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2006-06-26

空にみとれた

久しぶり、空にみとれた。今日見上げた夕空はなんだかとても色っぽかった。

日中社内を歩いていて、ふと危機感を感じた。この状態ってものすごくまずいかも、と。なんだか眉間にしわが寄っているような、顔が硬直したままのような、ものすごく狭いところで一人思考の井戸にはまりこんでしまっているような、外界が全然見えていないような、外界に全然生きていないような……。集中しなきゃいけないのはそうなんだけど、どうも人として何かを失いかけているんじゃないかという気がして。

それで18時過ぎに、とりあえず会社を出てみた。明日までにやらないといけない仕事があるので結局持ち帰りなんだけど、とりあえず出るだけ出ておくのがいいんじゃないかという気がして、明るいうちに会社を後にした。それで、こりゃすごい、と空を仰いだ。今の季節って、やろうと思えば空が明るいうちに帰れるんだ。そして、頭上に広がる空のなんと美しいことよー(半泣き)。

季節感を感じながら生きていくというのは、実はとても大切なことなんじゃないだろうか、と思う。空はいつだって、昼と夜のあいだ、季節と季節のあいだで、少しずつ、ときに劇的に表情を変えながら、頭の上に浮かび続けている。いつだって、一生に一度、そのときだけしか見せない顔をして浮かび続けている。なのに、しばらくその色っぽさにみとれることがなかったのは、私の感受性に原因があったんだろう、な。

今日、色っぽい空が見られて、良かった。本当に。まだ大丈夫、かろうじて。

2006-06-25

みやげ話に泣く

今日は友だちと会って散歩→カフェ。まる4時間ほどのんびりおしゃべりした。カナダのおみやげ話をたくさん聞かせてもらったんだけど、その間二度も、私は目頭を熱くした。うるうる、と。なんなんだ、なぜ人のみやげ話で泣くのだ。

いやぁ、生きるってそういうことだよなぁと、しみじみ思ったのだ。生きるって、生きているだけじゃだめでさ、生きる喜びを感じながら生きているようでなければ、「何してんの、こんなところで」って話なのだ。いつだって現在進行形で心の根幹をふるわせながら生きていなきゃ「だからー、何してんのよ、こんなところで」って話なんだって、すごくすごく思ったのだ。それこそ、心ふるわせて実感させられたのだ。

会うべき人には会いにいった方がいいし、行くべきところには行った方がいい。伝えるべきことは伝えた方がいいし、やるべきことはやった方がいい。そして、その「べき」っていうのは、結局自分が決めること。自分だから決められることで、自分にしか決められないこと、だから気づけば自分で規定していることなんだよね。大方の「べき」は、100%の客観性をもつことなんてできなくて、多かれ少なかれ自分の主観性を含むものなんじゃないかなぁ。まぁ、他人様の迷惑にならないよう配慮しつつ、「べきこと」はやってみて、やってみた後は潔くふるまうのがいい。

生きているうちしか会えないし、生きているうちしか行けないし、生きているうちしか伝えられないし、生きているうちしかできない、何事も。そして、今私たちは生きている。ということが大事。いやぁ、あっちっちな文章だな、こりゃあ。まいった、まいった。そしてこれがまた、実践するとなると難しいんだなぁ。

2006-06-23

日本目覚まし時計協会の調べ ※注1

2006年6月23日、「いつもはもっと遅く起きるのに、今日だけいつもより早い時刻に目覚ましをセットした日本人」を調査したところ、設定時刻は3時30分が36.6%、3時45分が21.1%、4時が32.3%と、圧倒的な率でこの30分間に集中していることが、日本目覚まし時計協会の調べで分かった。尚、設定時刻を早めた理由は99.8%が「サッカー観戦のため」。

私の場合、設定時刻は32.3%の4時に属していてなかなか人並みなんだけど、理由が「仕事」と99.8%からもれているところに欠陥あり。そもそも、今日がFIFAワールドカップ日本対ブラジル戦の日だと知らないで、朝4時に目覚ましをセットしたというところに、日本人として致命的な欠陥を抱えている。

まさか、同時刻に日本中の皆さんがむくむくと起き出していたとは……。ここ数日朝も夜もラジオをつけないでいたので、垂れ流しで私に情報を与える機器が周辺に何一つなく、世間的関心がまったく見えていなかったのだった。恐ろしい。来週……はダメかもしれないけど、再来週くらいにはもう少し、時間というより、頭というより、心のゆとりをもっていたい。

※注1:でたらめ

2006-06-20

地球はうまくまわってる

なんか、ある仕事が一息ついたと思ったら、ある方の仕事がにわかに大変になってきた(っていうか今日一日で猛烈に大変になった気がする)。今抱えているモノはもちろんどどーんと目の前に鎮座している中、手放す予定の仕事はもうしばらくお願いという話になって、さらに新しい案件やら大小さまざまの課題やらが「どいて、どいて、キーン!」とアラレちゃんみたいにして四方八方から突進してきて、そのおもてなしが最優先となった。それが今日に集中。すごいなぁ。タイミングを見計らっていたのだろうか。よくもまぁ皆さん、一日に足並みそろえてわっしゃわっしゃと勢ぞろいしたものだ。

はい。頑張りますよ。頑張る予定。ここ頑張っとくと、結果がどうあれ力つくだろうし、うまくいけば良い教育サービスも提供できそうだし。なんだか、人と人がつながっていって、仕事が育まれていって、この波に乗ると感覚的で本質的な何かを一気に取り戻せそうな気もする。ちょっとアクティブな風が吹いていて、ちょっと胸が高鳴っていて、この風にはしっかり乗って頑張りなさいって言われている気がする。振り返ってみると、ここしばらく会社の仕事って一定の温度設定を保ってやってきた気がするんだけど(決して低温じゃないが)、これからしばらくは会社の仕事に肩までしっかり浸かって、これに集中して頑張ったり人と関わったりと、仕事にはまる時期が再来したのかもしれない。というか、そういう意識改革を心底前向きにしないとまわらないかも。怯えと期待感の共存。そんな感じ。

ちょうどある方の仕事が落ち着いたところで。誰にどの時期どれくらいの仕事をってさじ加減はうまいことできてる。地球はうまくまわってる、ということで。

2006-06-18

0.5日のゆとり

く、、くたびれた。ここのところ本当に疲労が積み重なる一方で、家にたどり着くと知らない間に気を失っているし、眠りは浅いし夢は深いし、朝方は金縛りにあうし、目を覚ませばPC立ち上げっぱなし、電気つけっぱなしだし。はぁ、まったく困ったものだ、しょんぼりのぼんぼりだ、だった。

しかし今日の昼をもってある仕事がひと段落したので、これからしばらくは少し落ち着いて健やかな生活づくりに努めよう!と今抱える仕事に怯えながらも思ってみたりしている。読みたい本もバランスよくいろいろ読んでさ、音楽もたくさん聴いてさ、お買い物もしてさ、プールもしっかり通ってさ、友だちとも語らってさ、ものづくりも楽しんでさ、勉強もしてさ、いろいろぼーっと考えてさ、あれこれ書きとめては「あ、そっかー」ってちっちゃな発見とかしてさ(って、なんかじょじょに思考が地味なほうへ向かっている気がする……)。

何はともあれ、もう少し人なみに、華やかさはなくていいから(あると疲れる性質)、ゆとりのある暮らしを営もう。ということで、今日は仕事を終えた昼過ぎから(目を充血させたまま)夜まで、ほとんど部屋にこもってとっかえひっかえ音楽を聴き続けた。昔馴染みの切ない音楽を。本当に華やかさがないな。

で、22時過ぎラジオをつけたらば、ワールドカップの中継をやっていた。そうか、今日は日本対クロアチア戦か(気づくのが遅い、いや、遅すぎる……)。スピーカーから聞こえてくるアナウンサーの叫び声に続いて、近所のあちらこちらからウォーという叫び声やら、森に迷い込んでしまったような動物のうめき声みたいなのが聞こえてくる。ラジオがなかったら、事態が読み込めずひどく怖い思いをしていただろう。ラジオは休日の私と世の中の接点だ。

2006-06-17

青臭い固定概念

「死」という概念に、むやみに近づきたがったり、何でも関連づけたがったりするのは、またその概念がひどく固定的で偏狭で、暗黒なものだったり、鋭利なものだったり、悪や無気力や絶望を象徴するものに限定されているというのは、実はものすごく青臭い、若者特有の概念なんではないか、と思った。

歳を重ねていくと、その分「死」との距離は短くなる。人の死に際に立ち会う経験ももつ。おじいちゃん、おばあちゃんにとって、前述の概念が若き日のまま固定的にあるとは思えない。30歳の私ですら、すでにその固定概念には違和感を感じるのだから。

「生」を積み重ねれば「死」という概念も、もっと白っぽいものだったり、透きとおったものだったり、ごく自然に隣り合って「生」と二人三脚するようなものだったり、自分をよりイキイキと生かしてくれるものに、概念のありようが上向いたり広がりをもったりしていくものなんじゃないか、と思った。

前者の概念は、「死」がはるか遠く先にある若者の、若さゆえの固定概念なんじゃないかしら。そういう概念の固定的な様は、小学生が汚い言葉を使いたがったり、中学生がタバコを吸いたがったりするのと似ている気がする。

大人になる過程で、自分の固定概念や偏狭なものの見方にはっとさせられることがある。そういう機会を確実に捉えて、自分の中の固定化された概念を叩き割ってみたり、ものの見方をががっと広げてみたりすることは、とても大切なことだと思う。本当の大人になるためには。と、わけの分からない呟き。

2006-06-14

Don't Look Back In Anger

今朝家を出る前にラジオから流れていたのがOASISの"Morning Glory"。おぉっ(涙)と胸ふるわせて、家に帰ってきたら絶対にゆっくり聴こうと思って、OASIS2枚目のアルバム(What's The Story) Morning Glory?を表に出してから家を出た。

家に帰ったらこれをしようと出掛けに思ったことって、家に帰る頃にはたいていその意欲が減退していて結局やらずじまいになってしまったりするんだけど、いやぁ、これはまったくそんなことなかった。おうちに帰ってから、即聴いて、聴いて、今なお聴いている。夏になると無性に聴きたくなる一枚でもある。

これが出たのが1995年。私が知ったのはたぶん97年夏。たぶん21歳とか。90年代、そんな勝手に遠のいていかないでよって思うのに、どんどんどんどん届かなくなっていく、見えなくなっていく。時の流れってほんと切ないなぁってしみじみ思ってしまう、ところが歳。

最近、私の中で対面するわたしは、ふがいなかったり、甘ちゃんだったり、意固地だったり、気持ちよい自分との出会いが少なくて、ちょっと苦悩中。唯一の救いは、そういう自分に気づいて落ち込むわたしがいるってことぐらいだ。なんだか余裕が足りない。

ハッとして反省するタイミングがどんどん早まってきているから、たぶんもう少しでAとBの融合時期を迎えるはずなんだけど。AとBってなんだ?まぁ、とりあえず内面的に一歩成長するはず、との希望的観測。いい加減落ち込み疲れてもきたし、そろそろ浮上したい。自己嫌悪は十分。そろそろ上昇気流へ。

2006-06-10

哀愁のおじさん

先週職場で流行った成分解析。まだやっていない人はやってみよう。自分のフルネームを漢字で入力して「成分を解析する」ボタンを押せば結果が出る。

4つくらいの要素から成り立っていることが多いらしいけど、私は2つだった。それも「乙女心94%とアルコール6%で出来ています」のだそうで、乙女心の純度高し。ところで乙女心って何だ?それも、ちょっと酔っ払っている。要素は人によって優しさだったり心の壁だったり明太子だったりいろいろあるらしい。

さて今日は土曜出勤だったんだけど、18時半には切り上げて薄暗くなった頃に帰ってきた。それで近所を歩いていたら向こうから自転車に乗ったおじさんがやってきて、私の目の前で自転車を止めた。なんだ?と思って目をやると、おじさんは第一声こう話しかけてきた。「お姉さん、この近所に住んでるの?」と。す、すごいな。いきなり自転車止めてそんな質問するなんて。このご時世、この時間帯じゃ「どうか身構えてください」と懇願しているようなものだ。

ここまでストレートにくると、逆に何の悪気もないんだろうという気がしてくる。それで「はい」と答えると、おじさんの第二声は「新聞とらない?」。なるほどー、そういうことか!と一人で納得。とはいえ、お受けすることはできず「すいません、新聞はとらないことにしているので」。そう頭を下げると、おじさんは「そうかー」と苦笑い。明らかに通りすがり道端で話しているとは思えない新聞勧誘の会話を2、3やりとり、おじさんはまた静かに自転車をこぎ出した。

なんというか、ダメもとではあったんだけど、営業所まで残り100mくらいの地点で最後の最後の賭け、なんかの間違いであっさり「いいですよ」と返ってきたら、今日の疲れも全部洗い流せるのに、みたいな感じだった。日暮れまで散々同じフレーズを口にして、これが今日最後の「新聞とらない?」だったんだろうなぁと、そのおじさんの一日を勝手に振り返って「お疲れさまでした」と心の中でつぶやく。すみません、ヴィーナスじゃなくて。

その後、何度か振り返って、小さくなっていくおじさんの後ろ姿に視線を送ったけれど、その背中に「そうか、これが哀愁ってやつかぁ」と思う。思わされる。彼の姿勢、表情、視線、声の抑揚、あらゆるところに哀愁が感じられた。「あなたは哀愁94%と無邪気6%で出来ています」とか、そんな感じだった。

2006-06-07

自分の鼻をへしおる

誰かの発言や振る舞いなど、他の人の言行に明らかにおかしいと感じられる何かがあった場合、自分の意識はそちらに向けられ外に焦点が定められる。外に向かって批判力を発している時って、たいてい無意識のうちに自分に対する批判力はおろそかになっている。少なくとも自分はそうだと今日思った。

「他が明らかに誤っている場合、自分は正しい」が成立するなら、それでもさして問題ないのかもしれないが、そんな公式は成り立たない。他に対して「なんだか本質を見失っているよなぁ」とか思っている自分も本質を見失っていることはあるし、他に対して「なんか言ってることとやってることが違う気がする」とか嘆いている自分が、自分の言ってることに行動が伴っていないことだって起こりうる。他が明らかに誤っている場合でも、自分も別の誤りにはまっている可能性は十分にある。しかしながら、一旦外に目を奪われると、自分のことは棚にあげてそのまま視界の外に放っておいてしまうのが世の常、人の常。

情けないかな、実際あったんだよね、最近の自分の言行にそういう反省が。つまり前述の公式は成り立たないことを身をもって実証。「一緒にするな!」と言われれば確かにその通りなんだけど、まぁ一応同じ星のもと同じヒト科に生まれたよしみで、「世の常、人の常」ということにしておきましょう、穏便に。

で、気づかなければ気づかないで結構な距離を走り続けてしまえるものだなぁと思った次第。怖い、怖い。だから意識的に「そういう自分だって正しいのかどうか怪しいもんだよ」と自分の鼻をへしおる機会を設けるといいんだろう。自分のことを棚にあげようとつま先立ちしている最中に肩をたたいて声かけて。

「自分の心はきれいなはずだ」なんて思い込んでいると、知らぬうちにどんどん綿ぼこりがたまっている。掃除しないできれいな部屋を保つなんてできないことを知っておかないといけない。まして今よりもっときれいな部屋にしたいなら、日々小掃除したり、時には大掃除したりしてきちんとお手入れしないと。

そんなことを思って、ちょっと自分の鼻をへしおってみた。あいたた。でも生来の小者なので、思いがけず突然人にへしおられるより、その前にとりあえず自分で気づいて一度ぼきっとやっておくと安心。そうすると、後から同じところを人にへしおられても、素直にありがたい気持ちで受け止められるものだし。

いやいや、この先も人に指摘されずじまいで済むように先手先手で。ここ最近はいろいろ大変な局面もある一方で、人にたくさん支えてもらっている。せっかくの支えをきちんと自分の心身の立て直しに反映していかなくてはね。

2006-06-06

表現を受け取った人の解釈

前回の話。いきなり「歌詠みます」と言われてもね、「なんだこりゃ」って感じだったと思いますが、今回はその歌の解釈。頭で考えて詠んだわけじゃなくて、不意に口をついて出てきてしまったものだから、後から自分なりに振り返ってみるとって話なんだけど。でも、歌って本来そういう衝動の産物なのかも。

私の振り返りは実にそのまんま。「さみだれ」とは梅雨。梅雨に入るか入らないかというこの時期、一般的にいって梅雨入りはいやがられるところだけど、なんとなく求めている自分がいるんだな、なんでだか。振り返ってみるに、まぁそういう心情を表した歌だ、って本当にそのまんまじゃないか……。

しかし、もっと深い解釈を寄せてくれた方がいたのでちょっと拝借。ちょっとやるせない、自分でもてあましているハッキリしない気持ちを洗い流してくれるような五月雨を待っている。「もとめて」というところに、切ない気分と同時に、読み方を換えると、やけくそっぽい元気さを感じる。「ええ~い、早く降れ~」という思いの裏側に「雨の後はきっと元気になるだろう」という希望がある。

ちょっと手を加えさせていただきましたが、そんな感じ。一言でいうならば「切なさとやけくその共存」。いやぁ、すごいなぁ。本人が意識化できていないところまで掘り起こす感じ。自分が実際にそうかどうかなんてもうどうでもよくて、歌からこういう読み取りをするっていうことに面白さを感じる。それに私がこの解釈によってより深く自分の内面を知る手がかりを得ることに違いはない。

人に自分の表現するものを伝えていくことって大切なんだなって、改めて深くそう思った。いろんな効用があるんだろうけど、そのうちの重要な一つに今回のようなことがあるんだと思う。表現を受け取った人の解釈を聞いて、その対話の中から自分の知らない自分を知る。どこか自分で思い込んじゃっている自分の今のありようを取っ払ってみる機会になったり、いろいろ反省もわいてきたり。偏屈になっていることにも、バランスを取り戻せてくる。大事、大事。

2006-06-05

まりぞう 心の俳句

《 さみだれを もとめて空を あおぎみる 》

ふと、ふと頭に浮かんだ歌を詠んでみた。

そんな気分なんだろうか。そんなこともなかろうさ。

いや、そんな気分なのかもな。

なんとなく、腑に落ちた。腑に落ちてきた。

どこからやってきたのやら。

2006-06-03

振込詐欺の仕込みは2日前から

金曜の夕方、母から電話があった。まだ17時過ぎくらいのことで、仕事時間にかけてくるとは珍しい。が、昨日は昼食もとれず外出やら社内プレゼンやらとにかく目まぐるしく動いていて電話をとることができなかった。ようやく落ち着いて席に戻った頃には、母からメールがきていた。タイトルは「事件です」。私はあなたの姉さん!か……(by 高島政伸)と、ひとまず突っ込みを。

メールを開いてみると、なんと振込詐欺に遭ったとある。メールは「暇な時にゆっくり話すね」と短めに締めくくられ、事件はすでに終息している様子。とはいえ、できるだけ早く話したいから電話をかけてきたのだろうし、気を落としていたりしてはいけないわと思い、今日の昼休み家に電話をかけてみた(昨晩は遅く今日も仕事だったのです……)。すると、電話口に出たのは父。母は外出していたので、父から事件の全貌をきく。みんなもチェックチェック。

まず、私の兄役からTELが入る。「新宿で博打して友だちに100万円借金した。それを返せなくて業者に借り、現在150万円の借金がある。お金がないんだけど、どうしても今日中に返さなきゃいけない」といった感じで。次に、業者役からTELが入る。先の兄役とつじつまの合う感じで支払いを求めてくる。ともに父が対応したそう。

思わず振り込んじゃいそうなポイントは「着信番号が兄の携帯番号である」「本人に声が似ている」「業者は(きっと)怖い」「150万円とどうにか捻出できそうな金額設定である」。あとは、情報の具体性とか、会話中の切り替えしの巧みさ、全体の流れのつじつま合っている感じ、こんなところじゃないかしら。

なかでも不可解なのは「着信番号が兄の携帯番号である」だ。実はこれ、事件の2日前から伏線が敷かれていたのだ。水曜の時点で兄役が家に電話をかけており、携帯電話を替えたから新しい番号に変更してくれと連絡しているのである。これは母が対応。父にも番号を変更しておくよう指示されている。父は母から話を聞いているため、当然兄本人から連絡があったものと信じて疑わない。また一度番号変更を手続きしてしまえば、番号自体を自分で憶えている必要もないし、その出来事も記憶の彼方に沈められてしまう。そのため2日後兄の番号から着信があれば、まず兄に違いないと信じてしまうのだ。

ちなみに、母はこの電話で兄の声がちょっと変だとは思ったらしい。が、ここでまた巧妙なのが、母がちょっと疑わしく思って「○○?」と兄の名を確認すると、「風邪がなかなか治らなくって」と返してきたのだそうな。それで母は声の違和感をあっさり受け流して兄だと信じてしまった。というのも、兄夫婦とも1週間前に風邪で寝込んでしまって、孫の面倒をみに母が兄宅へ出向いて間もない出来事だったから。「風邪をひいちゃって」ではなく「風邪がなかなか治らなくって」と切り替えすところが実にいやらしい。

結局、そんなこんなで途中まで相手の思うつぼだったわけだけど、偉かったのは、ひと通り話を聞いた上で父が兄役に言った一言、「おまえの生年月日は?」。振込詐欺も多発しているから、念のためおまえの生年月日を言ってくれと話したらしい。うーん、やるねぇ、かっこいい。兄役は「信じられないのか」とかなんだとか切り替えしてきたらしいが、結局は答えられなかったわけだ。ただ、その切り替えしもわざとらしさがない巧妙さがあるらしく気が抜けない。

それでもまぁ、父の疑わしいという意識は幾分高まって、とにかく本人確認をするからと一旦電話を切った。ここで最近携帯電話が替わったことにも意識が及び、すぐ連絡がとれる兄の奥さんにTELして確認したところ、義姉はここ最近で兄は電話を替えていないという。今度は最終確認で兄の勤務先にTEL、不在だったが折り返しTELをもらって父が話したところ、兄本人から、最近携帯電話を替えてはいないし、2日前も今日も父とも母とも電話で話した覚えはない、もちろん新宿で博打して借金もしていないということで、振込詐欺と確定。父がすぐ警察を呼んで今回の全貌を報告したということだった。

皆さんもあらかじめ本人確認用の質問を5問くらい用意しておくと良いでしょう。本人なら当然知っているはずのこと。「生まれた場所は?」「おまえの兄弟は未婚か、既婚か?」「父(母)方のじいちゃんは健在か?」「○○に大きな怪我をしたのは何歳のとき?」「兄弟は何人?名前は何?」などなど。

それにしたって、数日前、自分が息子だと信じて電話で話した相手が、実はまったくの赤の他人で極悪人だったというのは、はっきりいって、ものすごく、ものすごく、心の痛いことだ。それが、本当にひどいことだと思う。本当にひどいことだ。本当に。

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