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2008-12-31

今年のクライマックス

本当にいろんなことが手つかずのまま年末が走り去ってしまい、ここ数日は「とにかく年内にこれはやっておかねば」なあれこれをやって過ごしていた。

その最たるが、部屋の電気がつく生活環境を取り戻すこと。部屋の電気がカチカチ言い出すようになって、早く蛍光灯を付け替えろと天井から口うるさく言われていたのだけど、なかなか買いに行けずに(怠慢)、それをそのまま使ったり、おうち帰ったらすぐ寝る作戦に出たり(9時とかもあった)、床に置いている間接照明を使ったりしてしのいでいたのだけど、ようやく付け替えをした。

マンションに備え付けの脚立を部屋に担ぎ込んで付け替えるんだけど、天井が異常に高い部屋なので脚立の最上段(5段目?)に上がらないと付け替えができない。高所恐怖症ではないが、ここで落ちると当面誰にも気づかれないだろうから…とか考えると緊張した。そうして一番てっぺんまで行ったところで足をつりかけたときには、世界の片隅で愛を叫んだ。

あとは夏以来の美容院へ。ここしばらくどうも行けずじまいになっているなーと思ったら8月から行けていなかった。もう14年くらいやってもらっている美容師さんなので他の美容師さんがどんな感じなのかわからないけれど、彼に切ってもらった後は髪の毛の質感が健康を取り戻した感じでイキイキしている。基本美容院では寡黙な私だけど、今回はそのことを美容師さんに伝えられたので良かった。年末のご挨拶もできたし。

そして今年のクライマックスは!我が家に第二の暖房器具を買ったことだ。買おう買おうと思っても、いざ!と思うと目の前にたくさんの暖房器具が立ちはだかり、行く手を阻まれた。Amazonでへたり、楽天でへたり、数日前はビックカメラの店頭でへたり、肩を落として帰ってきた。立てるの巻くの敷くの掛けるの回るのぬりかべみたいなの、こんなにたくさんの中から選ぶくらいだったら春を待ったほうが早いだろうと途方に暮れていた。

しかし、やはり夜は「寒いよーー」ということになり、天の声に身を任せて「敷くの」だけに照準をあわせビックカメラを再訪。そうしたら速かった。20時に家を出て、20時半に店に入り、5分で2つに絞り込み、5分で店員さんに相談し、20時40分には購入完了していた。方向さえ決めちゃえば行動は速いのだよ、うん。それまでが長すぎるのだよ、うん。で、もちろんそのまま連れて帰ってきて、今はすっかりソファからずり落ちてペタンと床暮らしをしている。

そんなこんなで、極上とは言えないもののそれなりの生活改善をして大晦日を迎えた。でもここからが本来の年末だ。もう何年も会っていない人とか、1、2年に一度しか会えていない人に年賀状を書いたり。「年賀状友だち」ってあんまり良い聴こえ方じゃないかもしれないけど、距離があったり忙しかったりでなかなか会えないでいる人とも一年に一回近況を交換しあえたり、また会えるかもって思えるような交流をもてているって素敵なことだよなぁと思った。

そういう人たちとの出会い一つひとつから今の自分が成り立っていて、だからこの一年の新しい人たちとの出会いや、今身近にいる大切な人たちとの交流の深まりもあるんだって思うと、この限られた数日は静かにここに向けて気持ちと時間を捧げたいって思う。って、こんな時期にバタバタやっている私が偉そうにいえる話じゃないけど。

終わりに。今年ここに足を運んでくださった方、またブログにコメントを残してくださった方、本当にありがとうございました。このつながりに心から感謝の気持ちをもって年を越します。来年もどうぞよろしくお願いします。良いお年を。

2008-12-30

必然回帰

先日参加してきた松岡正剛さんの「連塾」。この不況について、松岡さんの見解を私なりの解釈でまとめてみると。

これでいいんじゃないの?って思う。こういうことが起こらないとわからないこと、見えてこないこともある。以前から暗示されていたことだと思うし、どこか自業自得の面がある。100年に一度の金融恐慌だと言うけれど、何の展望もないのかといったらそうじゃない気もする。連日流される不況のニュースも、たった150年前黒船がやってきたときと比べてどれほどの大事といえるか。

自業自得を掘り下げると、私たちは時間と金を結びつけて金融商品を作り、金付きの時間を外部に預けすぎたのではないか。先物とか、それが不要とは思わないが、物事には適量というものがある。また民主主義はあらゆるものを「代理」しすぎた。それによって「必然」を見失った。己に何を残すか。さらに、計算可能だったり測定可能な指標にあわせすぎた。計算できないもの、測定できないものの価値を見失った。

そんな捉え方をしていたと解釈している。じゃあ、物事の適量を超えてしまった世の中がこれからどうなっていくかというと、これはまた全然別の場所で、橘川幸夫さんのこんな話が思い出される。これも私なりの解釈。

社会はもうおなか一杯だ。物は十分豊かになった。あらゆるものを付加価値化する時代は終わり、これからは「シンプル」に向かっていく。これまでの企業活動は、競争社会の中で「本業でないところ」に手を広げてきたけれども、その結果本業がおろそかになってしまった。

これが上で言っていた「必然の欠如」と私の頭の中でつながった。企業活動の本業がおろそかになっている感じ、本業が何かを見失っている感じ、そして本業あってこそじゃないか!という想いは常々感じていたところで、お二人の話はとても響いた。

企業は本業に立ち返る時機だ。この過程で本業のあり方が変わったのなら、それはそれで再定義して社内にも社外にも共有する必要がある。成長過程で身につけたあらゆる付加価値をそぎ落としたとき、自分たちの他にない価値はどこにあって、そのための最小単位として誰と何とどんな仕組みが必要なのか、確認する必要があると思う。そこがあって初めて、プラスアルファの価値を抱えられる時代だ。

そしてもしその本来価値の最小単位がこの付加価値化の過程ですでに失われてしまっていることに気づいたなら、会社をたたむのか立て直すのか、立て直すなら社名も理念も変える意識で舵をきる必要があるんじゃないかと思う。

「そんな簡単に言うな」と言われれば私の身の上ではごもっともと言うほかない。ただ、私たちも「社会」という森で生きる野生動物だ。そう考えれば、野生動物の生きる境遇なんて厳しいのが当たり前って気がしてくるかもしれない。

そしてこれはきっと組織だけじゃなくて、個人のキャリアにも言えることなんだ。ものすごいドラマチックな時代に生きているんだなと思う。まぁ私がそういう仕事に就いているから勝手にドラマチック化してるだけかもしれないけど…。

2008-12-28

ハートに火がついた

うーむ、キャラを逸脱して熱く語りすぎてしまった。情熱が過ぎた。金曜日、会社の納会後に年齢層高めコースの二次会に参加して。入社以来初だろう、あれだけの人を前にして、あれだけの言葉を使って、あれだけの熱っぽさで語ってしまったのは。というわけでまったく色気のない仕事の話だけれども、ハートに火がついてしまった話。

別に自分の情熱的な面を隠しているわけじゃないし、単にそういうふうになる機会がなかなかなかったから会社の人たち前にそういう面が表出することがなかったというだけ。よく話す人には私の根底にあるそういう熱っぽさはすでに伝わっていた。

それに私は、「自分が情熱的な人間かどうか」についても「自分の情熱度合いを人がどう見るか」についてもさして関心がない。自身がこうありたいというこだわりはあるけど、それが情熱的と表されるものか、他の人からどう見られるかは後からついてくる話だと考える。

だから別にいいんだけど、なんか妙に私が多くしゃべっていて、それが妙に受け入れられてたというか感銘受けられてたふうなのが微妙だ。これで年明けそのノリのその語りを求められても困る。ボケるのも熱くなるのも天然なので、急にボケろといわれても急に熱く語れと言われても私にはコントロールできない。その点私はドドド素人だ。

それに私は問題解決型の人間なので、基本困っている人を前にしてハートに火がつくのだ。問題意識が希薄な層に問題提起して、自ら働きかけて相手の熱を高めていくのを仕事の核におけるほど会社に献身的な人間でもない。

誤解を恐れずに言えば私は自分の会社に対して冷淡だ。両立できるものはもちろん両立するし、比率を調整して済むかぎりは調整して身を捧ぐ。そういう帰属意識は普通にある。けれど、私の必然は人にある。入れ物にはない。私が身を捧げたいのはお客さんだ。会社を生かすために仕事をしているわけじゃない。

腹の底でその自分の冷淡さを捉えておかないと、自分の情熱はどこかで破綻すると思う。土壇場で究極のときに自分の情熱を操れなくなる。それで冷たい人と言われてもそう言いきれないと、それを取り繕っていたら結局守りたい人を守ったり、サポートしたい人をサポートする仕事を預かりきるなんてできないんじゃないかって思う。

もちろん私は社員を抱えていないし、家族を養っているわけでもない。だから軽々しく言えているところは多分にあると思う。それでもやっぱり、結局社会のために機能しない企業に企業としての必然性はないし、その核を創造して持ち続けることが企業の社会的責任の根幹なんじゃないかと私は思う。それにはそれなりの覚悟が必要だし、情熱と冷淡さを操る手腕が必要だ。プライベートじゃ無理だけど(さじ投げ)、仕事はその2つをとらまえていたいと思う。あー、結局また熱い話になってしもた…。すみません、支離滅裂な文章で。

2008-12-23

コラム書きました

あれ、なんか久しぶりじゃない?とか野暮なことを言いなさんな。クリエイティブ・タブロイド「withD」というサイトで月連載している(けど1月から数えるとなぜか年11回になる)怪奇コラム12月号をアップしました。今回は「できる」のレベル、5段階というお話。「後で読む」とか言わずに、さぁ、ほら、えい。

さて、今回の話は、あるテーマで「わかる」から「できる」の上位レベルに達するまでを軸にしているんですが、それを下支えする想いとしては、私たちが目指すべきは何か一つのテーマの「わかる」「できる」を超えた先にあるんじゃないかと、そんな壮大なイメージも秘めつつ文章を書きました。

別に秘めなくてもいいんだけど、そっちの壮大なテーマを具象的な何かと関連づけながら鮮やかに描き出すには文章力足らず、無理やり表現しようとしても昨日の話のように収拾つかなくなること必至なので、あまり無茶をせずに最後の一文にそういう想いを忍ばせて仕上げました。

で、収拾のつかない話の続きはここに書いて、友だちのよしみで無理やり読んでもらおうという魂胆…。つまり、そうやって何かを知って、それができるようになりたいと「知る」フィールドから「できる」フィールドに移動すると、そこはだまし絵のように「できる」レベル2につながっていて、そのレベルを2から5 まで上がっていくと、それはまただまし絵のように別テーマの「できる」レベル2につながっている。そこをまたレベル2から5へと上がっていく。

そうやっているうちに総体として自分の視座みたいなものが高まっていって、自由自在にあちこちの階段を移り渡りしながら上がっていくようなものではないかと。どの階段を捕らえてどっち方向に上がっていくかは人それぞれだけど、ともあれそれぞれの階段を上り続ける。

人には生死以外、終わりも始まりもないわけで、その間で終わりとか始まりを規定しているのはいつだって人間の頭だ。自然は江戸時代と明治時代の間に何の線も引いていないし、赤道の上にだって線が引かれているわけじゃない。人間の頭がペンをもって線を引いたり名前をつけたりしている。

最終的には自分の認識次第。連なりの中に断絶を設けて、次とか前とか上とか下とか長いとか短いとか言いながらそこに意味をつけて彩っている。もっと広い空、深い海を目指して。それが人の性、止めてくれるなおっかさん、なんて思う年の瀬。またわけのわからない話に。まぁ友だちのよしみで、はい。

2008-12-22

松岡正剛氏の「連塾」に行ってきた

「自分より圧倒的に視座の高い人の話が聴きたい」という渇望感があった。それで松岡正剛氏の「連塾 JAPAN DEEP 2」に行ってきた。ゲストはいとうせいこう川崎和男藤原新也の3氏。とにかく圧倒的だった。13時から20時まで7時間ほどの長丁場、飽きさせないどころかずっと集中力を途切れさせない濃厚な対談3連発だった。

オープニング、jazzyな音楽に乗せて数分間、2008年に出版された250冊の本の表紙が映し出された。正面の大きなスクリーンに、一冊ずつ投影されては秒単位で切り替わっていく。数冊関連の濃い本が続くとまた次のテーマに切り替わっていく感じで、タイトルを目で追っていると自然に2008年のありようが浮き彫りになっていく。本の並びとか、私がつかみきれなかったもっと深い演出も埋め込まれている気がする…。

いとうせいこうさんとの話の途中で松岡さんがこのオープニングについても取り上げていた。○分じゃなくて△分、もっと短くしたほうが良かったと。前日までいろいろ試行錯誤していたようだ。その話を後で振り返りつつ、今回の「連塾」で取り上げられていたテーマの一つは、このオープニングをとっても語れることじゃないかと思った(以降、かなり独自解釈&不思議ワールドに入る)。

見せる時間は○分にも△分にもできる。それは主催者の自由だ。でも、何分かに設定しなければその演出はできない。私たちは何かをなすために、これを必要とする。枠、型、形、箱、メディア、媒介、そういったもの。

じゃあそこに何を入れるのか。これもなくてはならない。そこで、今年出版された本の表紙250冊。これも別にそれが絶対の答えじゃない。本の表紙じゃなくてもいいし250冊じゃなくてもいい、2008年に限定しなくても本にしなくてもいい。それだって主催者の自由だ。それでも何かを設定しなければ、何も伝わらない。それで誰かが発想した。そして本の表紙が選ばれた。全体の時間と冊数、1冊の持ち時間が決まり、250冊にはこの本たちが選ばれた。見せる順番も決まった。そして用意した。

もう一つ駒を戻すと、そこで何を届けるのかという話がある。このイベントのオープニングで参加者に何を届けようとするかも主催者の自由だ。2008年を参加者と共有するための何かであってもいいし、そうじゃないものを見せることも考えられた。そういう仕掛けを一切検討しないこともありえた。その中で、これを選び、これを実現した。私に届いた。

松岡さんは「鍵穴」と「鍵」の話をしていた。オープニングの話と関連づけて話していたわけではないけれど、こうも言えるのではないか。「○分間」という鍵穴の中に、「本の表紙」という鍵を差し込む。「本の表紙」という鍵穴の中に、「2008年のありよう」という鍵を差し込む。「2008年のありよう」という鍵穴の中に、「オープニングで参加者と共有したい今の時代感」という鍵を差し込む。そこに、どっちが先とかないんじゃないかと。ここをまだうまく説明できないんだけど、つまり何かを決めるときに枠と中身はどっちが先に生まれるって決まっているものではなくて、彼らの言葉を借りるなら「同時発生的に不即不離で一体として生まれる、一挙に捉えるもの」。

というのは私の勝手な解釈だけど、実際にせいこうさんと松岡さんが話していたのは、「意識が物質を帯びているのか、物質が意識を帯びているのか」「生命は形が先では?」「形(メディア)がないと情報は世の中に出ていかれない」「言語と概念、例えば“椅子”は椅子という物質があるから椅子という言葉があるのか、椅子という言葉があって椅子という物質に出会うのか」といった話を、そりゃーもうフルスロットルで。

せいこうさんの問いに対して松岡さんは「どっちが先って言えるものでなく、粘土質みたいなところに突き刺さったその瞬間に両方が生まれるイメージを今はもっている」というような言い方をしていたと思う。というか結局、二人が見出したところとしては、「人間には自分たちの意識や言語を完全に認識することなどできないわけで、そういう入れ子状態みたいな矛盾のある中で、メディアを生み続けるしかない」といったところに着地していたような感じがする。

とにかくそういう深海下りてく系の話にひたって、私もものすごい深くまで一緒に下りてきた気分ではいるけど、実際どれくらいまでついていけていたかは神のみぞ知る。それでも、この明らかに自分とは視座違いの皆さまの話を「面白い!」と没頭して聞けただけで相当嬉しい。外国語なのに意味がわかる!というか、その国の言葉も知らないのになんかコミュニケーションとれてる!的な漠たる喜びだけど。

この対談の内容でびびっときたものは、また追ってここにもなんらかの形で残せたらなーと思っている。持ち帰ってきたものはいろいろあるけれど、その最たるは「渇」かなと思う。彼らに救いを求めた渇望感は、違う性質に変容して違う何かを渇望し出している気がする。それは、生命力みたいなものに近いかもしれない。

2008-12-17

ゼネラリストという名のスペシャリスト

以前、某お世話になっている人から「ゼネラリストを極めれば、それだってスペシャリストなんだよ」って話を聴いて、もやが晴れた感じがした。昔漠然と何かのスペシャリストになりたがっていたような時期があって(これという職種名みたいな称号を欲しがっていた感じ)、20代半ばだったかふっとそういう力みがとれたときの感覚は、一言でいうとこれだなーって思った。数年経って、その感覚を端的に言い表してもらえたような気がした。

力みがとれたっていうのは、別に卑屈になって「私にはどうせスペシャリストの資質なんてないし」と考えたからじゃない。ただ、別に肩書きとか職種名とかわかりやすい名前が何もなくても、自分が仕えたい事が自分の中にきちんと意識化できていて、それに真摯に臨んでそれに貢献できて、自分がアウトプットするものがより上質なものに高められていると実感しながら生きられれば、それこそが本質的な幸いだと思った。そうしたら名前を持つことへのこだわりがすっとひいていった。

今思ったけど、それはもしかすると、数年前キャリアカウンセラーの資格を取ったからなのかもしれない。取ってみて、一応の名前をもってみたからこそそう思えたのかも。取っただけで自分の中身が上質化するわけじゃないし、中身薄っぺらい状態でその名前を振りかざしても本質的な意味など何ももたない。その名前に恥じない人格を育て続けることが何より大切だと思った。

実際取ってみて、資格はそれを取るまでの過程で身につけるものに本質的な価値があり、あとはどちらかというと付加的な価値だと実感した。個人的にキャリアカウンセラーの資格は取得したところがスタート地点だとも思うし。この先自分で何を経験して何を勉強していかなきゃいけないかの指針を与えてくれる。資格は自分をスタート地点まで導いてくれるありがたい機会だった。

と少し話がそれたけど、つまり原理も理論も技法も、知識やスキルとして習得することはとても大事だけど、そのベースにその人のキャリアカウンセラーとしての生き様がなければ砂上の楼閣なんだよなーというか。だからつまり、話をきちんと最初の話に戻すと…。私はキャリアカウンセラーという一応の名前をもったことで、名前をもたないゼネラリスト志向にすっきり着地できたのか。なるほど。これは発見。

うちの会社は基本“営業会社”なので、私は社内では研修の企画提案とかトレーニングの開発とか(研修を売る仕組みづくりとか…)する、どちらかというとスペシャリスト的見られ方をしているのだけど、実際仕事をする上では、その多くをほぼ社外の生粋スペシャリストとのやりとりにあてていて、そこの場ではゼネラリストだ。要件をもとに大まかなプロジェクトの骨子を組み立てたら、あとは自分はプロジェクトマネジメントを中心に担うようにすることが多い。

これという名前を持たない中で、自分はこのプロジェクトの中ではこういう役割を果たせば一番有機的なんだと思う、という自分なりの軸を立ててフレキシブルに動く。そういう自分の立ち位置の中途半端さを許容できる、強さなのか鈍さなのかバランス感覚なのか分かりづらい特質を発揮して事に仕える。そういうところにゼネラリストのスペシャリティがあるのかなーとか思いつつ調子よく自己満足できる楽観性が、ゼネラリストの資質の一つなのかもしれない。

2008-12-15

結局ヒートテックだけ

いろいろ落ち着いて考えなきゃいけないこともあるし、読みたい本、文章を書きながら思索にふけりたいことなども山積しているのだけど、この辺をするにはどうしても、それなりの時間と空間というのが必要になってきて、そこになかなか手が出せない。

であればとりあえず、父の誕生日プレゼントを買おう。誕生日会の日程とお店を決めよう。美容院も行きたい。本屋さん行きたい。あ、暖房器具買いたい。とか思うんだけど、この辺をするにもどうしたって、それなりにまとまった時間が必要。こちらも手が出ない。

であればとりあえず、ちっちゃな時間でできる、もう悩む余地のないものをちょこちょこ進めよう…と、結局ヒートテックの入手だけ成し遂げた最近のプライベート達成報告。 仕事でそれやったら「結局重要なこと何にもやってないじゃないか!hysくん」なダメ人間ぶり全開な思考展開で生活を営んでおります。

それはさておき、ヒートテック。先日昼休みにものすごい早歩きで街中を大移動して、ユニクロのヒートテックを買ってきた。店内滞在時間は5分くらいだったけど。なんかほんとみんなに勧められるので、どんだけ素晴らしいんだと。

して、実際の着心地はどうなんだというと、コストの分は十分力を発揮していると思う。1枚千円でしょ。どこかのブランドでは2万円のモモヒキ(いや、もっと格好いい外来語がついているのだと思うが)とか売っているというし。

上には上があるのだろうけど、とりあえずこれまでお世話になってきたもう少しお値段はるのと同じだけの効果を発揮していると思われ、ならばユニクロのヒー トテックのほうがいいよねと。肌触りもいいし、白いタグがチロチロ出てこないのもいい。しかし本番はこれからですぞ。これから始まるさらなる真冬にどれだけの力を発揮してくれるか。気を抜かずにがんばれ、ヒートテック!

で、それはそれとして、時間と空間づくりをせねば。やっぱり週末仕事続きはよしとしても(よしでもないが)、とりあえず土日どっちかは出勤しないでいい日にしとかないと、カラダがもたない。来年はもう1つ歳もとるし…、そこんとこ気をつけたい。

ほんとはもう少しまともな最近考えていることなど書きたいのだけど、気がかりなテーマが壮大すぎて、それに対応できるだけの器と表現力が追いつかず、結局ヒートテックの話に…。直接会った人にはぶつぶつ呟いているのだけど、文章までまとまりきらず。

とはいえ、インプットされたらしきものは、どこかで自らアウトプットする試みをしないと、実のところインプットされずじまいで終わってしまうものなのかもな、なんてことを思う今日この頃なので、今の自分なりの思うところを、今の自分なりの力量でいいから文章にも表していきたいなと思っています。今後ともなにとぞよろしくお願いします。

2008-12-01

暖房器具を買おうと

つまり、生活に対する意欲の問題なんだと思う。と、いきなりなんですが、昨日の話の続き。もう何年も、エアコンのほかに床まわりを暖めてくれる暖房器具を買ったほうがいいよなぁと思い続けてきて、必要度としては相当高いところに位置づけられているはずなんだけど、買えてない。で、毎年春を迎える。これって、“自分の生活”に対する意欲の問題なんだろうなぁと思う。

実際、生活には相当支障が出ているのだ。部屋があったかくなって、肩に力入れていなくても、布団にくるまっていなくても、ニット帽やコートを着たまま過ごさなくても、部屋の中で自由に振る舞えたら、どんなにか私の冬の生活は豊かになるだろうと思う。

だから、昨日お話書いた流れで今日買って帰ろうってふと思った。こういうのはタイミングだ。後悔するはずもない、いい買い物に決まっている、今日こそ衝動買いのタイミングなのだと。それで目星をつけるためにGoogleで検索してみた。「暖房器具」と入れたら、下に「暖房器具 比較」と出てきたので、じゃあそれで、と選択してクリックしてみた。

そしたらたくさん出てきた。ひいた…。でもとりあえず上のほうのをいくつか、と開いてみた。なえた…。どれにしようかなーって、暖房器具の種類からして20種類もあって途方に暮れた。ホットカーペット、オイルヒーター、パネルヒーター、セラミックヒーター、こたつ、電気ストーブ、カーボンヒーター、石油ストーブ、ハロゲンヒーター、石油ファンヒーター、ガスファンヒーター、電気毛布、ガスストーブ、あんか、アロマ加湿器、スチーム式加湿器、超音波式加湿器、以下略。先生、眩暈が…。お手上げ。商品以前にアイテム選ぶ時点で降参。

と思いつつ、これを書きながら少し整理してみた。「カーペット」「ヒーター」「こたつ」「ストーブ」「加湿器」「空気清浄機」みたいな大分類がありそう。種別に特徴を確認していきつつ自分の優先事項を整理していくと、「エアコンの補助として床まわりを暖めてくれる我が家の暖房器具2台目」「(部屋狭いので)場所をとらない、軽量、見た目ごつくない、ならば値段も手ごろな数千円台を期待」「空気の入れ替え不要、メンテナンス楽チン」なのがいい。

とすると、おそらく軽量ボディの遠赤外線ヒーターが良さそう。で、その先の商品探しまでは至らず。今日はもう意欲限界。今これを満たす暖房器具をご紹介くださると、あなたのアフィリエイトにチャリチャリーンとカネの音が聴こえてくるかも。メリークリスマス。

と、ここまでたどりつけたのはこの文章を書くためだったからで、自分の生活向上のためでしかなかったら絶対そのまま春だった。自分の生活改善するんだったら、生活意欲を刺激するより書く意欲を刺激したほうが話が早そう、というのは発見だった。この先商品選定→購入まで至れるか否かは神のみぞ知る。

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