2019-02-22

ワークショップ冒頭に参加者が全員に自己紹介することの考察

「私はワークショップの序盤に参加者全員に自己紹介をしてもらっています」から始まる長谷川恭久さんのブログを興味深く読んだ。こうした時間を冒頭に設けることの意義について、ここに挙げられているポイントはいずれも、私も深く賛同するところ。興味のある方はリンク先の「ワークショップをするときに自己紹介の時間を多く費やす理由」でご一読いただくとして、下に書き連ねるのは、これを読んだ後に自分があれこれ考えたことのメモ。

私も参加者が10名程度までであれば、必要に応じて参加者に自己紹介してもらう時間を入れたりする(私の場合は裏方が専門なので、講師は別にいて、こういうワークショップの構造を設計するという立ち回りが多いけれど)。けれど、「30人前後参加するイベント」でも全員の自己紹介タイムを組み込むというのは、なかなかやらない選択だ。

全体で何時間使えるうちの「20分以上とる」かによってもインパクトが全く変わってくるので、午前に始まって夕方までやるような終日イベントであればありかなとも思うし、参加者同士が初対面のイベントであれば、ネットワーキングの価値も高いとみればありよなぁという気もする。

長谷川さんが今回言及しているのは、このような参加者初対面イベントであることが窺える。一方で私の場合、一社向けの研修を提供する立場でワークショップの構造を組むことが多い。

そうすると、参加者同士はよく知る仲であって、自己紹介タイムを設けるとなると「講師が受講者を把握するためのもの」という意味づけが強まる。それだったら事前にヒアリングして受講者分析しておいて、講師にもあらかじめ整理して共有しておくのが裏方たる私の仕事だろうよという考えになる。受講者も本編に時間を割いてほしいと考える人が多くなるだろう。「講師ではなく参加者同士が、互いの自己紹介を必要としている状態か」というのは、一つのポイントになるだろうなと思った。

もちろん、参加者が互いに知っているつもりでも、実際はそれぞれの仕事について理解が浅いこともあるので、社員研修といえど自己紹介タイムをもつことが有意義なケースもあると思う、その辺は目的次第だし、伝え方次第だ。

長谷川さんの場合、表方も裏方もなく、ご自身で全部をやるのが常という違いもあるだろうし、本人から直接に話してもらうことで得られる情報は、間に人が入ってまとめたものとは違う情報の鮮度や濃度をもっているから、それも優先順位をみての時間配分ということになってくるだろう。

いろんな職場から希望者が集まったイベントということになると、参加者のアイスブレイク的にも、全体で「互いの文脈を共有する」という観点でも、全員に向けて自己紹介しあうことの有用性は高そうだ。また、イベントの当日までに、あらかじめ参加者の情報を詳細には得難いという事情もある。

私が手がけている社員研修案件だと、その組織の職種の定義や、現場の役割分担の実際、それぞれが担う職務や責任範囲、具体的な成果物あたりは、事前に現場マネージャーにヒアリングしておいて、講師にも共有しておくのが常。

その上で当日の冒頭でアイスブレイクを設けるなら、自己紹介のもう一歩先にフォーカスして、今回の研修で学習するテーマに関連するところで自分がどういうことをしているかとか、それにあたっての悩みや気になっていることをざっくばらんに話してもらうとか、そういう展開になる。

そして、その他諸々の優先順位を考慮して研修全体で使える時間を配分すると、参加者30人規模の場合は大方、アイスブレイク部分は数グループに分かれて少人数で話してもらうアプローチをとるだろうと思う。

最近読んだ本*で、グループに小分けして自己紹介するということでは着地点が一緒ながら、その理由において別の視点が提示されているものがあった。ここでは「グループ内など少人数での自己紹介」を推奨し、「全員の前で1人ずつの自己紹介」をNG例として挙げていて、その理由にちょっとはっとさせられた。

全員の前で1人ずつ自己紹介を行うのは、とても緊張感の高いアクティビティです。過度なストレスや緊張状態を和らげるには逆効果と言えるでしょう。また、参加者は自分の話すことを考えるため、ほかの人の自己紹介を聞く余裕がなく、結果として自己紹介を行っても情報共有という観点からは効果が薄くなります。

この部分って、講師をよくする方や、私のように裏方でも前説なりなんだりで、人前に立つこと自体はけっこうやっている人にとって死角になりがちで、経験を積むほど考慮しづらくなる観点かもなぁと思ったのだ。

私の場合、人前で話す能力は決して高いわけではなく、本当にただ人前で話す機会がそこそこあるというだけだけど、いかにうまく伝えられるかという点では相変わらず緊張するものの、人前で話すこと自体に緊張を覚えることはあまりなくなった(相手にもよるが…)。

でも小学生の頃なんかは、数十人の同級生がいる教室の中で発言するだけでも過度な緊張をよくしたもの。顔が赤くなって、手に汗をかいて、そういえば「赤面症」という言葉を、小さい頃はよく使っていたよなって懐かしく思い出した。

つまり、これは慣れの問題ってことで、人前で話す機会が少ない仕事や生活スタイルの人にとっては年齢問わず、人前で話すということに、けっこうな抵抗感を覚える人があるかもしれない。過度なストレスがかかり、緊張状態に陥るということもあるかもしれないという点は、だから全員向けの自己紹介を止めるかどうかを別にして目配せしておきたいところ。

この観点でいうと、社員研修のほうが、そこそこ知り合っている間柄ということで緊張もほどほどで済むかもしれない。参加者同士が初対面のイベントのほうが緊張を強いられるかも。

緊張するというのはさしてなくても、何を話そうか…と考えをめぐらせているうちに順番がまわってきて、順番が遅い人なんかは、他の人の自己紹介をほとんど聴けずじまいということもありそうではある。

では、そんな緊張は与えてはならぬものかというと、それも決して答えは一つじゃない。学習活動と緊張度の度合いを示した「ヤーキーズ・ドッドソンの法則」を振り返ってみる。

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図のとおり、横軸に覚醒レベル(緊張度)、縦軸にパフォーマンスレベルをとっていて、難しい課題にあたるには、「緊張度が低くてもダメだが、高すぎてもダメ。ほどよい緊張感が最大のパフォーマンスを発揮できるのであって、過度な緊張感を与えては逆効果になる」という話だ。

ただ、単純な課題であれば話は別。緊張感が増しても、パフォーマンスは下がらない。取り組む課題が簡単な場合は、多少ぎくしゃくしても何とかなるものだし、むしろ緊張感が足りずに気が緩んでミスをしでかすほうにリスクがある。

さて、じゃあ「冒頭で自己紹介してもらう」課題は、単純なのか、難しいのか。過度な緊張となるのかどうなのか。これはもう相手次第だ。

大人の勉強会ということになると、多くの場合、そこはほどよい緊張感をもって乗り越えよう!というレベルの課題設定とは言えそう。そう無茶を言っているわけではない。でもまぁ、ケースバイケースだ。

つまるところ、やり方は固定ではない。これは何のためにやるのであって、その会終了時点のゴールはどこまでで、集まっている人たちはどういう人たちで、時間や空間などの実施条件を照らし合わせると何が一番いいかという視点をあわせもって、今回はこうしようという最適解を都度決める。

そのとき、いろんな人の緊張のもち方に意識を向けて考えたいし、そこにいる人たちにとって適切な難易度の課題設定を導きたいし、何が参加者にとってより有意義で、能率的で、のめりこめるかというのを軸に据えて、丁寧に構造づくりしていけるように目を肥やし、知識を活かしていかねばと考えたりした。

*中村文子、ボブ・パイク「研修デザインハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)

2019-02-19

歩くペースで本を読む

私は本を読むのが、めっぽう遅い。ただ、本を読んでいる時間は好きだ。なので読書には、そこそこ時間を割いている(読書時間のわりに、あきれるほど読んでいる本の数が少ないということになる)。

本を読んでいるとき独特の、あの感じは、どう表現したらいいのだろう。というのは、ときどき考えることだ。ちなみに、ここで「本」とは、紙に印刷された書籍をざっくりイメージしている。

デジタルメディアに取って代わられたり、映像や音声メディアに全面的に移行したら困ることって何なんだろうか。逆に言えば、本というメディアのどんな特性が引き継がれるなら、従来の「本」という媒体が、デジタルメディアや映像・音声メディアに形を変えても、さしたる損失はないのだろうか。

それが最近、「こういうことかもなぁ」と合点がいくような一節に出会った。なんとなく気分転換に買ってみた苅谷剛彦さんの「知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ」*の中にあった。

本を通じて得られるものは、知識、情報、教養、楽しみ、興奮、感動など、いろいろあるけれど、そういうものはどれも本でなくとも得られると前置きをした上で、

それでも本でなければ得られないものは何か。それは、知識の獲得の過程を通じて、じっくり考える機会を得ることにある─つまり、考える力を養うための情報や知識との格闘の時間を与えてくれるということだと私は思います。

本を読むのが遅い私には、とりわけ、この「じっくり考える機会を得ることにある」という本の特性の表しようが、染み入るように本質的に感じられた。心にやさしく響いた。

苅谷さんは「受け手のペースに合わせて、メッセージを追っていくことができ」る、とも書いている。文章を行ったり来たりできるし、斜め読みもできる、一足飛びに別の章を開くこともできるし、途中で放り出すこともできると。

確かに、自分が意識を閉ざした瞬間に、ぱっと本から自分の脳内への情報の流れが止まる。これは、どんどんお話が進んでいく映像や音声メディアにはないことだなと思う。自分と本の関係って、自分主導&手動でいかようにも、かなり感覚的に瞬時に操作できる感じがある。

私の大好きなラジオも、映像メディアに比べると、こうした自在性が高いメディアだと思うのだけど、「意識を他へ向けたかったら、スパッと遮断できる」切り離し自在性の高さがラジオだとしたら、本というのは、「本の中身に意識を向けたまま、それについて深堀りしたり、少し離れた所からみてみたり、別の角度からみてみたり」そのテーマであれこれじっくり考えられる自在性が高いように感じられる。

活字メディアの場合、読み手が自分のペースで、文章を行ったり来たりしながら、「行間を読んだり」「論の進め方をたどったり」することができるのです。いい換えれば、他のメディアに比べて、時間のかけかたが自由であるということです。

立ち止まってじっくり考えることもできるし、もっともらしいせりふを十分吟味しないまま納得してしまわずに疑ってかかることもできるし、これまで読んできたところを読み返して、この著者がこれから何をいおうとしているのか予想を立てることもできる、そうした余裕がある、と説く。

これは電車や車、自転車などの乗り物を使わず、自分の足で歩いているときの自在感に近しい。立ち止まりたければ、すぐ立ち止まれる。目に止まった何かに近寄りたければ、すぐ体をそれに近寄せられる。

歩くペースで本を読む。道草しながら、ゆっくり読む。それでいいじゃないか、それしかできないし、そういうふうに読んでいこうと、まぁもうずいぶん前から開き直ってはいたのだけど、これを読んで救われたような、許されたような気持ちになった。

…のと、映像や音声メディアと活字メディアでは、やはりそれぞれに独自の魅力があるから共存していったほうがいいよなと思う一方、紙メディアかデジタルメディアかということでいうと、デジタルに移行しようと、ここで挙げた性質は確保できるかなと思った。

慣れの問題はあるけれど、じっくり考える機会を得ること、時間のかけかたの自由を確保することは、デジタルメディアでもできるかなと。あとは、読むデジタルデバイス&メディアに「文章を行ったり来たりできる」「一足飛びに別の章を開くこともできる」あたりの自由が紙レベルで利くといいのだけど。

*苅谷剛彦「知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ」(講談社)

2019-02-12

「すごくできる人」の講義を聴くだけでは、なぜ「できる人」になれないのか考

別にどこかで講演したとか取材を受けたとかじゃ全然ないのですが、

「すごくできる人」の講義を聴くだけでは、なぜ「できる人」になれないのか

という問いに対して、自分なりの回答をテキストに起こしながら整理してみようと思い、あれやこれや考えていたら、上のリンク先のような1ページができました。

話の流れとしては、「すごくできる人」の講義を聴くのはムダなのかっていうと、そんなことは全くなくて、これこれこういう価値があるんだけど、学習活動において「講義」って決して万能じゃないから、講義の生み出せる効果と限界を知って、「できる」ようになるまでを射程に入れて、講義を足場に、その先の学習活動をマネジメントしていく必要がある。そのステップとしては、学ぶ側にとっても、育てる側にとっても、こういうコンセプトでいくといいんじゃないか、というような話を展開しています。

読者想定としては、こういう方に何か参考にしてもらえるところがあればと。
●セミナーや勉強会、研修で「すごくできる人」の講義をよく聴いている方
●周囲から「すごくできる人」と思われていて、講義をよく引き受けている方
●「すごくできる人」を講師に招き、セミナーや勉強会、研修を企画している方

なのですが、これがどうにも、ひとりで脳内ぐるぐるした結果の産物なので、人にシェアして意味がある話になっているのか判別つかず。

ただ最近、日経クロストレンドのFacebook投稿で、レイ・イナモト氏が黒いTシャツ姿で「不完全でも世に出すスピードこそものを言う」と頻繁に語りかけてくるので(かって解釈…)、とりあえずネットの片隅に置いてみました。

素朴なテキストがメインですが、何かしら読んでくださった方の学習活動なり育成活動の一歩を進めるお役に立てば幸いです。

2019-02-11

母の命日、あれから8年

昨日は母の命日だった。あの日から、まる8年経った。もう8年も会っていない。声も、聴いていない。久しぶりに、亡くなるひと月ほど前に撮った写真を見てみたが、歳とっていないんだな。あのときのまま、きれいで、やさしい顔をしていた。

今年はなんでだか、命日の数週間前から何度か、母が私の夢に登場した。私はあまり夢をみる(憶えている)ほうではないけれど、このところはちょこちょこ夢をみた。ウイルス性胃腸炎にかかって、そのうち数日はよく寝ていたこともあるだろうけれど…。

胃腸炎にかかる前、だから2週間ほど前にみた夢は、今でも描かれていた風景を思い出せるし、思い出す。私がみる夢にしては、ずいぶんと彩り豊かで、その着色はディズニー映画のようだった。「ファインディング・ニモ」が住んでいそうな青々とした海が、えんえんと遠くまで広がっていて、きらきらしていた。

私はどこかの島にいたのか、陸のほうから海に視線を向けていると、海の際からオットセイのような生き物が数頭、顔を出して、こちらに視線を向けてきた。大きいのと、子どものと、家族らしき何頭かがみんなこっちを向いて、雰囲気でいうと笑顔だった。

海面から急に顔を出したので、私は「おっ」と思って、そちらに目を向け顔を合わせた。彼らの背景に目をやると、40〜50メートルくらい先の海底まで、ぜんぶが透き通って見えた。一面ブルーの世界で、とにかく美しく、開放的なところだった。

そこから、ぽんと話はとんで、いや、とんでいないかもしれないが、絵が変わった。私は自分の家族と一緒にいた。さっきまでの絵をディズニー映画の人が担当していたとしたら、雰囲気が変わって今度は「ドラえもん」の人が担当しているような絵とアニメーションになった。

まさに「ドラえもん」に出てきそうなミニ潜水艦のような乗り物に、ぽんと飛び乗ると、一気にみんなの体が小さくそれに収まって、その乗り物は宙に飛び上がったかと思うと、きれいな水面に勢いよく飛び込んでいく。昔、家族旅行でボートに乗って川下りしたときの風景を思い出した。

というところで夢は終わった。人が読んでも、え、だから?という話だが、その風景と、色合い、ものの動きのコミカルさのようなものが頭に残っている。頭にあるうちに、とりあえずスケッチしておく。

あれは、久しぶりの家族旅行の夢ということだったのかしら。私たちが子どもの頃は、盆暮れ正月、少し長い休みがあると、たいてい旅行に出かけた。宿の手配、車の運転、旅の計画、なんでも母がやっていた。おんぶにだっこだったな。

うちは父も母も、「子どもの人生は、子どもの人生」と、親と子の人生を同一視せずに別人格として扱うのを当然としている感じで育ててもらった。でも、そんなこと一度も、「そう考えて育てています」なんて教育方針を語られたこともないから、大人になるまで、その貴重さやありがたさに気づかなかった。

大人になって、友人や知人から親とのあれこれに苦労した話を聴いたり、ニュースで取り上げられる親子間の問題にふれると、決してそれが当たり前ではないことがわかってきた。

うちは、私の人生について、こうしなさいとか、こうしてほしいとか言ってくることがなかったように思うし、無言のうちに「自分の人生でできなかったことをもって、親が自分にのしかかってくる」ようなことが何もなかった。

親がどれだけ意識的に、どれだけ半ば無意識にそうしていたのかはわからない。いずれにしても、自分の親の「育て方ポリシー」のようなものが私の中に意識化される機会が最近は多くあり、そのたびに、ははぁと頭を垂れるのだった。

この三連休は土曜と月曜に雪が降ったが、中日の日曜だけは晴れて、私は父と兄と一緒に、母のお墓参りにでかけた。今回は、チューリップの花束を贈った。稲の緑がきいている。

2019-02-06

「ここはスマホ禁止」の再考

ある朝のプールあがり、フィットネスクラブのロッカールームで、スマホの写真をめくりめくり眺めている女の子がいた。丸椅子に腰掛けてのんびりと、私のロッカーのすぐ隣りでやっていた。

どうしようかなぁと迷ったのだけれど、無防備なところを攻撃的なおばさまにいきなり雷落とされるよりは(そういうリスクを伴う行為)…と思い、意を決して声をかけた。

これ以上ないというくらい“さりげない”声の調子と視線と表情を整えて、「あの、ここスマホ禁止なんですよ」と一言。すると、向こうから「え、そうなんですか!」と、驚きの表情が返ってきた。

え、そんな驚くことか!?と、少々こちらも驚く。が、このシーンは“さりげなさ”が肝なので、表情そのままに「えぇ」と穏やかな返事をして会話を終え、私は自分のロッカーに向き直った。

そそくさとスマホをしまう彼女。私はその隣りで、「もう全然気にしていませんから、ちょっと声をかけただけで、もう自分の時間に戻って支度に専念していますから、後ひきずらずに」という風情を装って(心中はだいぶ騒がしい…)、静かに着替えをして表に出てきた。

そこからである。あの驚きように、後ひきずったのは私のほうだ。不安になって、まず帰るときにロッカールーム内の「スマホ禁止マーク」を探してしまった(確かにあって安堵した)。

私のような「携帯なし→携帯→スマホ」時代を渡り歩いてきた年代にとっては、なんとなく「このスペースはスマホ禁止じゃないの?」って感覚が働きやすいと思うんだけど、もしかすると「いきなりスマホ」な若い世代にとっては、そんなことないのかもしれない。

世の中に「スマホ禁止」のスペースがわりとちょこちょこあるということ自体が認知されていなかったり、認知されているとしても納得いかなかったりすることがあるのかもなぁと思ったのだ。

納得いかないってほうを掘り下げてみると、確かに今の時代、スマホと人間が一体化して事を為していることは多く、使えないと困ることも多い。メモをとりたい、記録を見返したい、何かを調べたい、ちょっとしたことにスマホを取り出して、ほとんど体の一部のように使っていることは多い。

これが使えないスペースが日常シーンの至るところにあっては、都合が悪い。ということで、改めて「なぜロッカールームでスマホ使用全般が禁止されているのか」を考えてみたけれど、とくに「○○のため」という具体的な理由は、そこでは周知されていない気がする。

電話の長話は、まぁ気分的には「外でやってくれ」という感じはある。携帯の操作も長いことやるなら「表でやったら?」という感じはある。要は、「ここはそういうスペースではないので、目的外で長居しないでください」というのは、決して広々したスペースではない以上、理由の一つかもしれない。混雑度にもよるが。でも、これなら「ちょっとならいいじゃない」ということになる。

あるいは、スマホは多機能なので、「人が全裸になるようなところでカメラを持ち出さないでください。誤作動で写真でも撮れちゃったらどうするんですか」っていうリスク回避の線もある。こういうところでカメラ付きのデバイスなど表に持ち出さないのがエチケットだろうと。

となると、一般にスマホ使用を禁止されるようなスペースでも使える、スマホから一部都合の悪い機能をなくしたネット端末というのも、うまくすれば売れるプロダクトになるのかなぁと思ったりする。ロッカールームでも、スマートウォッチなら使っても良さそうである。

ともあれ、もともと国や地域によって常識が違いそうな「スマホ使用の取り決め」というのは、時代変化にあわせても各所でアップデートしていく必要があるのかもと思った。「ここは本当に、スマホ使用禁止でいいのか?」と。通話を禁止にするのか、使用全般を禁止にするのか、持ち込みを禁止にするのか、という分けようもある。

というのも、スマホ禁止にするというのは、「これより先は、一部の脳を置いてからお入りください」というに近しい特別感が出てきつつあると思うからだ。今やスマホは、人間の「補助脳」の一種とも言われている。(*)

美術館で見た絵画は写真に撮ると記憶に残りにくい。脳は画像をデジタル端末に保存したと考えるらしい。

私はあまり写真を撮らない人間だが、なんとなくわかる気がする。気に入った本の一節でも、どこかに書き留めるとそれで安心してしまって脳みそには刻まれない、それと同じ感覚だ。「記録すると、記憶に残りにくい」という、我が身を振り返ると“あるある”な体験を、これを読んで再認識したのだった…。

ともあれ、こうしてスマホが身体化していくさなかでは、「スマホ禁止」の重みも増していくばかりなわけで、記録もとれないし、一部の記憶もたどれない不自由を与えるからには相応の理由も求められてくる。ネット端末と共生する時代に「ここでのスマホ使用をどう扱うか」というのは、各所で今一度見直してみる必要があるのかもと思った次第。今後はもっと適材適所なIoT端末が出てきて、うまいこと使い分けていくのかもしれないけれど。

あとやっぱり、自分の体内をどう経由させて脳内の長期記憶と外部の記録装置にふりわけていくのかってことには慎重でありたい。一切合切、外部の記憶装置に流し込んで楽ちんになっても、自分の中身が薄っぺらでは意味がない。自分の感覚器や直観を通じて得られる味わいを丁寧に受け取って、今ここで自分が考えること、思うこと、感じることを手放さず、より豊かな思考と感情を獲得するのに新しいツールを取り入れていけるのが理想だが…。なかなか、むつかしそうである。

*アーリック・ボーザー「Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」(英治出版)

2019-02-05

ウイルス性胃腸炎から、初インフルエンザ検査

土曜の晩に就寝してしばらくすると、急な吐き気に襲われた。「え、まさかノロとか…?いや、インフルエンザということも?」と思いつつ、とりあえず体の言うとおりにして。

しばらくして横になって熱を測ってみると、37度台。私はふだん35度台なので、確かに「熱がある」状態。体調が悪くなる急激さからいって、こりゃウイルス性っぽいなぁと素人診断しつつ、厚着して首にタオルを巻き、ひたすら寝ることにする。熱が出たら、とりあえず水飲んで汗かいて寝るのだ。

しかし、日曜の朝を迎えて熱を測ってみると、38度に上がっている。今日は寝通すと腹を決め、着替えて水飲んで床につくサイクルをまわして様子をみる。しかし寝ても覚めても日中はずっと38度台から落ちることなく、日が暮れていく。着替えもやっとこさ。

とりあえず月曜の仕事は無理だと判断し、陽の高いうちに外出予定の関係者にベッドからスマホで連絡&お詫びを入れる。

日曜の晩遅くになると、一日中汗かいた甲斐あって37度台まで熱が落ちた。のっそりのっそり近所のコンビニに買い物に出られるくらいまで回復。「雑炊とりんご」で、一日ぶりのゴハンをおいしくいただく。塩味と甘味が最高にしみる。

明けて月曜。会社にメールをいれて、最新の体調情報とともに休暇の連絡。インフルエンザかどうかを会社に報告しないといけないので、この日のどこかで近所のクリニックに行って検査を受けなければ…。

治りつつあるのに、インフルエンザの人とかいっぱいいるだろう場所に行って、痛いと聞くインフルエンザ検査を受けなきゃいけない辛みを抱えつつ、これは極力近場のクリニックが良かろうとネットで探す。ネットで調べられるのは便利だが、やはりくたびれる。

探し出すと、えーっと思うような口コミも書いてあって、そういうのを読むと、調べるのはくたびれはするものの口コミを読まずしてはなかなか病院も選べないなぁという心境になる。

ひとつ、親切そうで近所のクリニックを見つけ、よし、ここにしようと決め、支度をして家を出る。トコトコ歩いて、建物に到着してエレベーターを上がっていって、開いた途端の視界に広がるシャッターにたじろぐ。張り紙に「患者様へ 医師が亡くなりましたので、閉院致します」の文字。

とりあえず下の階に下りて、人気(ひとけ)のある明るい雰囲気のところで悩む。うーん、他行く?なら、どこ?このまま直接別のところに向かえたほうが話は早いけど、ぱっと適当なところも思いつかないしなぁ。とりあえずお腹すいたし、買い物して家に帰ってご飯でも食べながら、次のアテを考えようということに。

しかし、あれは、やっぱりないんじゃないか。エレベーター開いた瞬間、誰もが「ひぃー」となるだろうよ。薄暗い無音のエレベーターに一人で乗っていってだよ、具合も悪いんだよ、具合が悪いからクリニックに向かってるんだ、それが扉が開くと、シャッター閉まってて行き止まりで、そしてあの張り紙よ。病気の人間には堪えるだろう。

あれはもう、その階は降りられないようにエレベーター側でしておいて、各階のエレベーターホールのところに「◯階は閉院しております」と張り紙しておくほうがいいのではないだろうか、などと考えながら帰途につく。

評判の良さそうなクリニックも少し遠いところに見つけたが、とにかく今回は「近さ」が一番。出直しとあって、その思いもさらに強化されたので、当たり障りのない近くのクリニックに足を運ぶ。

ここの待ち時間が長かった。1時間弱だろうか、時計見ずにただじっと目を閉じていたが、どんどん具合が悪くなっていくほど長く待った。この後の薬屋さんでも同じくらい待った。やはり医療系サービスは待ち時間がしんどい。UXデザインといったら、私は何より医療系からぜひ攻めていただきたいと常々思っている。

クリニックの待合室では、待ちくたびれた男性が、パソコンのタッチパッドに手をおいたまま眠りに入ったらしい。ものすごい勢いで画面をスクロールし続けている。それにしても、待ち時間も長すぎるが、このページも長すぎてすごい。数分スクロールし続けても一向に最後に行き着く気配がない。これは何のページなんだ、こんなに右側の垂直スクロールバーが縮まったページ、初めて見たかもしれない。

ようやっと呼ばれて症状を説明し、「会社にインフルエンザかどうかを報告せねばならない」との事情を説明すると、診察の前に検査をしてくれることに。検査士の女性がやってきて、奥に通される。

受付の女性に、私が「痛いんですよね?」と質問し、「ちょっと痛いですね」とやりとりしていたのを聞いていた検査士の女性が、「検査、初めてですか?」と私に問う。「初めてです。どうやって検査するんですか?」とこわごわした顔で問うと、丁寧に説明してくれた。

私は普段の諸々手続きには静かに淡々と言われたとおり対応するほうだが、検査や治療の際にはキャラが変わる。先のとおり「私は痛いことがたいそう苦手な人間です」という理解を率先して先方に仰ぐのが癖になっている…。こういう状況下では、限られた短い時間の中で、可能なかぎり相手と、私のもつ恐怖感の共通認識化を図るのが肝要である。

インフルエンザの検査というのは、つまるところ、細長い綿棒を使って、鼻の奥の鼻水をぐるりんとぬぐり取って、それで検査をするものらしい。彼女は「綿棒のようなもの」と言っていたが、綿棒より先が鋭利である。針ほど尖ってはいないが、茹でる前のマロニーちゃんくらいの細さである。

私が痛がりだと察した検査士の女性は、丁寧に説明を加える。「鼻の奥って、水が入っても痛いですよね」と彼女。ああいう感じか、と、ちょっとイメージがつく。

続けて彼女、「ちょっと、これまでにない、初めての方には想像しがたい痛みだと思うんですけど、私も初めてやったときには、えっ?ていう…」という、なんとも飲み込みようのない説明を加えてくれた。

「わかりました、頑張ります」としか言いようはなかったけれども、とにかくこちらに気持ちを寄せてくださっていることが伝わってきて感謝した。それも一つの救いになるのだ。

最後に私から「1秒以内ですかね」と、痛みの時間数を確認。気持ちの歩み寄りも大事だが、一方でこういう情報も、また大事なんである。よく「一瞬」というけれど、人のいう「一瞬」というのは、まったくあてにならない。なかには「一瞬いいですか」と言って、15秒とか1分とか5分とか使う人もいるから、ここはしっかり踏み込んでおきたい。

「えぇ、ただ右と左とありますけど」と彼女。「わかりました、頑張ります」と臨む決意を固める私。こんなに説明に時間をかける患者も少なかろうと思うけれども、すみませんが、それもこみこみで医療サービスということにしてください。

検査はやっぱり痛かった。が、本当に左右を各1秒以内でぐるりんとやって終わった。何が起こるかという情報を知っておくことは、やはり大事だ。小さい子どもに対しても、そうだ。友人が自分の子を医者に連れて行くときは、「これからこうこうこういうことをする」とか「ちょっと痛いけど」とか、うやむやにせず事前に説明するようにしているという話を聞いたときは、本当に素晴らしいと思った。「いやぁ、ほんと、そうしていただけると助かります」と、完全に「痛がりの子ども」目線で友人を称えた(注:望ましい情報の量と質には個人差あり、無駄に多くても困る…)。

インフルエンザの結果は、5分待つと結果が出る。それがお医者さんのほうにまわって、しばらくすると診察に呼ばれる。

結果、インフルエンザではなかった。A型にもB型にも該当せず、ウイルス性胃腸炎でしょうという診断に。5日間の薬を処方され、近所の薬屋さんで再び待ちくたびれてぐったりして帰宅。

火曜はしばらくの36度台を経て、35度台後半まで熱が下がった。あとは無理せず快復を待つのみ。やれやれ。体力を回復しないといけないのと、人にうつりやすいので、そこはしばらく気をつけないといけないが、体調的には日曜が山場、月曜で快方に向かい、火曜いっぱいでもとに戻りそう。3日間の急な旅が終わりつつある。

2019-02-02

「一万時間の法則」とか「10年経験を積めば」とか

一流になるには1万時間のトレーニングが必要と説く「一万時間の法則」。これに対する反論が、山口周さんの「武器になる哲学」(*1)に書かれていた。「人をミスリードするタチの悪い主張」と一刀両断。

「一万時間の法則」というのは、アメリカの著述家、マックス・グラッドウィルが著書「天才!成功する人々の法則」の中で提唱したもので、簡単にいえば、

「大きな成功を収めた音楽家やスポーツ選手はみんな一万時間という気の遠くなるような時間をトレーニングに費やしている」から、「一万時間のトレーニングをすれば、一流になれる」という法則を導いている、とのこと。

これは「命題の証明として論理展開のミスがある」と指摘している。「天才モーツァルトは努力していた」から「努力なしにはモーツァルトのような天才にはなれない」は導けても、「努力すればモーツァルトのような天才になれる」にはならんだろうと。ひっくり返し方が、まちがっているのだ。

論拠も脆弱で、一部のバイオリニスト集団、ビル・ゲイツ氏(プログラミングに1万時間熱中した)、ビートルズ(デビュー前にステージで一万時間演奏した)だけで、んなこと言えないだろう、ということである。

これはこれで、返す言葉もございませんという感じなのだけど、私はマックス・グラッドウィルの本を読んでいないし、山口さんの本でも軽く触れている程度なので、その先を読み進めると、

努力の累積量とパフォーマンスの関係は、対象となる競技や種目によって変わる

という証明をした研究があるそうだ。プリンストン大学のマクナマラ准教授らが「自覚的訓練」(つまり意図的にやった練習ってことだろう)に関する88件の研究についてメタ分析を行ったところ、

練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない

との結論を出したとのこと。

無責任な一般市民の目で読んで、はっとした。な、、なんて、当たり前のことだ!と。そんなの分野によって違うに決まっているじゃないか!と。

研究者というのは、なんとなく肌感覚的に市井の人がこういうもんだろうなぁと思っていることをテーマに取り上げて、本当にそうなのか?を実験してくれ、そこにある確かさの検証とか思いこみの排除に一役かってくれたりするものだけど、今回はまた、まさしく「当たり前すぎる!」ことの明言によって、当たり前が意識化され、はっとさせられた。

世の中は、あらゆるテーマで「何とかの法則」にあふれている。一つのテーブルにのせて突き合わせたら、ほかの法則と矛盾しない法則はないんじゃないかと思うくらいだ。だから結局は、自分の頭で考えて、都度つど、そのときに最もふさわしい法則を採用したり、都合のよい法則を説得材料に使ったり、法則のないところに道を作り出したりして、各種の法則とつきあっている。それが私のような一般人の、法則のつきあい方かなと思う。

つまるところ、玉石混交の法則について、何の法則を知るも知らぬも自分次第。片方の法則は知っているが、これに対置する真逆の法則は取り逃していたりするのも自分。法則そのものの質を目利きして取捨選択するのも自分。今の状況に何の法則が有効か無効かを案件別に判断して取り入れたり取り逃したりするのも自分次第。必要なら法則をいくらか読み替えて取り入れるのも自分、それが奏功するもしないも自分次第なのだった。

法則の知識は、「こうかもしれないし、これではうまくはまらないこともあるかなぁ」と、そこに焦点をあてて自分で考えてみるきっかけを与えてくれるツールとしてつきあうくらいがちょうどいいんだろう、などと、今一度、法則とのつきあい方に気を引き締める機会となった。

話をもとに戻して、この本の続きが、なかなか…。「練習をたくさんすればパフォーマンスが伸びますよ」って説明できる度合いを分野別にパーセンテージで示したものだそうで。

各分野における「練習量の多少によってパフォーマンスの差を説明できる度合い」

テレビゲーム:26%
楽器:21%
スポーツ:18%
教育:4%
知的専門職:1%以下

最後の「知的専門職:1%以下」っていうのが、さもありなん…的な余韻を残す。つまり、「知的専門職においては、練習多くしたからといって、よりできるようになるとは、説明しがたい」って言っている感じか。

なにか救いようのない情報を手にしてしまった気がしないでもないけれども、先ほど「自分なりに多様な解釈を試みるべきである」と考えたばかりじゃないかと、ぐるぐる思案を巡らす。

どんどん人の仕事がデジタル処理されていくと、「知的専門職」って領域では、もう極めて頭のいい人の仕事しか雇用市場に残らなくなるのかなぁ…と遠い目をすることもあるご時世。自分ごととして考えると、IQや地頭の良さはどうしようもないので、学習能力のほうに一筋の光を見出して、末永く楽しく仕事を続けていけたらいいなぁと思う次第。

最近読んだ別の本(*2)によると、「IQより、学習方法のメタ認知によってこそ伸びる」という研究結果があるらしい。研究者のマーセル・ヴィーンマンによれば、

自分の思考を上手に管理できる学生のほうがIQの高い学生より試験の成績が上回る場合があるという

「場合があるという」という表現がやや心もとないが、「成績の約40%はメタ認知によるもの。IQは25%にすぎない」ことがわかっているという心強い言葉。

私としては、こっちに注目。学習能力のほうで頑張る人は、ともにがんばりましょう&それを楽しみましょう。また、人の「学習能力を高める」学習方法の支援をするのが自分の仕事でもあると思っているので、そこを意識して意味のある仕事をしていこうと思った。何が何やら…

*1: 山口周「武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50」(KADOKAWA)
*2: アーリック・ボーザー「Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」(英治出版)

2019-02-01

専門職のチームの置き方、まわし方

連載しているWeb担当者Forum「Web系キャリア探訪」第9回では、メルカリ樫田光さんのチームの作り方・育て方の話も、じつに聴き応えがあった。

チーム論やリーダー論として他所で耳にしたことがあるノウハウでも、これだけ実践できていて、これだけ成果につなげている人はそうそういないのではないか。最終的には、樫田さんの人間力…みたいな話にしか着地できないんじゃないかって気もするほどだったけれど、チームの作り方・育て方について考えさせてもらったことをメモしておく。

組織構造モデルでいうと、組織を「機能別」にするのか「市場別」にするのかって話がある(後者は「事業部制組織」っていうのが一般的だけど)。

●機能別の組織(横軸)
研究開発、製造、販売、営業といった組織の機能、職種/職能ごとに組織を分けるやり方

●市場別の組織(縦軸)
製品・サービス、地域、顧客/顧客の業種といった市場/事業部ごとに組織を分けるやり方

どちらも一長一短、事業の規模とかステイタスとか、会社全体の戦略とか、現在どういう人員で構成されているかとか、いろんなことを考慮して判断するのでしょうけれども。

メルカリのBIチームは、樫田さんの手腕で、この2つのいいとこどりをした「マトリクス組織」的にうまく配備・機能させているんだろうなぁという印象をもった(素人目)。

●マトリクス組織
機能別/市場別などで縦軸・横軸の組織構造を併存させ、メンバーが縦・横2つに属して活動する組織

樫田さんが2018年4月に登壇された「Data Analytics Summit 2018」のスライド資料(77ページ目)によれば、メルカリは会社の大枠としては「事業」「地域」といった市場別組織で構成されているよう。あるいは、もう少しタスクフォースなりプロジェクトっぽいチーム編成かもしれないが。

参考:What makes Mercari Data-Driven(77ページ目)

こうした組織の中でBIチームは、データ分析に長けた「職種」でメンバーを集めてチームを編成し、組織横断的な活動を行っている。社内に広がる大小さまざまなプロジェクトに入って職人的に活動する体制。この「社内」とは、プロダクト開発部門の各チームにかぎらず、経営・広報・マーケティング・ファイナンスなどのバックオフィスも含めて活動しているもよう。

樫田さんいわく「谷に突き落とすから勝手に育ってくれというタイプです。ただ、どの谷に落とすかは、その人のスキルに合わせて考え」ているなど、自分のマネジメントスタイルも心得つつ、つかず離れず丁寧に、メンバーが充実感と成長実感と責任感をもって働いて成果をあげていく環境づくりをしている。

◆独立性高い機能軸のチームを作って、チームマネジメントの品質は自分が担保
◆各メンバーには本人の能力が活きる&伸びる役割や案件を用意
◆メンバーの席は現場に置き、各現場で各々の専門性を発揮できる業務環境を与える
◆メンバーが席をおく各現場の統括者との関係づくりも怠らず、そこから各現場の課題を都度つど持ち帰るのも抜かりなく
◆メンバーとは週1で1on1を30分もって、今何をやっているかを把握するに留まらず、各現場から持ち帰った情報など踏まえつつのアドバイス
◆チームで週1ミーティングを設けて、分析の知見共有&レビュー

そして当然ながら、自身が掲げた「組織がデータや数値を使って正しく意思決定できるようにすること」(わかりやすい)というBIチームのミッションに基づいて、社内の信頼を積み上げていっている。突飛なことは何もないけれど、明快な軸を打ち立てて、これを丁寧にやり続けて確かな成果をあげていくって、スーパーマンくらいじゃない?ってくらいのハイパフォーマーだ。

データ分析の専門家として「自走」できるメンバーを採用できている前提あってのチーム作り・育て方なので、最適解は環境ごとに異なるだろう。

でも、高い専門性と、頻繁に知識・技能のアップデートを求められるような専門職チームをマネジメントする人たちには、BIチームのあり方にいろいろ参考にできるところがあるかもな、あったらいいなと思いつつ、今回の記事を送り出した。

2019-01-31

「Web系キャリア探訪」第9回、メルカリのデータ分析チーム

Web担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第9回が公開されました。今回は、メルカリのデータ分析を預かるBIチームのお三方をインタビュー取材。

メルカリのデータ分析チームが熱い! 個性的過ぎる3人がメルカリを選んだ理由

言わずと知れた日本最大のフリマアプリ「メルカリ」ですが、メルカリ社として企業の顔をみてみると、2013年のアプリリリースから短期間に日・米で1億ダウンロードを突破、国内だと7,500万ダウンロード、利用者数は月間1,100万人、累計流通額は1兆円と飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長中の注目企業です。

組織としても「すごい人たちの集団」感がスゴイわけですが、その中の人たちは、どんな感じで採用されて、どんなキャリアの人で、どんなものの考え方をして、どんなふうに働いて生きているのだろう…というのを興味深くお話し伺いました。

スゴイの一言でくくっちゃうと、へぇほぉははぁ…で終わっちゃいかねないのですが、それぞれのキャリアの歩みを丹念にたどると、いろいろなエッセンスに分解して読むこともできます。ご自身のキャリアやチーム作りの参考になる情報を拾い読みしてもらえたらなと思っています。

というのも、「キャリアモデル」っていっても現代では、「1社40年をどういう道筋でたどったか」ってわかりやすいパターンを1人格に求めるのは無理がある転職当たり前の世の中。自分にぴったり感のあるキャリアモデルを探しまわるより、いろんな人のキャリアの歩みから、自分が参考にしたいエッセンスをパーツ単位で取り入れたり、これは自分にそぐわないなぁと思うような人の価値観にふれたときも、それをもって自分の価値観を知る機会に活かすくらいがちょうどいいだろうと思うわけです。結局はキャリアって、望むと望まざるとに関わらず自分オリジナルにならざるをえないわけだし。そこから先の個別的なサポートをキャリアカウンセラーとしてできたらってところもあるのですが。

閑話休題、今回の取材は「分析力」を強みにしている面々とあって、ご自身のキャリアについても、その分析の妙が話の節々に窺えました。「ちょっと自分を離れたところから見てみて、こう考えた」という話が随所にちりばめられているように思います。

石田さんについては本編で書きましたが、樫田さんの「自分の今の希少性ってなんだろうな」って視点をもって考えてみることとか、「インプットとアウトプットを交互にするのがいいから、次はインプットだ」とか、新保さんの「5年後には来る」という市場の読みとか、「技術を極めるよりも良いプロダクトを作る方に興味がありました」という自己分析も。

後から振り返ればってことも含むかもしれませんが、自分が考えたこと、結論を出した根拠のようなものをすごく分かりやすい言葉で語れるのは、人に伝えられるレベルに自分の中で意識化している証拠だなぁと感服。

お三方を通じては、力みすぎず、キャリアデザインしすぎず、人との出会いや機会を活かして自分の世界を広げていく柔軟さ、オープンさを心地よく感じた取材でした。

編集後記「二人の帰り道」の森田さんのお話も二重三重に染み入ります…。よろしければ、少しゆったりした時間に、ぜひご一読ください。

2019-01-29

記憶を脳内にしまうか脳外にしまうか

「何が書いてあったか」は忘れちゃったんだけど、「どこに書いてあったか」は覚えているってことが、ままある。ヤフー知恵袋に書いてあった、ウィキペディアで読んだというように、どこのWebサイトに書いてあったかは覚えているんだけど、調べていた情報の肝心なところは記憶にとどめていない、そういうこと。

ベッツィ・スパロウらの研究によると、Google検索した情報は、「調べたかった情報そのもの」より、「インターネット上のどこに情報があったか」のほうが記憶に残りやすいという。

心あたりがありすぎて怖い…。

さらに、TwitterやFacebookの投稿で知ったという情報だと、「何が書いてあったか」という情報の中身だけでなく、「誰の投稿だったか」という情報の出どころすら曖昧模糊としている場合がある。

これはSmartnewsで見たとかスマホで見たとかいう、より大ぶりな粒度にもなりえて、それじゃもはやネットのどこかにあるレベルじゃないか…と思うのだけど、まぁそういうときは下手に記憶をたどろうとせずに、大海に目を向けてGoogle検索するのが一番手っ取り早い、ということになろうか。

マスメディア全盛の時代にも、「おはよう日本」でやってたとか、NHKで見たとか、ラジオで聴いたとか、詳しいことは覚えていないけれど、どこで得た情報かは覚えているという状態はあったと思う。

だけど昔は録音・録画でもしていないかぎり、それは後でなかなか調べられない状況にあるという一定の緊張感が、そこはかとなく働いていたかもしれない。覚えておきたいことは、今ここで覚えておかなきゃと。

それに比べると今は、「後でまたネット上の情報にあたれば調べられる」のが前提の世の中に身をおいて、その緊張がほどけてしまっているようにも思える。

先の研究をしたスパロウらは、「私たちはコンピュータ・ツールと共生するようになりつつある」という。私たちは、

情報そのものより情報が見つかる場所を知ることによって記憶の量を減らす、相互システムの一部になりつつある

思い当たる節が…。たしかに情報そのものを覚えるより、「ここにある」という場所の情報だけ覚えるほうが圧倒的に楽ちんだ。負荷が軽減されるとあらば、易きに流れるのが自然の成り行きである。

しかしなぁ、知らず知らずにそうなっちゃっているというのも困りものだ。「自分の記憶」のことなのに、知らぬ間に記憶媒体が自分の脳内から脳外に移っているって、どうも都合が悪いではないか。

よく使うものは、すぐ開閉できる引き出しにしまっておきたいし、さほどでもないものは押入れやら外の物置きにしまっておいても構わないというように、自分のものの置き場は自分で選択的に決めたい。

もちろん、それすらできず「忘却の彼方」行きというのが圧倒的に多いのではあるけれども、それはとりあえずおいておいて。

意識していないと、どんどん「情報そのものは覚えられず、その情報のありかだけ覚えている」状態に偏っていってしまいそうだ。

となると、ここはどうにか抗う方法というのを意識的に仕掛けていきたい。ものの本(*)からちょっとメモったところを列挙すると、たとえば何かを読んでいて、それを「脳内の記憶領域に収めたいとき」は、こういう方法が役立ちそうである。

●問いかける、自分に問題を出す
「このテキストは何についてのものか?」
「筆者が伝えたいポイントは?」
「わかりにくいと思われるところは?」
「なぜこれが正しいのだろうか?」
「これは他の概念とどのようにつながるのだろうか?」
「この概念を説明するのに、類似の例はないか?」
「他の分野やテーマとの関連性はないか?」(何とどう似ているが、どう違うか)

●思い描く
読んでいることを頭の中に思い描く

●自分に説明してみる、反復する
学んだことを自分の言葉で説明してみる、要約してみる

●分散させる
時間をおいて学習を繰り返す

心理学者のリッチ・メイヤーによれば、「学習とは生産活動である」とのこと。

1.学ぶ対象を絞り込む
2.今ある知識と、学びたい情報の結びつきを頭の中に作る
3.その情報を自分の知識に統合する(自分の中で意味をもたせる)

というステップを踏まないと脳内に入らないので、「外にある情報を、自分の脳に入れる」って受け身では事は済まされない。

知識習得とは、今ある知識の上にただ積みあげていくものではなくて、今ある知識にうまく編み込んでいくものであり、どう編み込むかを思考するスキルも求められる生産活動である、そんな感じだ(学んだことを自分の言葉で説明してみた)。

ちなみに、漫然と「繰り返し読む」「蛍光ペンでマーカーを引く」だけでは記憶する効果を発揮しない。よく考えてみると、そりゃそうだよなっていう感じなのだけど、わりとやって満足しがち。これはどちらかというと、「どこそこに書いてあった」って場所だけ覚えているコースに行きそうだ…。思い当たる節がありすぎる話だった。

*アーリック・ボーザー「Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」

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