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2006-02-28

手づくり

意を決して、銀座アスターでランチした日。
意を決して、第3章を受け取り、第4章を書き上げた日。
29歳。私はいま、自分の人生を手づくりできているんだろう。

だから、いい。
あとはもう、吹く風に抵抗しないこと。

ひと通りのことを終えたら、あとは流れるままに流し続けよう。
吹かれるままに吹かれ続けよう。乗るべき風に迎えられるまで。

うむ。

2006-02-26

友だち

夜、もともとの予定で友だちが近所までやってきてくれた。コーヒーやさんで3時間近く、お互いの濃厚な近況などしゃべり続けた。友だちって素晴らしい。今日はもう五臓六腑にしみわたった。友だちっていうのは、エネルギーをくれるものなんだ。それも、予想だにしないものすっごい大きいのを。ありがとう。

2006-02-25

愚かなり

今頃は波にさらわれてしまって、もうこの先私のもとに戻ってくることはないんだろう。その落とし物は、想像以上に私の内面を占有しすぎていたようで、落としてしまった今、自分が生きていく意味を見失っている状態にあることに愕然とさせられる。

方向を見失うとか、途方に暮れるとか、お先真っ暗とか、そういうのは、きっとこういうときに使う言葉なんだなぁと思う。こんな言葉たちと自分の感情が見事に重なっていることに、なんだかなぁと思う。

本当はもっと前に失っているべきもの、というより失っていることを自覚すべきものだったし、失う前にその大切さに気づいているべきだったのに、今さらこういう実感を得ているというのは、本当に愚かだなぁと思う。

感情を内にしまいこむことは多少鍛錬してきたつもりなんだけど、それにもまぁ限界があって、自分の許容量を超える感情の波に襲われた場合は、たぶんそれを外に放出しないといけないと思うのだけど、感情を外に発散する筋力はほとんど鍛えられていなくて、なんというか、いまいちどうしていいものかわからない。たぶん、時間をかけて自分の許容量に分割して内で処理していく方向を選ぶのが現実的なんだろうなぁと思う。

これまでもまぁ結構大変だったけれど、これからがまた大変なんだろう。大切なものを自分の内側から捨てていかないといけないのはつらい。でも時間をかけてでもそうやって現実を受け入れて、いつか立ち上がらないといけないんだろう。そんな日がくるかもしれないし、こないかもしれない現実の中で。

家に帰り着いて、玄関のドアを閉めて、電気をつける手前で崩れ落ちてしまったら、目を閉じても開いても真っ暗で、人間には失うしかないときがあって、失うしかないものがあるんだ、と自分に言い聞かせた。しばらくしゃがんでます。

2006-02-19

「死ぬまでにしたい10のこと」ならぬ……

「30までにしたい10のこと」を考えてみようと思ったけれど、30になるまでにしたいことは1つしかなかった。でも1つだけ、どうしてもしたいことがあった。「30まで」って、直近の期限つきでしたいこと、しなくてはならないこと、もう何年も思い続けてきたこと、今日はそれをした。

29歳のこの日を、私は一生忘れないだろう。これで、いずれにせよ再スタートをきれる。きれるようにしよう。そうでなきゃいけない。これがその後の人生を経て節目の一日となるかどうかは、今日からの私にかかっているんだから。

2006-02-18

まぁ良し

先日書いた愚痴は、まぁもう良し。昨日友人とゴハンを食べて話を聞いてもらったらなんかすっきりしたし、そんなのが日常茶飯事な友人の話を聞いていたら泣きたくなってきて、自分のことはまぁいっかーという気になった。単純。とりあえず、自分が納得できる仕事をしつつ、内外の人が少しでも気持ちよく仕事できるように自分ができることはしっかりサポートすることに集中しよう。

というわけで、今日は朝っぱらから超充実。充実といっても仕事に精を出しているだけなんだけど、朝からコーヒーやさんにノートPCを持ち込んで、かなり集中して音がするほどがりがり仕事。午前中に1つ仕上げて、あと今日中にもう1つは確実に、できればもう1つも終わらせたい。そして明日はあっち側のあれとこれを仕上げて日曜の夜を迎えたい。地味な週末炸裂だー。

というわけで今週末は仕事づくめ。まぁ、とりあえず、良しとしよう……と言い続けて早何百日か経っている気がするけど。私の昔っからの大親友もこの週末でついに30歳になってしまった(「~しまった」とは失礼な)。となると、私もそろそろカウントダウン。ま、まぁ、良しとしよう。女も30から。人生って早い。

2006-02-15

その「どうでもいいこと」に頑張っている私は

いつの頃からか、「作り手」の視点をもって世の中とおつきあいすることができるようになった。かなりの駆け出しだし、私が生み出すのは決してパッと見クリエイティブなものではないけれど。そういう視点をもって日々を過ごすことは大切にしていきたいと心から思う。

見える世界の広がりと深みが大きく変化していく。つまり、こういうこと。

「受け手」は、一生「なんかいいよね」「なんかステキよね」と言い続けます。「作り手」は、「なぜいいのか。コレコレコウだからじゃないか」と考え続けます。(『新約 コピーバイブル』/編者:宣伝会議コピーライター養成講座)

日常にこういう訓練を組み込んで生活を営む習慣をつける。そういう体験を積み重ねて、主に仕事場面でそれを活かしている。目的を明確にして、構成要素を洗い出して、順番をつけて、適切な言葉を選びながら、見栄えも自分なりに配慮しつつ、実はやっとの思いでいろんなアウトプットを起こしている。

その自分の労苦が伝わらないのは、まぁ伝わらなくても役に立つモノができて自分にも学びがあったならそれでいいよねって処理できるんだけど、頭を使って作っているということ自体が伝わらないのは結構辛い。感性でやっているわけではないし(私は感性では絶対にできない)、なんとなく手を動かすだけ動かしてマウスとキーボードいじっていたらできましたってものでもない。

でも、たぶんそう思われているんだろうなぁって言葉にぶつかると、内心かなりへこむ。中身はどうでもいい、形ができたことに対するねぎらいの言葉。「その辺は任せる」「そういうのはどうでもいい」「いいね、いいね、ごくろうさま」。悪気なく会話の中にそんな一言を織り込まれると、だからこそ鋭く刺さる。私は「その辺」や「そういうの」こそ仕事と思って生みの苦しみを乗り越えているのにな。私が「その辺」に時間を割いてしまうのは、たぶんココにとっては悪なんだろうと思うと、申し訳ないような、やるせないような気分になる。

どこに苦しんで、どこに力を割いて作っているのか、「どこ」という要素ぐらい共通認識をもって仕事したいというのは、贅沢な悩みなんだろうか。そうなんだろうな。人の話を聞いても、本を読んでも、そういう苦しみは世の中のいたるところに溢れている。それでも頑張ろうって思えるのは、人の支えだったり音楽だったりコーヒーなんかによるものなのかもしれない。あぁ愚痴ってしまった。

2006-02-14

「なりたい」から「したい」への展開

幼稚園でも学校でも何かと「将来何になりたいか」を聞きたがるものだけど、どの卒業文集にも私の欄には間に合わせの答えしか書かれていないと思う。「絶対これになるんだ!」と意気込んで書いた記憶は一つもない。

ただ、「何もありません」と書くほど反抗心旺盛でも正直者でもなかったから、幼稚園の頃は身近にいる職業の「幼稚園の先生」、小学校の頃は習い事で通っていた「エレクトーンの先生」、中学校の頃は英語が得意だったから「通訳」、そんな感じじゃなかったかなぁと振り返る。

これといって「なりたいもの」がないのは、実は今も同じだ。人のキャリアに焦点をあててサポートしていきたいという意識は強くある。そうやって仕事をしていくことで、私は人と関わりあい、社会とつながりをもっていきたいのだ。

でも、それは別にキャリアカウンセラーという職種にこだわらないし、そういうことを実現するための手段はいろいろある。いわゆるカウンセラーっぽい仕事のこともあれば、ものを書くことで実現できることもあるし、トレーニングを企画・運営することだってサポートの手段の一つ。だから今そういう仕事をしている。

「なりたい」という明確なゴールを掲げられないかわりに、私はその時々「したい」ことに取り組み、それを育みながら生きてきた。昔はこれという明確なゴールを欲したりもしたけれど、今はこれはこれで地味だけど自分らしいし、こういうのもありかなぁと思っている。結果的に自分の仕事がどういう職種に分類されるかは、それぞれに後でへぇって振り返れる程度でいいかなと。

もちろん仕事内容には合う合わないがあるから、例えば「コンサルタント」みたいな立ち位置には向かないし、できないなぁと思ったりするけれど、その辺りのフォーカスは仕事をしていくうちにおのずとある程度しぼられていくものかなと思う今日この頃である。

「なりたいもの」が早いうちから明確にある人はすごいなぁと思うし、宇宙飛行士やアイドルやオリンピック選手はそうでないとなれないものかもしれない。

でも、「なりたいもの」が明確なだけでも意味がない。人は大人になる過程で「なりたいもの」を現実的な「したいこと」に展開しなきゃいけない。展開して本当になりたいのか検証しないといけない。「○○になりたい!」ならその意欲でもって具体的な仕事内容を自分で調べて「本当にその仕事をしたいのか」確認しないと、本当に自分がやりたいことかどうか分からない。「作り手になりたい」んじゃなくて、「使い手として好き」なだけかもしれないのだ。

私はもともと「なりたいもの」がなかったから(って随分な開き直りだけど)落とし穴に陥りにくかったけれど、「なりたいもの」がある人はこの落とし穴に陥らないように、自分が「したいこと」かどうか確認しないといけない。

確認してみて、それが本当に「したい」ことだったならば、したいことをするのだから、それがどうなっていくのであれ、そのプロセス自体を楽しめる。「なりたい」ものがなくても「したい」ことがあれば、人は幸せに生きていける。地味かもしれないけど、結構自分好みな人生を歩めるんじゃないかしら、と思う。

2006-02-12

インフルエンザにおびえる

先週の半ば、私の真向かいに座る上司がインフルエンザに倒れ、休む前日ゲホゲホそれをあびていた私は、自分がいつ倒れるのかビクビクして週の後半を過ごした。が、とりあえず健康のまま週末を迎えた。それでもまだぶるぶるっと寒気がすると、これはもしや!と不安がよぎって、土曜はただ寒いというだけで葛根湯をぐいっとやってしまった。冬なんだからまぁそりゃ寒いわな。

今日もまたたいそう寒く、冷たい風にあたって完全に身体が冷えてしまった。夕方おうちに帰ってくると、もう何をする気にもなれず、ふとんの中でまるくなって1時間ほど温まった。それでもまだ寒いので、もしや!とまた不安にかられて体温を測ってみると、35.3度。おいおい、そっちかい。低体温で寒いのだ。相変わらず私は変温動物。たぶん帰宅したときは34度台だったろう。

仕方ない!と、一旦ふとんから抜け出して雪山用のコートを取り出してきて、それを着込んでまたふとんの中に戻る。そしてまた頭までふとんをかぶってひたすらまるーくなっていると、なんだか自分は暖かい地域に生息すべき虫だったんじゃないかという気がしてきてむなしくなる。「みなしごハッチ」のテーマソングが流れる。ゆけゆけハッチ、とべとべハッチ。あぁ、春が待ち遠しい。

というわけで、インフルエンザより持病の心配をしたほうが良さそうである。とにかく健康第一。今週は外出が多いので気をつけねば!

2006-02-10

ぴったり服

毎日ってわけでもないですが、最近は比較的ぴったりした服を着るようにしています。ここ数ヶ月、寒いし太ったし……と少しゆったりめの服を好んで着ていたのですが、そうすると身体がさらに緩んできます。これではいけない!ということで、(繰り返しいいますが)毎日ってわけでもないですが、比較的ぴったりした服を着るようにしています。2回繰り返したから、これで頑張るだろう。以上、宣誓でした。

補足しておきますが、私の体型でできることにはもともと限りがあり、あくまで「比較的」です。本当にぴったりした服は、それを着こなせる人、着こなすべき人にお任せするのが世のため、人のため。私の長所は身の程をわきまえているところです。

2006-02-08

有意義な打合せ

あっちこっちの仕事でばたばたしているうち、あっという間に週も半ば。今週は結構身を入れて仕事をしている感あり。あれとこれとそれのアウトプットをどうにか今週中にまとめてリリースできそうな見通しがたってきた。

「ものづくり」がとにかく苦手だった私が、苦しみながらも有意義だなぁと実感しつつそれに集中し、何らかのアウトプットを世に送り出せているという現実には、はっきりいって私自身ときどき驚いてしまう。まぁ、少し前まで本当に何にもできなかっただけとも言えるんだけど……。とりあえず何だろうと成長は喜ばしいことである。

ただ、今自分が作り出しているものの品質について、私は決して謙遜でなく、まだまだちゃんちゃらおかしいお坊ちゃんサイズ(なぜか性別男)だと思っているし、まぁそう思わなくなったらおしまいなのかもしれないけれど、やっぱり品質に関して自分を導いてくれる人、上に引き上げてくれる人の存在は非常に貴重だなぁと思う。そういう存在ってなかなか限られているもので、そういう人に意見をもらえると、私は心から嬉しい気持ちに満たされる。冗談じゃなく涙ちょちょぎれそうになる。

時々、自分の作ったものに対してより良い改善案を挙げられると気分を害する人がいるけれど、あれはもったいない。マイナス感情の無駄遣いだと思う。改善案を出してくれる人というのは(それが場合によっては「○○がダメ」という問題提起に留まっていたとしても)、とにかく自分の作ったものを真剣にみてくれた人なのだし、さらにもらえる意見というのはどのようなものであれ自分を上に引き上げてくれる要素を含んでいるものである。そういう意見はとことんプラス思考でありがたくいただくのが良い。これは私が天性の楽観主義者だからできる芸当なのかもしれないが。

今日の打合せは格別だった。最近そういうものに飢えを感じていたので、仕事をする上で大きな支えを得られた気がする。私が行きたい場所に道案内してもらっているような心地よさがあった。しかし、それは現状とても一時的なものだ。コツコツ仕事して鍛えたい筋力を養いつつ、やりたい仕事をつかむための足場づくりにも自分なりに働きかけしないとなぁとぽつりぽつり思いながら、夜空をみあげて帰ってきた。うーん、実に抽象的……。

2006-02-05

抑圧

キャリアカウンセラーの端くれとして、キャリアに関わる書籍はちょこまかと読んでいたりするのだけれど、今回はそこからちょっとした共有。前回くだらないマニアック情報で終わってしまったので、そのお詫びも兼ねて真面目な話を。

精神分析で「抑圧」といわれる心理的な防衛機制がある。人はなんらかの出来事に直面したとき、その場ですぐその出来事の重さに応じた感情体験を意識できるとは限らない。「悲しいとき」を想定するとこれはイメージしやすいと思う。悲しみを伴う出来事が生じたときって、人はそのときの自分が受け止められる程度に悲しむ。それ以上には悲しめない。悲しまないように抑圧される。そうやって精神のバランスを保とうとする。では、その場で受け止めきれなかった感情はどうなるかというと、どうやら心の奥底に沈殿して残るようだ。

いい大人になればこういう感情体験をもつ人も少なくないのではないかしら。それは今どうなっているのかしら。時間をおくことで沈殿物が自然と消えていったように感じる人もいれば、今なお心の底のほうに何かが沈んでいるような気がしてならない人もいるのかな。結構つらいですよね、そういうのって。

私が読んだ本の中では、クライエント(来談者)がカウンセラーに話をすることの効能の一つとして、この話が取り上げられている。話をすることで、当時抑圧して受け止めきれなかった感情を再体験し、その出来事を現実のこととしてありのままに受け入れる力を育む、という話。

これは結構難易度の高い領域で、軽率に手を出してはならないものだと思うのだけれど、本当にそういう効能をクライエント本人に実感してもらえるようなキャリアカウンセリングを実践できる人間になりたいと思っている。それから、私の数年来の沈殿物も、そろそろどうにかしないといけないなぁと思ったり。

※参考文献:「キャリア開発/キャリア・カウンセリング」横山哲夫編著、生産性出版

2006-02-02

2月は気合い多めで

なんとなーく忙しくなりそうな予感漂う月初めだった。昨日代休をとったため、朝出社するとメールがどっさり落ちてきて、読むも返すもできぬまま朝のルーチンワークに入り、ミーティングの嵐にもみくちゃになり、ごろごろとした宿題に踏みつぶされながら匍匐前進(ほふくぜんしん)で席に戻ると、遠き山に日は落ちて、星は空をちりばめぬ……。

モチベーションは「\」が低調、「/」が高調とすると、山の天気は変わりやすく、今日の日中だけで \ \ /。まぁ、一応上向きになったというか、上向きにしてもらった。感謝、感謝。ということで、また気合いを入れ直して夜仕事。1月は体も不調ぎみだったので、2月は本領発揮で頑張りたいと気を引き締めてみたりして、これがまた面白いほど最近の帰宅時刻に反映されている。

ところでマニアック情報。昨日髪の毛を切りまして、今回はいつもよりしっかり切ってもらったので、髪を切ったことに気づいてくれた人が、なんと3人!ここ10年くらい3ヶ月に1回ペースで切っていて、それに気づく人が毎回0~1人くらいで推移していたので、今回の反応は私にとってかなりの快挙。後ろをバレッタでとめると「忍者の娘」みたいになって、仕事にも気合いが入ります。

2006-02-01

休日日記とビスマルク

今日は代休をとってお休みとした。長いこと、やらなきゃいけないことを抱えた休日を過ごしてきたのだけど、ちょっと気兼ねなく休日らしく過ごしてもいいかなぁという隙ができたので(そういうことにして)、お休みを堪能した。

午前中は本屋とコーヒーやさん、お昼から日暮れまでは(大雨だったけれど)フィットネスクラブにこもってジムとプール、その後サウナでぼーっとした(よく倒れるので長いこと自制していたのだけど久しぶりに解禁)。夜は美容院へ。平日はどこも空いていて快い。それにしても、我ながら地味な休日。この地味な休日の過ごし方に(こそ)幸せを感じてしまう自分が少しだけ怖い。

それとは度肝抜くほど全く関係ないけれど、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」って言葉。歴史から学ぶためには想像力が必要。想像力って大事だよなぁって思ったのでメモ。いくら作る手段を学んでも、作りたいものがなければ何も創造できないし、想像力を養えば人の創造力は無限大に広がっていく。ビスマルク、名前負けしない名言を残したなぁとサウナでしみじみ。

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