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2007-05-27

我慢強さと思い切り(と週記)

世の中には我慢強いことを善しとする風潮があって、確かに我慢強さは素晴らしきことかなと思うんだけど、我慢しなくていいものに対して我慢強く踏みとどまっていても仕方がないわけで。もったいなかったり不毛だったり。

でもこういうのって習性みたいなもので、一度そういう志向性をもってしまうと、気づいた時には無自覚にそちらに傾いた選択をしているということが少なくない。特に「我慢」なんていうアクションを伴わない身のふり方は、そういう状況に陥って尚気づくのに時間がかかる。最後まで気づかないこともある。

で、むやみやたらと我慢という道を選択しないように、我慢強くあるべきものと我慢しなくていいものって何で決まるんだろうと考えを巡らせてみたところ、結局やっぱり「自分次第」という身も蓋もないゴールに帰り着いてしまった。

ガマン系の人間にとって本当に難しいのは、我慢強くあること以上に、それが「自分」という入れ物の中で我慢すべきものになるのか、我慢しなくていいものになるのかを見極めることじゃないかと最近思う。ほっとくと無自覚なまま根拠のない「我慢」に流れていたり、はっとそれに気づいて考え出しても、その辺の筋肉が弱くて、じゃあ我慢を止めていいのか答えが出なかったり。

まぁ別にこれという答えなんてないわけだけど。と書いて、そっか、別に答えなんてないんだな、と思い至ってしまったが……。とにかく、無自覚に無意味な我慢しているんじゃやりきれないなぁと思いつつ、しかしまた自覚できてもどうすればいいのか答えがわからないんだなぁというどうしようもない雑記。

我慢強さと、度胸とか思い切りという類の強さは、腹筋と上腕二頭筋くらい離れたところにある気がする。自分の筋肉のつき方には自覚的でありたいし、もう少しバランスよく鍛えてうまくつきあえるようになりたいなぁ、なんて思う。

で、全然関係ないけどこの一週間のメモ。なんだかものすごくいろいろ忙しくしていた。仕事もいろいろ大変だったんだけど、お酒を飲む機会も私にしては異常に多くて、この一週間で体内のアルコール分解酵素がぐんと増えた気がする。いろいろ頭の中を整理しないとなぁと思いつつ、今はとりあえず駆け抜ける時期なのかもしれないとも思ったり。仕事はさらに多忙極めそうな悪寒。

2007-05-18

メールの漂流

出したメールというのは、だいたいどれくらいの割合で漂流してしまうものなんだろう。0%じゃない気がするな。なんら問題ないメールアカウントに向けて送信しても。というか、膨大なネット上のメール流通量と、セキュリティという名のさまざまな関門をかいくぐっている様を頭の中に思い描くと、よくぞここまでたどり着いてくれましたと麦茶でも差し出したくなる勢いだ。

今日mixi経由でメールが届いたんだけど、それは5/14に送信されたメールだった。けど、手元に届いたのは今日5/18だった。これはmixiの画面上でも新着メールの通知が出ていなかったから、単純にmixi内の問題だろうけど、でもまぁ遅れてでも手元に届いたから遅延の域内。

今年のお正月、自分の送ったメールが相手先に届いていなかった一件は、それはそれで発覚したから良かったものの、たぶんそのメール自体はいまだに届いていないし、今もどこかを漂流しているのかもしれない。これはもう遅延の域ではない。こういうことがあると、発覚しないことでそのまま疎遠になってしまっている人間関係も世界中にはそこそこあるのかなぁと思う。

あるべき連絡であればメールが届かなくても問題の掘り起こしができるけど、あったらいいなぁとかいうメールは、届かなくても先方にそれを確認するという行為に及ばず、例えば自分の送ったメールに対して返信はなしという仮の現実に着地して終わってしまう。まぁ多くの場合、本当に反応がなかったからメールが届かないわけで。

そういう落とし穴みたいなのは、技術進化があって使う道具が変わっても、なんらかの形であり続けるのが必然なのかもしれない、とも思う。ハトに手紙をお願いしたら、海を渡っている途中で、あ、落っこどしちゃった、みたいなのと同じで。人生ってそういうもんかもなぁと。届かなかったメールの件が後から発覚して良かったとなれば、それはそれで一つの必然に感じられるし。私、なんか必然思考なんだなぁ。現実をとことん許容する非現実思考というか。

2007-05-13

交換できる人間

昨日はうちの会社も毎度協賛させていただいている人気セミナーシリーズの拡大版。正午過ぎから日が暮れるまで、300名強を集めて開催。日頃からお世話になっている皆さんの講演を立て続けに拝聴できる貴重な機会だった。

いずれも素晴らしい講演だったのだけど、なかでも2つ目の講演は、もう素晴らしすぎてくらくらしてしまった。個人的にツボにはまってるというのもあるのだろうけど、それを考慮してもとにかく聴衆に訴えかけるものが半端なかった。

講演のテーマ設定や構成、演出の一つひとつが研ぎ澄まされていて、それがものすごく生命力あるメッセージとしてドラマチックに統合されていて。それが、限られた時間、その会場にいる全聴衆めがけて集中投下される感じ。

もう、何から何まで素晴らしすぎた。講演直後、私は誰よりも早く拍手したと確信している。周りがアメリカ人ばっかりだったら、間違いなくスタンディングオベーションを始めていたと思う。

そうとう目を凝らさないと見えてこない物事の本質的価値を見出して、そこめがけて深く深くもぐってもぐってつかみ取ってくる。それを惜しみなく外に発信するに留まらず、もぐっていく道中で体験した、それを探り当てるまでの思考過程と胸の高まりを、それを体験していない私たちにも衝撃をもって伝わるように、洗練された言葉でドラマチックに表現していく。心を揺さぶられ、胸に突き刺さってくる、ものすごく考え抜かれたプレゼンテーション。それは、素晴らしい舞台を観劇した後の満たされた感に等しい。

というのを堪能して一夜明け、なんだか私はいろんな人からもらってばっかりの人生だなぁと自分の甘さをじんわり痛感。自分の関心分野をもっと深く探求して、人の幸いにきちんと貢献していく具体的な行動を、もうちょっとまともに起こせるようでありたい。もらうばかりじゃなくて、交換できる人間になりたい。

人から見たらあるようなないような感じに見えるかもしれないけど、自分の中できちんと「在る」と納得できるような自分なりのあり方を見出したい。自分のテーマで日頃からインプットを積みあげていくのと、きちんとイベントを設けてそれに向かって集中的に思考を練り上げてアウトプットしていくのと。その2つをきちんと生活に組み込んでいく意識と行動が大事。あぁ、もう本当にありがとう。

2007-05-09

定義とは何か

少しややこしい話をしますが、「定義する」ってどういう意味かっていうと、大辞林の辞書には「ある概念の内容やある言葉の意味を他の概念や言葉と区別できるように明確に限定すること」とあります。ややこしいですね。つまり「それは他の似たようなもんとどこが違うわけ?」に答えるものといいましょうか。

さて、この辞書の説明には時間の概念は含まれていないようですが、どうも私たちのイメージには、「定義」というのは今後も変化しない絶対的な枠組みというのか、「もう完成していますので、お手を触れないでください」みたいな付加イメージがくっついてくるような気がしますが、どうでしょうか。

何かの定義を検討することはあっても、「定義」の定義を検討するというのをこれまでしてこなかったので、今回考える機会を得て、ふーむとそんなことを思った次第なのですが、あるいは私固有の印象かもしれません。エライ人が決めたから、きっとそうに違いない、ずっとそうに違いない、みたいな庶民思考。

でも「定義」って決して絶対的なものじゃないんですよね。今信じている定義だって必要十分じゃないかもしれないし、今はそうだけど今後はどうなるかわからないもので言えばそれが大半だと思います。

それでも現時点の「定義」にはそれぞれに存在価値があるわけで、その一つひとつには当然創造主がいるわけです。そして、その主は当然神ではなく人なわけで、そこに到達するまでには大変な思考と熱意と勇気が注ぎこまれていると思うわけです。それについて考えていたら改めて、仕事でもやりとりさせていただくことが多い「発信者」に対する敬意の気持ちがむくむくわいてきます。

こんなことを考えさせてくれたのは、私が愛してやまない國分康孝先生が書いた本「カウンセリングの原理」の中の一節でして、そこの要点のみをかいつまんで共有します。総表現社会の現代では、こういう意識がとても大切な気がします。

◆定義とは、ある事象を理解するための道具
◆ある定義にもとづいて資料を集めたり、実際体験を重ねているうちに定義が徐々に修正されることは大いにありうること
◆可変性があるから頼りないように見えるが、しかし定義があるから言動に一貫性が保たれる、道具なしにある事象を理解するのはきわめて不便
◆定義という思考の枠組みがあるから、それを手がかりに調査研究できる、人とコミュニケートできる、思考がはかどる
◆自分の人生で深いかかわりのある事象については、とりあえず自分なりの定義をもつ必要がある
◆「人はどのような定義をもっているか知らないが、私はこういう定義です」といつでもいえるほどの意識性が必要である

2007-05-04

ドレスの衝動買い

ドレスを買ったが、着ていく場所がない。というか、着ていく場所がないのに、ドレスを買った。うん、この方がしっくりいく。つまり衝動買いをしてしまったのだ。使うあてのないドレスを。なんとなくの気分で。

そもそもドレスなんて友だちや親戚の結婚式にしか着る機会がない私の暮らしぶりにあって、今回買ってしまったドレスは白地で結婚式に着ていけない。なんでまたそんなものを……とお思いでしょうが、それはつまり、一目ぼれ。だって素敵だなぁと思ったんだもの。

私が着るものに頓着するなんて珍しいことだし、そういうめぐり合いは大切にしないと!と思って、ぽーんと買っちゃった。今のところお小遣い制でもないし、GWに海外旅行に行ったと思えば、ということにして。それにしたって、着ていく場所がないというどうしようもなさはどうしようも拭い去れないのだが。

んなことぐだぐだ言っている割に、買うときは速かった。高い買い物を完全な衝動買いで即決する男っぷりに、店員のおばさまも惚れ惚れしていた感あり。なんかものすごい短時間に、ものすごいたくさんお礼を言われた。

ドレスを着ていくような予定を組めばいいわけでしょ。どっかあるでしょ、どっか。「ドレスがある。だからドレスを着ていかないとまずいような場所に出かける」っていう行動の起こし方も楽しいでしょう。って買って帰ってきたものの、あまりに縁が無くてやっぱりわからない。でも、発売前のものを試着して決めたので、届くのは今月末だそうで、それまでに見つけておけばいいや、と。

仕事上のつきあいが深い人には私のことを慎重派とみる人も少なくないけれど、私は仕事から離れると、直感をこよなく愛し、ときに無鉄砲なのであって。どちらが本当の自分と言われても困るのだけど、仕事上では割と慎重派、プライベートではずぼらで無鉄砲というのが、私の自然体だったりする。

そんなわけで、日々の仕事時間が長くなると、必然的に慎重な時間が長くなり、無鉄砲な時間が短くなる。でも、それってなにかちょっと不健全だよなぁという気もするので、これでいいのだ!というドレス衝動買いの正当化。

2007-05-03

限界

限界を破ってしまったことがある。中でも最たる経験を、今日は想い出していた。私は自分の限界を知り、少なくとも現時点の自分の限界はココなんだと、多種の入り混じった痛みとともに自覚した。

それがいかに長期戦になっても最後まで責任をもつだけの覚悟なしに、生半可な気持ちで限界に近づくのは、時としてとても危険なことで、とても不誠実なことになる。ということを、そのとき大いに学んだのだった。

以来、必要以上に臆病な面もできた。多くの事柄は、スタート地点ではどれだけの覚悟が必要になるのかわからない。ゆえに、一度限界に達した経験をもってしまうと、あの極限に達する覚悟をもってして臨めないなら近づくなと様々な場面で無言の警告を受けるようになる。なんとなく気づいてはいたけど、はっきりした自覚ないまま、どこかで臆病なブレーキをかけ続けてきた。

今日は今までにない全体観をもってそれに向き合えた気がする。なんだかすーっと、救われた気がしたのだった。自分を縛り続けてきた緊張の糸が、少しゆるまったのか、少しほどけたのか、気分が楽になった。まだまだイメージは茫漠としたままだけれど、少しずつ治癒していくのかもしれない。

役割には範囲と限界をもつこと、そして自分の弱さや力の限界を心得ておくこともとても大事なことだ。限界を破ることでどんな誤りが起こりうるかも十分考えられていなければいけない。でも、限界の向かい側にある、可能性に向かう気持ちを失っちゃ先がない。限界と可能性、両方に重みを感じ、両方に向き合いながら、可能性に一歩を踏み出せる人でありたいと思う。

[参考]「カウンセリングの実際問題」河合隼雄著(誠信書房)

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