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2008-11-30

さむねむやすむとはるになる

本当に寒いです。今度こそ冬を越せないのでは…と本気で不安になります。先週末はまだ良かった。夜外に30分くらいいたら意識が朦朧としてきて、でもまぁ夜に30分も外にいればね…と納得できた。けど、今日は最寄り駅から家までの数分で意識を失いかけた。慣れた道でなくば帰り着けなかったであろう。だのにまだ11月って、本当に先が思いやられます。

して仕事状況といえば、なんだか大物の仕事で溢れかえっていて、ありがたいことに今週さらに増える見通し。今日からしばらくは土日出勤も続き、あっという間に年が暮れてしまいそう。そう書いて改めてどきっとしたけど、本当にもう年末。明日から12月。ひと月以内にやらなきゃいけないことてんこもりだ。

して生活状況といえば、会社を出るやいなや寒さに震えどこか立ち寄る気もなかなか起きず、おうちに帰れば即ふとんにもぐりこみ、横になればすぐ眠くなっちゃって、「はっ、朝!」の繰り返し。まったくもって豊かでない。いったい世の中の皆さまはこの寒空の中どうやって冬を愉しんでいるのでしょうか。

と、一通りこうして日々のダメな行動パターンを文字にしてみると、家をあったかくして、服装を完備して、きちんと休みをとるようにしたら、あっさり解決するんじゃないか、という気がしてきた。となると、次の休みに暖房器具を買いに行って、ついでに防寒着も増やして、そうしたら私の生活は一気に豊かになるんじゃないか、という気がしてきた。

しかし、次の休みっていつだ。そうだ、次の休みがない。そこか、問題は。週末は当分無理だ。となると平日だが、休みをとれてもあれとあれは平日休みにやらなきゃいけない。あれとあれも実質平日休みにやるしかない。そうこう言ってるうち12月も暮れるだろう。とか言ってるうち年が明け春になるだろう。春になったらあったかくなるだろう。だからいいのだろう。ということだろう?

2008-11-16

「調べる」じゃない方法

大阪出張の朝、家を出る直前に、肝心の「大阪のどこに行けばいいか」を調べ損ねていることに気づいた。大阪支店は何度か行ったことがあるものの、前に行ったのは1年半くらい前のことで、新幹線を降りてからどうすればいいかよくわからなかった。それで家のPCで自社サイトにアクセスして大阪支店の地図を確認し、お手製の地図をこしらえて(家にプリンタがない)出発した。

それはそれで良かったんだけど、事なきを得て「じゃあ、この発覚が家を出た後だったら私はどうしていたんだろう」と考えた。PHSで自社サイトにアクセスして調べる、東京本社に電話して訊く(おまえなーと思われること請け合い)、おぼろげな記憶をたどりながら多少現地で人に訊いたりしてたどりついてみせる、風の呼ぶほうに誘われてみる、などなど。

で、最初の2つは「調べる」という行為のうちだけど、後半に行くにつれ「調べる」濃度が低くなる。この後半のやり口っていうのをやらないことが増え、“基本やらない”人口も増えているんじゃないかと思った。そんなこと考えている間に出かけろという感じなんだけど、そういうこと考えながら生きるのが癖…。

世の中にはすでによりどりみどりの選択肢が与えられていて、あらゆるものが考える前に選べたり調べられる状態になっている。それが乏しい時代のほうが、“ 多くの人が”一旦いろんな方法に意識を向けてみて、そこから自分なりの方法を取捨選択する上で好環境にあったかもしれない。

与えられる人と与える人がそう分断されていなくて、一人ひとりがその時々で立場を変えられていたんじゃないか。ゆえに“皆が”それなりに、いろんな手段を自由に発想する力を備えていたんじゃないかと。平均点が高かったというか。「調べる」だけじゃなくて、「考える」「想起する」「勘を働かせる」云々。

私は「すでに与えられているものの中から選ぶ」のでどうにかしていくんじゃなくて、一回いろんな方法を発想してみて、そこからこれって選択をするようでありたい。もちろん日常すべての判断にそう余裕があるわけじゃないけど、一旦拡げて収束させるというのは、ものによって1秒以内で処理できることも少なくない。ベースは常に、自分で選択肢を考えるところから始めて、最後はこれと答えを決めて、動ける人間でありたいなぁと思う。

昔のほうが良かったと振り返りたいわけじゃない。自分が申し分なくできているとも思わない。ただ、「調べる」が充実した今、それ以外ももっとバランスよく充実すれば、もっともっと人は豊かになるんじゃないかと思っただけ。だから今後出てくる製品・サービスも、そういうコンセプトのものがたくさん出てきたらいいなーと思うし、それによって「調べる」「選ぶ」以外の力が人に備わり、育まれるような社会基盤?ができていくといいなーと思う。私は私で、そういう学習の場づくりを大切にしていきたいなーと思う。

どうにかなる京都旅行

過去何度か大阪出張には行っているものの毎回翌日が仕事日で日帰りを余儀なくされていた。それが今回初めて、翌日出勤しなくても良い日にあてられたので、日程が決まった時からなんとなーくで、「その後一泊して京都でも旅行してこられたらなぁ」と夢見ていた。

が、このところかなり仕事が立て込んでいて、前日日が暮れるまでは他案件の諸々をあれこれ。夜は出張準備をするので精一杯で、旅の準備までは到底手が出なかった。ただ、その日会社の女の子が自ら京都の旅本を持ってきてくれて「旅(というか出張)に持っていけ」と貸してくれたので、それを新幹線の中で読めばどうにかなるのではと、なお夢を描きつつ前日を終えた。

ものの、新幹線に乗り込んで40分ほど、超集中モードで出張先の会議のシナリオを整理していたら乗り物酔いしてしまい、仕事を終えるやいなや「到着まで寝る」以外の選択肢がありえなくなってしまった。で、ひたすら眠り続けて大阪到着。大阪支店では名古屋会議みっちりの後、大阪会議みっちりで、持ち帰る宿題もがっつり。こりゃ相当頭と体力を使う案件になりそうだ…。

なんてうちにすっかり夜になってしまったのだけど、生来楽観的なので「逆に当日晩のほうがキャンセルとか出て宿とりやすかったりするんじゃないの?」という頭があり、また自業自得の自覚もあるので「押さえられたら京都泊、押さえられなかったら東京に帰ればいいや」と気合いのない計画をもって楽天トラベルに身をゆだねてみた。そうしたらすぐ取れた。予約まで5分足らず。

というわけで、大阪の皆さんとゴハンをご一緒した後、21時過ぎには解散して一人京都へ。ホテルは駅の真ん前、シングルと言っていたのにベッドは2つあるし、PCないけど無線LANも完備な(無駄に?)贅沢な部屋。どうにかなるもんだなーと思いつつ、お風呂&ベッドの中で翌日行きたい所をチェック、あとは行き先も行き方も当日気分で決めればいいやーと就寝。

翌朝は8時前にチェックアウトしてバスで大原へ。「三千院」「宝泉院」、その後は地下鉄とバスを乗り継いで「高台寺」。結局、行った所というとこの3箇所だけか。でも朝のバスは車窓から京都の景色を楽しめたし、三千院や高台寺はかなり広いので、これでも一杯一杯。もっと削っても良かったと振り返る。写真はこちら(撮影は素人だけど、写ってる中身の景色は素敵でしょ…)。

ちなみに、紅葉の見頃は今週と来週らしくて、観光客はものすごい多かった。ホテルを取れたのも、最後迷子なりかけで乗ったタクシーの運転手さんに「奇跡的だ」と言われた。この時期はビジネスホテルだろうが、なんとかホテルだろうがとにかく予約一杯で取れないと言う。タクシーも足りないらしい。

こちらはどうにかなったものの、バス移動はしんどかった。中はぎゅうぎゅう、外は渋滞続き。最後京都駅に向かっている時は、外を歩く人にどんどこ抜かされていき、これは目的地に近づくほどひどくなるよなーと思われたので途中で下車。地下鉄に乗り換えようとするも、もう少し行けるかも?と足を引きずって歩き続けてしまい、図らずも京都の夜道をしばし散策(迷子)することに。

ともかく「京都を歩く」以前に「バスに乗る」とか「街を散策する」こと自体が最近ご無沙汰な非日常だったので、もう少しいろんなバリエーションの日常を作るべきよねーと思ったりした。今度はひっそりとどこかに行ってみます。

2008-11-09

11月は千葉県のようなもの

「パクチーは教頭先生のようなもの」を筆頭に、分かりにくい比喩表現をすることで(局所的に)有名な私ですが、もちろん自分的には「まさにフィット!」と思って口にしているわけなので、それが驚くほど分かりにくいというのは毎度意外です。

この間も会社で「11月は千葉県のようなもの」と得意げに言ってみましたが、周囲全員から「はぁ?」と返されて、あれれ…でした。なぜそこで「まさに!」と返してくれる人が誰一人としていないのか!

これをここまで読まれた方が「んなのわかるかいっ」と思うのは当然です。それは私も心得ております。でも、その時その場では、皆がクリスマスの話題を共有していたのです。「11月が始まったばかりだというのに、もう街はクリスマスモードだねぇ」と。そこで一言、私が「11月って千葉県みたいなものですよねぇ」としんみり言ったわけです。そう、そこでわかるでしょう、そこでわからなきゃ!

いいですか、皆さん。11月だって毎年頑張ってやってきてくれているわけですよ。葉を秋色に染め、秋の匂いを香らせて、私たちを包み込んでくれているわけです。なのに街中は思いっきり12月モード。クリスマスツリーにクリスマスソング。もういくつ寝るとお正月ーなわけです。

それでも11月は毎年11月であり続けるわけです。翌年も、その翌年も11月としてやってくるわけです。来ることを止めることもせず、過剰にでしゃばることもせず、11月としてやってきては11月の仕事をして、街を秋から冬へとつないでいくわけです。12月を主役に立てながら。涙ぐましいじゃーあーりませんかっ。はぁ、まるで千葉県のよう…。いいやつだなぁ、おまえ。

2008-11-06

「みなまで言うな」記事

そろそろ2010年春入社の就職活動生に想いを馳せる時期…。ということで、その辺の情報収集をしているときに見つけてしまったある調査結果の記事、「就職活動の学生、4割が『環境』を応募動機に」

このタイトルを見た時「えぇっ、それは他にこれといった志望理由がないから環境をネタに!って人が4割もいるってこと?」と勝手にダークなイメージを展開して記事を開いてしまった私は、うがった見方しかできないダメな大人になってしまったのでしょうか…。記事の内容は、そのまま環境への関心が高まっているという話でした。

実際の調査を調べると、「『環境問題』に力を入れていることを企業がアピールすることは、その企業へ応募する動機になりますか」に対して「なる」と回答したのが4割ということなので、記事とはちょっとニュアンスが異なるなーとは思うんだけど。

つまり「なる」さんは、「企業の環境への取り組みが応募動機の一つになる」って言っているわけで、「企業の環境への取り組みこそ第一の応募動機!」って人が4割って話じゃなさそう。

でもそれにしたって「なる」さんの多くは「応募動機が書けそうだから、面接のネタにできそうだから」ってことでこういう回答結果が出たんじゃないかと疑ってしまうのは、当時の私だったらそう思いかねないからってわけなんだけど、私がダメな子だっただけでしょうか、あるいは環境問題への関心がまだまだな時代ののんきな学生だったためってことでしょうか…。

というどーじゃこーじゃはおいておいて。ともかく今の私が採用担当者なら、他の企業も業種・業態問わず取り組んでいる環境活動について語られるより、自社の根幹の事業についてど真ん中ついて応募動機を語ってほしいと思う(環境活動を軽視するということではなく)。だから、幼き日の私みたいな子がいるとしたら、そういうことを伝えてあげたいなぁと思うわけです。

が、しかし、この記事を読んでいると非常に不安になる。「環境問題への取り組みとかじゃなくて、その会社の根幹となっている事業への興味を語ってくれたほうがずっと響くよ」というのは、ごく個人的な考えなのかと。まぁそうなら「個人的にはそう思います」って言えばいいんだけど…。個人的かなぁ。

この日経ネットの記者の真意を聞きたい。ほんとは「応募動機づくりになっているおそれもある」的なこともちょちょいと書き添えたかったけど、穏便に記事をまとめてみたんですよね?「よいよい、みなまで言うな」と…、そんな記事ってあり?まぁ単純にエコに関する調査結果だったからそれについてだけ書いただけかも。そうか、そうだ…。すみません、長いことつきあわせてしまって。

2008-11-02

コミュニケーションデザイン人のキャリア

smashmediaさんの「そのラブレターは望まれていない」と、そこからとんで山本直人さんの「広告=ラブレター論の陥穽。」を拝読しつつ、最近思っていたことなどつらつらまとめてみた(まとまってないけど)。

この間「全部タダでいいのか」って話で書いたんだけど、私は広告っていうのは本来「その存在と価値を、それを潜在的に欲する人に気づかせて手元に届けるための橋渡し役」みたいなものだと思っていて、裏を返せば“そもそもそれを潜在的にも欲しない人がいる”ことは前提事項として捉えている。つまり「いらないものはいらないんだ」というものが、少なくとも私にはあるということなんだけれども。自分用のしいたけとかうなぎとか。

で、ここで広告をコミュニケーションデザインって読み替えていいのかよくわからないけど、コミュニケーションデザインが、「想定するターゲットにとって嬉しかったり助かったりする何かを“届ける”ためのコミュニケーションを設計する」ことだとすれば、想定ターゲット以外の人にとってはいい迷惑になることもあるだろうと。それを認識していることは大切だと思う。

もう少し俯瞰的?にいってみると、コミュニケーションデザインっていうのは、製品が研究開発されるところから消費者の手に届くところまで時系列でみれば後工程に寄っていると思うし、そこにはそこの守備範囲とか、なすべきミッションというのがあると思う。

マーケティングの「4C」でいえば、「Customer solution」「Cost」「Convenience」「Communication」の4カテゴリーで生活者は製品を捉えるわけで、どんなに4つ目の「Communication」を頑張ったって、嫌いなしいたけは一人暮らしじゃやっぱり買わないし、何の用もない土地までコンビニに買い物に行くこともない。「Communication」だけで選ばれるような絶対の仕組みを作るなんて、普通に考えてみて無理無理感いっぱいだ。

物事の限界を知っておくのは、それを生業にする上でとても大事なことだと思っている。“限界”っていうとものすごく否定的に聞こえるかもしれないけれど、つまり「それのどこに本質的な価値があって必要とされているのか」「どこまでが守備範囲で、どこからは他に任せるべきことだから、それの範疇でやろうとしても無理が生じてくるのか」ってことをわきまえておくことが大事かなと。

わきまえた上で、そこを超えたいって無理するのは、その守備範囲を破る一つの法かもしれないけれど、わきまえずしてなんでもかんでもやりたいからってのは不毛かなーと思う。

コミュニケーションデザインに話を戻すと、その定義をどう捉えるかって話になるのかもしれない。私はさっき“届ける”って勝手に書いてしまったけれど、「想定するターゲットにとって嬉しかったり助かったりする何かを“生む”コミュニケーションをデザインする」領域に踏み込んでいる人にすれば、コミュニケーションデザインができることの守備範囲やミッションはもっと広域だったり、もっと軸足の違うものに見えているのかも。

最近、広告代理店やサイト制作会社にいた人が、クライアント側やWebサービスを開発・提供する側に転職するってキャリアの歩み方がよく見られる。広告代理店のクリエイティブディレクターも、転職しないまでもクライアントワークの中で商品開発まで領域を広げていたりするのは、従来のコミュニケーションデザイン領域ではできないことを前提に、そこに限定されない何かをやりたい人たちの気持ちの表れなのかなーなんて思う。

どっちが良いって話じゃなくて、「コミュニケーション」に軸足を置きたい人が“届ける”から“生む”に仕事の軸を移行していっていたり、「コミュニケーション」という専門領域から違う領域、あるいはもっと広域に関わっていきたいと思う人が自分の居場所を変えていったり、また“届ける”とか“伝える”ところをとことん深堀りする道筋もあるのかもしれない、いろいろな歩み方を妄想する今日この頃。もっと違う何かもそれぞれにあるんだろう。そういう気持ちの風を見守りつつ感じつつ、人のキャリアをサポートする人間として生かしていけたらなぁと思う。

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