告主にとってはこれまで慣習的に使ってきた(ものの、その効果に懐疑的だった)メディアを思い切って止めてみるいいきっかけになったんだと思う。そして今、企業はおそらくマスメディアと比してWebに期待をおいている。結局Webが一番効率的なんじゃないの?って仮説をもっている。

とすると景気が回復したとき、企業はその仮説を検証すべくWebに予算を割くだろう。どれだけ効果的・効率的に人を動かすことができるか。期待されるのは広告の格好よさではなく、実際に生活者を動かしモノが売れること。」

この辺の話は、福田さんと同じく元博報堂で、現在は独立してマーケティング/人材育成プランナーをされている山本直人さんが「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略に著していた内容にリンクしていて大変興味深かった。ちなみにこの本も同じ文脈に始まり、著者の実践家ならではの知見から新しいマーケティングモデルが提唱されていて勉強になった&すごく読みやすかった。

つまるところ、この話で私が感じたのは、今の不況期はWeb業界(←便宜的に)がその期待に応えられるだけの力を蓄えておく期間なんじゃないかということ。私がWeb業界の端っこに身をおく人材開発担当なのでそう解釈したって話なんだけど。

Web専門に経験を積んできた人たちが、企業のプロモーション活動の補完的位置づけから舞台のど真ん中に引きずり出されたとして、どれだけの個人・組織がその期待にピンで応えられるだろうと考えると、まだまだやるべきことはたんまりあるなぁって思う。このままいくと、景気回復してみたら当事者(Web専業者)の知らぬうちに社会的ミッションが変わっていて(拡張されていて)原因不明瞭な混乱が生じかねないって思う。

Web自体のポテンシャルは十分だと思うし、あとは関わる人次第なんだろうなって思う。当事者次第。景気回復後の企業の仮説検証が仮説どまりで終わってしまわないように、端っこの人間ながら自分にできることを頑張らねばなと思う。ということで、今人しれず理論と実践を絡ませてやっていたりします。と、弱った精神に気合いを入れたいためのマジメエントリーでした。バッチこーい。

2009-08-13

湯船と洗い場の間に

今日プールの後にフィットネスクラブのお風呂に入ったら、湯船と洗い場の間に間仕切りみたいなのができていた…。何これ、ものすごい圧迫感!赤いとこに目障りな壁が…。

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どういう経緯かはだいたい推測できる。あれこれ注文をつけるおばさま方に、「湯船浸かってると洗い場の水が入ってきていやなのよね、どうにかしてくれないかしら」とか「仕切りを作ってほしいわ」とかいう話をもらってそのまま作っちゃったって感じじゃないかと。

でも、あれはないわー。明らかに全体としての環境を悪くしている。人間には「開放感」を感じ、それが損なわれると「圧迫感」を感じるという特性があるのだよー。そこ踏まえて考えなきゃ。

ものを追加すれば、一方では何かが確実に失われる。あらゆるものは、そういう均衡の中にある。少数の大きな声にまどわされて、多数の声なき思いをないがしろにしてしまうのでは、サービス提供者としていかんのだ。少数の大きな声に従ったほうが楽だと思うかもしれないけどさ、そこは思想と志ですよ、あなた。

お風呂からあがってロビーのソファでゆっくりしていたら、チェックアウトするところの難波のおいちゃんが受付のお姉ちゃんに「いつからつけたの、あのお風呂の間仕切り」と突っ込んでいた。だよねぇと聞き耳。「いやー、湯船に洗い場のお水が入ってしまうのを避けるのに…」と受付のお姉ちゃん。「また誰かに言われたんか。言いたいやつには言わせときゃええねん。めっちゃ圧迫感あるわー」とおいちゃん。ですよねぇ、と私(心の中)。たぶんお姉ちゃんも、ですよねぇ(心の中)。心の中でおいちゃんに乾杯。

最近教わった江戸時代の思想家、三浦梅園の言葉。

枯れ木に花咲くを驚くより、生木に花咲くを驚け

枯れ木に花が咲いて驚くのは当然。それよりも、毎年春が来て花が咲く、そういう当たり前のことに目を向けられることが大事。何もないようでいて、そこに確かにある大切なもの。これって実はすごく難しいことだけど、ほんとそういう目と心を大切にしたい。最近この言葉を教わって、5年前に書いた「父が兄に手をあげた話」のことを思い出した。よろしければご一緒にどうぞ。

2009-08-12

デザインのさじ加減

少し前に書いた「デザインの両義性」の冒頭で、私はこれまでずっとデザインを一義的に捉えてきた部分があると書きましたが、なぜ“部分”としたかといえば「キャリアデザイン」に関しては以前から両義性を意識してきたことに思い当たったからでした。

以前連載していたコラムの中で「キャリアをデザインしすぎるな」と書いていたのがまさにその表れで、ただそれがプロダクトデザインや空間デザイン、Webデザインといった分野で使われる「デザイン」と統合されたものとして、自分の中でつながっていなかったんだなーと。そういう意味で、あらゆる分野のデザインの両義性について考えさせられたのが先日のことでありました。

それで、何かのデザインを手がけるなら、それがどんな分野であれ「ここはデザインしない」という選択肢も常に併せもっておくことが肝要ではないかと思ったわけです。例えばキャリアの場合“節目”ではしっかりデザインして、あとはドリフトせよと言われますが、あらゆるデザインで、こういう使い分けの観点があるんじゃないかと。

コミュニケーションデザインと呼ばれる分野であれば、広告デザインやWebサイトのデザインが全部作り手側の「おもてなし」や「良かれと思って」で、良くいえば「至れり尽くせり」だけど悪く言えば「がんじがらめ」な表現に着地していては、なんというか、ちょっと息苦しい。悪い言い方をすると、受け手が無能に扱われている感じがするというのか。

公園を作るのでも、遊び方がすべて決められた遊具で園内が埋め尽くされているのはちょっと違うかなとか。おもちゃを作るのでも、このボタン押したらこんなアクションが起こるってだけでは、これ子どもに与えて日本の将来は大丈夫なのか?という不安が…。服屋でお客さんに自由にみてもらう時間を与えず、あれこれついてまわって説明するのも、私も一人で考えたり感じたりできる生き物でして…というか。

そういうのって、作り手はそれこそものすごい気合いをいれて隅々まで完璧にデザインしてゴールに到達させようとしているのかもしれないけど、本当に一流の仕事っていうのは、デザインコンセプトをしっかり具現化していながら、使い手にゆだねる部分、使い手の解釈の余地を意識的に確保しているものじゃないかなーって最近よく思います。

これがまた、だからといってデザイン行為の手を抜けって話ではないので、どこまでしっかりデザインしてどこからは意識的に使い手にゆだねるか、解釈の余地を残すかってさじ加減がすごく難しいと思うんだけど、でもそこを考え抜いて具現化できるからこその思想と志あるプロの仕事って思います。

使い手に向けた謙虚さ、期待感、信頼感がないとできないって気持ちの部分も大きいし、自分の仕事によって社会にこういうふうに貢献できたらって思想がないとできない。そういう健やかな気持ちをもって仕事をしていきたいなぁと。私はそういう学習の場づくりをしていきたいと思いますので、まぁみんなでえいえいおーです。

次からはもう少しまとまった文章を書きたいなぁ…。すみません、こんな読解しづらい話の連続で。

絶対的に善なるもの

村上春樹の「1Q84」を読んだ。BOOK1が550ページ強、BOOK2が500ページジャスト、あわせると1000ページ以上になる大作。当初これだけの長編を読みきれるかどうか不安だったのだけど、結局私にしてはかなりハイペースで読了できた(ことに感動)。さすが村上春樹。

とはいえ、仕事の書類とうってかわって、私は小説となると全体の構成を捉えることなんかにほとんど意識を働かせず、ただただそのストーリー世界に漂うようにしてページをめくっていくので、あらすじも語れないし、それがどんな意図をもってどう書かれたとか俯瞰視点で持論を展開することもできない。

記憶力がないこともあり、まぁ自分の好きなように読めばいいじゃないと割り切ってしまっているところがあって、どちらかというと小説は、読んでいる道中を愉しみ、また途中途中の道草を愉しむ読み方に落ち着いてしまった。そもそも企画書とかと違って「このストーリー展開は妥当である」とか答えのあるものじゃない気がしているから、そこに頭を使う気力がわいてこない。

と言い訳めいたことをぶつくさ言って、あらすじっぽいことは一切書かない(書けない)けれども、私が最もうなった一節を引用。

「この世の中には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない。」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。(中略)重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。」

前半は私の中にかなり定着している考え方。自分の中の善悪の価値観はあるものだし、その中には生涯守り通したい“静止し固定化されたもの”もあっておかしくないけれど、それは決して万人にとって普遍的・恒久的な善悪の価値観でないこともわきまえておきたい。50年前に時間を戻すだけでも今の価値観なんていくらだって崩壊させられるし、現代だって地球の裏側にまわれば日本の価値観と善悪逆転するものがごまんとあるだろうし。

さらにカウンセラーなら、自分の価値観や世の中の一般的な価値観がどんなものかを意識的に把握しておく必要があるし、それが無意識のうちに相手へのおしつけにならないよう自分の意識を舵取りしていく必要があると思う。持続的に。そして、我慢して相手の価値観を尊重し、自分の価値観を押しとどめるのではなくて、健やかに当然のこととしてそうできるスタンスがすごく大事だと思う。そこには自分なりの哲学が必要だ。

「大方の人はこの行為を悪だと言っているから悪だ」とも言えないし、「世の中すべての人がそれを善だと言い、だけど自分はそれを悪だと思う場合に、その悪だと思う自分の感覚が間違っている」と論証できるものは何もない。だから、答えを出すときには対象と目的が必要になる。「誰のため」「何のため」の課題かをはっきりさせて、それに最適な答えを出す。私はそういうふうに考える。直観は使うけど、主観は使わない感覚が大事かなぁと。

という感覚はけっこう以前からあったんだけど、実は今回「1Q84」を読んでいて自分をうならせたのは、先の後半の「均衡」の部分。ただ、これをまだうまく言葉に表せない…。曖昧だった思想が、本質的なところで自分の腹に落ちたというか。

絶対的な善が必要なときにはまず均衡をあたれってことかな。でも絶対的な善は具体的な効力をもたないので、そこから均衡を意識的にくずして相対的な最適解をとりに行く必要がある、最適解をとりに行く旅の出発点として絶対的な善は機能するって感じ。説明になってない…。言葉にするより自分のものの考え方に反映されるものかなぁと思うので、目立たないところで私の内側で活躍させたいと思う…。

2009-08-02

デザインの両義性

「デザイン」という言葉は、たいてい“善”なるものとして語られている気がします。というか、私はこれまでずっと、そういう意味で一義的なデザインの捉え方をしてきた部分があるなと思いました。最終的な成果物を下支えする重要なプロセスとして、また何かをデザインする人への敬意の念をもって、“功”に光をあてて「デザイン」をみてきました。

棚橋弘季さん『デザイン思考の仕事術』は、デザイナーという職業人に限らずあらゆる仕事人(家庭の仕事、社会活動なども含めて)に有益な思想、考え方、やり方を説いている本なのですが、私が最も反応したのは、デザインの両義性についてのくだりでした。

確かにモダンデザインが提案した生活スタイルは、人びとをそれまで苦しめていた困難や苦痛から解放しました。しかし、その一方でかつての人びとが自ら苦労をすることで身体に刻みこんできたさまざまな感覚や能力を得る機会を奪ってしまいました。デザインは人びとの暮らしを良いほうにも悪いほうにも変化させるのです。そして、その力はどちらか一方に働くのではなく、同時に両方に働く場合のほうが多いのです。物がひとつ増えれば世界は変わるのです。

こう指摘されると確かに、日頃から感じていた事例が頭の中にうじゃうじゃ浮かんできます。例えばこの話を書いている今目の前でも、ココログの管理画面が「おまえのブログでこれを書け」とネタ提供してくれているのですが、このネタ提供機能が追加された当初は、「ブログのネタを考えるところからが書き手の創造性を育む過程なんじゃないのか?それ奪ってどうするんじゃい」と疑問に思ったものです。後々、「でもブログを始める人たちがそれを習慣にしていくとっかかりとしては有用なサービスともいえるのか(うまく使えば)」と捉え直しましたが。

でもこれだって定期的にネタを提供する側は大変だし、これに限らず世の中のあらゆるものは作り手によって考え抜かれ、使い手の手に渡るときには頭を使わなくていいようにどんどんなっている気がします。何が出てこようと「自分で使い方を考える」ことが習慣づいている人は大丈夫なんだけど、思考停止してしまった人、あるいはもともとそういう思考を鍛えてこなかった人は、与えられるものを与えられた使い方でしか使えない状態になってしまう。デザインには、そういう負の影響を及ぼす側面ももっていることを作り手は自覚しておかねばなるまいと。

しかしまた、先のくだりも「はじめに」に書かれている文章であるように、そこで尻込みしてしまうのではなくて、そういったデザインの両義性を踏まえてデザインに踏み込む。そういう精神性がすごく大事なのではないかと考えさせられたわけです。それがデザインの善なる力をより引き出すのではないかなぁと。

実際これは結構な精神力がいると思うのです。デザインという行いが“善”しか生み出さないのであれば話は簡単。いや、簡単でもない。何かを生み出す場合、短期的なコスト抑制の意図で「それってやって意味あんの?それよりじっとしてたほうがコスト的によくない?よくなくない?」と言う身内はいるし、そういう人たちに有意味性を納得させられなければまず第一歩が踏み出せない。

そこ出て次なる関門がこの両義性です。これはある種自分との戦いともいえるのでしょうが、自分がそれをデザインして世に送り出すということは、良い面と悪い面の両方をもった何かを社会に送り出す意味をもつ。その両義性をわきまえて、それでも「これは絶対価値があるし、悪い面に関してはこういうふうに考える」ということが自分の中でしっかり考え抜かれていないと、簡単に折れてしまう。

世に送り出せば、いくら作り手がその両面をわきまえて出したとしても、良い面だけ見る人、悪い面だけ見る人から規模に応じたフィードバックが返ってくる。その賞賛だったり非難だったりを作り手としてフラットに真摯に受け止めていくことを前提にデザインを成し遂げるには、やっぱり強い信念とか責任性みたいなものが必要じゃないかなぁと思うわけです。それが商品・サービス開発であれ、社会活動であれ、子どものしつけであれ。

そんなことを考えつつ、まずは「ここで今、私はデザインするのかしないのか」というところから選択的でありたいなぁと、そして信念と責任をもって自分なりのデザインに取り組みたいなーと思った次第であります。

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