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2012-05-20

自分の役割と概念的知識

自分の役割と、職種の定義と、工程とか専門分野の概念は、分けて考えないといけないと思う。ここを混同するとどうなるかというと、「それはビジュアルデザインの範疇だから、ビジュアルデザイナーの仕事であって、私の仕事ではない」という論が成立してしまう。でも、その3段階は別に必然性をもってつながっていないと思うのだ。

自分の仕事の役割は、汎用的な職種の定義とも工程とか専門分野の概念とも直接つながっているものじゃない。実務者であるかぎり、自分の役割というのは、「その仕事」の目的を叶えることだ。所属する会社、お客さんの求めや期待に応えることだ。そうして社会に貢献することだ。実務者の仕事は、その目的、求め、期待と直接つながっているのであって、職種定義や専門分野の概念からは独立したものだと思う。

もちろん仕事だから複数名関わることになるし、役割分担はある。「その仕事」の役割分担をするときには、ある程度それぞれがもっている職種の定義や専門分野の概念がものを言うだろう。○○さんは何職種だからどこからどこまで預かって、これとこれをやってというふうに。

しかし、それは世に普及する汎用的な定義や概念に沿うかどうかではなく、「その仕事」がより良い成果をあげるために、どういう役割分担をしたらいいか(あと、その仕事の条件やら、今の状況で対応可能な分担とか先々を見据えた教育的観点とか)を見据えて分担されるものだ。そうやって役割分担を考えるときに毎度一からタスク分けしていたら非効率だし、おおかたは職種や専門分野で割り振れるから、たたき台作成にうまいこと使っているだけ。それで、一人ひとりの仕事と、職種や専門分野がつながっているように見えるだけで、そのつながりはすべての仕事に絶対固定のものじゃない。

「その仕事」においては、他の人がやるより自分がやったほうが目的に適ったものが仕上がる、効率が良いという状況であれば、普通に提案されるべきものである。もし「その仕事」においては、自分がやるよりあの人がやったほうが目的に適ったものが仕上がる、先々の組織の力や社会貢献度も高まる、そしてそれが振られる人にとっても現実的に対応可能な状況であれば、そうなるように提案して手配するまでが自分の仕事だ。それは何も特別なことじゃないし、良いと思うなら提案するほうが全うだ。

クライアントや所属する組織から期待されている役割は、職種の定義に沿うことではない。工程や専門分野の概念の範疇におさまって、それに沿って正しくやることでもない。そこでよい仕事をすること、目的に応じた成果を出すこと。そのためには、職種の定義なんて軽やかに超えていいし、工程とか専門領域の概念なんて踏みつぶしていい。そういう気概をもってやらないと、いい仕事なんてできないし、他に応用できる生きた力も一向に身につかないと思う。

先人の知恵を軽視するわけじゃないが、絶対視できるものでもないし、それは汎用化された時点で個別性を欠いていることを忘れちゃならない。自分のケースにあうかどうかは自分で検証しないといけないし、どう適用し、どう適用しないかは自分で判断しないといけない。自分の知らない真逆の先人の知恵だって存在するかもしれない。

先人の知恵を知らないでやるより、そういう知識を得た上でそれに沿ったり、あるいはそれを知りながら別のアプローチをあえて取るというほうがいい仕事ができるんじゃないかって話で、それを盲信して従うままになって、個別性に対処する自分の役割を放棄してはならないと思う。

実務家は実務で成果をあげるのが仕事だ。その仕事で、そのプロジェクトで生々しい成果をあげることが求められている。よそに成果を示すために仕事してちゃいけない。意識を核心からそらしちゃいけない。自分の力は、その仕事の目的のために尽くされるべきなのだ。と、いうのが、ごく個人的な見解。

本のしまい方

本棚に本がうまいことおさまらない…。みんな、どんなふうに家の本棚を使っているんだろうなぁ。私の周辺は、たくさん本をもっている人が多そうだし、本の並べ方にも一家言ありそうな人が多そうだけど。

いやぁ、こだわりだすと、ほんと疲れます。疲れるからこだわりを捨てたいのだけど、どうも気持ちわるくてある程度こだわらざるをえないというか。嫌い嫌いも好きのうちというか(関係ない)。しかし、どうにもこうにも本はうまいこと収まってくれない。

狭いところであーだこーだやっているのだから、どこかで妥協しないといけない。そうだ。狭いという前提条件を私はもっているのだ。そこは前提条件なんだから、うまいこと収まらなくて当然なんだ。と考えると、それはそれで救われるような救われないような。

とりあえず、そんなわけで、あちらをたてれば、こちらがたたない状況にある。贅沢にカテゴリーごと一段一段まとめていこうとすると、あるカテゴリーは一段とちょっと本が並び、あるカテゴリーは一段の半分も満たない。それはいいとして、同じカテゴリーにも背の高い本と低い本とあって、本棚の仕様上、カテゴリーをばらさないと収まらない。でも、複数のカテゴリーをごちゃごちゃに配置するのもどうも落ち着かない。

そこにまた追い打ちをかけるように思いついてしまうのが、今後もいろいろ本が増えていくこと。となると、このカテゴリーとこのカテゴリーは少し棚に余裕をもたせておいたほうがいいよな、今がちょうど良くちゃしょうがないんだ、とかなって混沌。

で、一つの本棚に収まるならいいが、そうもいかない。最近やってきて今入れ替え中の大きめの本棚が一つ。その他に、玄関にある靴箱の上半分を本棚にしている。さらに、部屋の収納の段ボールの中にも本が入っていて、これのどこに置くかによって手のとりやすさが格段に変わってくる。段ボールの中なんて、ほぼないに等しいくらいだが、ふと読みたくなったときには、あぁあの本はあそこにしまってあると思いつける存在感はあるので手放すのでもない。

整理しよう。ランクAは、手持ちのカバンの中に入れて日々連れ回している本だ。ランクBは、机の上とかに置いておいて、次はあなたよ!という格好にしている本。基本、本棚にしまったら読まずに忘れてしまうんだろうという自分への不信感があるので、ここまでは本棚にしまわない。で、やっとランクCが最近やってきた部屋の中の本棚に並べる本。ランクDが玄関先の靴箱に収まる本。ランクEは部屋の収納の段ボールの中へ。

で、悩ましいのはランクCとランクDをどう収納するかである。部屋の本棚にしまうか、玄関の本棚にしまうか。これは本にとってもかなり運命の分かれ道といえる。ゆえに、そう安直に判断するわけにもいかず、玄関に行ったり部屋に戻ったりうろちょろしながら、おまえはこっち、あなたはこっち、いや、あなたはあっち?としたら、あなたもあっち?とすると、これ全部あっち?いや、そうすると入らないからやっぱりみんなあっち?と行ったり来たり。

で、どうにかこうにか入れてみた。再読の頻度が高そうなのを部屋の中に置くようにして。そうすると、小説や哲学など仕事以外のやわらかい本が全部玄関のほうに押込められてしまうので、部屋が堅苦しくなるのだけど(それで引越し直後に家族が見に来たとき父に小言を言われた)、今回は一旦実用性を重視して、そこは割り切った。

のだけど、やっぱりなぁ、玄関の本棚というか靴箱に入れちゃうと、ほぼないものになっちゃうんだよなぁ。毎日前は通っているんだけど、なかなか開く機会もなく、目に触れないところというのは、距離50cmであってもずいぶん遠い。

目に見える場所、肌の触れるところっていうのは、ほんと大事。手元や手前にあって、目にふれ、肌に触れるところにあればあるほど、やっぱり近いんだなぁ。真逆はやっぱり、遠いんだなぁ。人間っていうのは身体性を前提に生きているのだ。当たり前すぎてわかりづらいけれども。

2012-05-13

仮住まい

我が家に家具がやってきた。先日書いたデスク・引き出し・椅子のセットと本棚が届いたのだ。「引っ越したとおもえば安いもの」という都合のよい解釈で、ソファベッド以外の家具を総入れ替えしたかっこう。同じ部屋ながら、別の人が住み出したような変わりようである。

前の家具は概ね10年以上使ったから、まぁここらで三十路仕様に切り替えてもよかろうと。これまではタモ材のような明るい色味が中心だったのだけど、今回は色味の落ち着いたウォールナット材にそろえて、部屋全体がだいぶシックになった。

というのも大きな変化なのだけど、やはり一番は、テーブルがデスクに変わったことだ。家具が変わることで、人って部屋の過ごし方、ひいては人生の時間の使い方が変わるんだなぁと、家具の存在に恐れ入った。日常過ごす空間ほど、ぞんざいにしてはならないなぁと。

私は一人暮らしを始めて以来ずっと、「この家は仮住まいなのだ」という思いを半無意識におきながら暮らしてきた感がある。実際、当初は会社にいる時間が圧倒的に長かったし、家にいる時間が圧倒的に短かったから、とりあえずのものがそろっていれば良かったのだ。

しかしまぁ、なんだかんだと歳を重ね、ふと気づけば「仮住まい」状態が10数年も続いているではないか。となると「それって仮?」という疑問が芽生える。いや、仮でもなんでもいいけど、とりあえず仮も10年・20年って単位なら、仮ライフをもう少し「脱とりあえず」していいんじゃないのかって話である。

そういう転機として「引っ越したとおもえば安いもの」と考えているのであって、だから、これでいいのだ。うむ。ふむふむ。一気にお金を使ったことを自己正当化する文章におつきあいいただき、ありがとうございます…。大事にします。

2012-05-08

いいじゃない、それで

ゴールデンウィーク後半は実家に戻り、父と妹と私で1泊2日の旅行に出かけた。行き先は千葉の南房総。実家からだと大移動という距離でもないが、車で数時間かけて南下する小旅行。内房は木更津やら富津あたりをうろちょろ観光し、そこから外房の鴨川のほうへ出て旅館に1泊。

部屋に入ると、窓一面に太平洋が広がる。お風呂も露天風呂から海と星空が望める。旅館は実に千葉らしく、さりげなく程よく地味に心地よい。2日目は鴨川シーワールドで、イルカ、シャチ、アシカ、白イルカのショーを観た。

このオーソドックスな観光旅行というのが、たまらなく懐かしくて心地よかった。「家族でオーソドックスなことをする」って、ものすごく尊いことのような気がするんだ。子どもの頃の体験もそうだけど、大人になってから追体験するオーソドックスも独特の良さがあるもんだな、と思った。思い出が重なる。

家を出発するときは小雨がぱらついていたけれど午後にはすっかり晴れて、2日目は朝から素晴らしい快晴に恵まれた。海と空の境目が曖昧だった。気温も25度近くあったのではないか。その翌日には各地で雹が降ったり竜巻が起こったりと大荒れだったので、運が良かったとしかいいようがないが、なんだか本当に自然の優しさに包まれた2日間だった。なぐさめてくれているようでもあった。

久しぶりのドライブも、なんだかとっても懐かしかったな。運転は妹まかせだったが…、高速道路を走るのも、サービスエリアで一息入れるのも、海岸線や山道を行くのも。うちの家族はなんだかんだとよく出かけたから、海に行っても山に行っても、子どもの頃の家族旅行がほんわりと思い出される。子どもの頃のドライバーはきまって母で、だからきっとこの旅の間、私たちは各々に何度となく母を思い出した。

それにしても、今回の旅行ではおおいに自然の偉大さを感じた。太陽の光を浴びて輝く若葉の中を走ることが、あんなに生命力を与えられるものだとは。すべての音を丸のみしてしまう波の音に包まれて広大な太平洋をただぼーっと望むことが、あんなに感慨無量の気分を与えてくれるとは。山の連なりに夕日が沈むのを見届けることが、あれほど心ほどけることだとは。

朝日に照らされてきらきらまぶしい海水の透けるのを眺めることが、あれほど幸せなことだとは。その浅瀬でカタクチイワシの大群と、ウツボがそれに食らいつくのを観るのが、声をあげずにはいられないほどの興奮を呼び起こすものだとは。すっかり忘れてしまっていた、どこかに置いてきてしまっていたような高揚感を、自然は一瞬にして私の中によみがえらせ、そんなの朝飯前だよって顔をしている。

その強大な力は、父にも届いた。当初から、この旅行で父の気分をどうこうしたいと作戦を練って出かけたわけじゃない。そんな大それた企てが奏功するほど、人の気持ちは簡単じゃないと思っていた。母を亡くした父の胸のうちは、簡単じゃないのだ。だから、みんなで一緒に、いい家族の時間を過ごせたらいい、そう思って出かけただけだった。けれど、自然がやってくれた。この旅行中触れた数々の自然は、父にも生命力を注ぎ込んでくれたようだ。

そう感じる父の言葉を、旅行中に聴いたのだ。それはほんとにささやかな気分の上向きだけれど、とても大事なことだった。私はただ、「いいじゃない、それで」とゆっくり笑って相づちを打った。できることは、自然のなした大業を邪魔しないことだけだ。父の心のうちに自然の力が浸透していくのをただ見届けた。そして感謝した。自然に心から感謝したし、改めて畏怖の念を抱いた。これでどうこうというものではないけれど、今回旅行に行ったことは、とても良かったのだと感慨深く思う。

今年のゴールデンウィークは比較的アクティブに過ごしたが、合間合間で思いや考えを巡らせて試行錯誤していた。結局のところ、導かれるのは自分のなしていることや自分自身のちっぽけさではあるけれど、そのちっぽけさをわきまえて、ちっぽけなことを大事にしていけばいいんじゃないかなとも思う今日この頃。つまり「いいじゃない、それで」ということなのだ。まとまる話でもないので、という締めにしておく…。

2012-05-01

行きつけの蕎麦屋

近所に行きつけの蕎麦屋がある。お店はたいてい空いている。いつも店に入ると、お客さんが誰もいないか、一組入っている程度。お店自体も広くない。4人掛けテーブルが4つ、2人掛けが1つか2つ、所狭しと並んでいる。

あるときは暖簾をくぐると外国人を交えた5〜6人の団体客が入っていて、注文をとるのにてんやわんやしていた。結局、その後店に入った私も他のお客さんも一向に注文にたどり着けず、全員店を出てきてしまった。あのお店は席が全部埋まったら、たとえ物わかりのいい客が勢揃いでもキャパシティオーバーだろう。

そんな愛嬌のあるお店だが、私はまずまず常連である。注文を問われるとき「何にします?」から「今日は何にします?」に変わった日、そういうことになった。行きつけなのだから蕎麦の量も器も知っている。これくらいの器に、これくらいのボリュームで、客さえ少なければ注文からさほど待たずに出てくることを私は知っている。そして客は基本的に少ない。

それで今日の晩、会社帰りに足を運んだのだけど、どうやらラストオーダー2〜3分前に入ってしまったらしく(行きつけの割に…)、当然のごとくお客さんは誰もいなかった。しかしそれはいつものことなので、入店してすぐには気づかなかった。

座って注文を終えたところで、一人だけいる接客担当の店員さん(この店員さんは今日が初顔合わせ)が外に出て暖簾をおろしてきた。さらに、いつも流しているNHKラジオの音も止めてしまって店内は無音になった。まだ食べるどころか、注文した蕎麦も出てきていないのだから、つけておいてもいいんじゃない?ボタン一つ押せば止まるんだし…と思ったけど、そんなこと言えない(行きつけながら…)。

しーんと静まり返ったところで、蕎麦を待つ。お店は1階だが、蕎麦を作る人は2階にいて、蕎麦は蕎麦エレベーターのようなもので下りてくる。だから店内には接客担当の女性と私の2人しかいない。いっそ、せわしなく店じまいのあれこれをしてくれれば間も保たれるが、暖簾を下げて以降、これといってやることもなさそうで、彼女はぼーっと私の視界の先に立っている。無音である。

しばらくすると、蕎麦エレベーターの稼働音が2階から聞こえてくる。蕎麦が下りてくる。1階に到着すると、エレベーターから蕎麦を出して、店員さんが席にもってくる。「早く食べて帰っとくれ」という威圧感もなければ、「ゆっくり食べていってね」という感じもなく、つかみどころのない接客である。

それでまぁ、焦るでもなく、のんびりでもなく蕎麦をすすり始めたのだが、これがなぜだか一向に減らない。どうもおかしいなぁ、いつもと感じが違うなぁと思って、箸を底のほうにもっていって、よいしょと蕎麦のボリューム感をはかってみる。すると、これはあきらかに、いつもの2倍ある。1.5とかじゃない。2人前、2杯分。ぴったし2倍、に違いない。

な、、なんなんだ。早く帰したいんじゃないのか。2階にいる店長の大盤ぶるまいか。中途半端に一把余っちゃったのを放り込んだか。最後のお客さんには毎日この特典がついているのか。それにしたって、蕎麦は2杯分だけど、つゆも器もいつも通り。食べ物屋が意図的に出すにしてはあまりに乱暴だろう。

ということは、何かの手違い?って、どう手違うことがあるだろう。あっちとこっちが一緒になっちゃって…という事態を想像しようにも、あっちにもこっちにもお客さんがいない状況で混じりようもないし。まかないと一緒になっちゃったとか?なっちゃうか?なっちゃうかなー。とか思いながら蕎麦をすする。謎だ。謎のまま帰ってきた。何なのだ。2階で何が起こったのか。あるいは、私が2分の1になっちゃっていたのか…。

2012-04-30

家にデスクを置く

この3連休は、私にしては珍しく方々出歩いていて、その間に「家にデスクを置く」というスーパーソリューションに巡りあってしまった。家にデスクを置くなんて当たり前の人には、おまえはその歳になって何を今さら…と思われること請け合いなのだけど、なんだか思考停止になっていて気づかなかったんだなぁ、「我が家にはデスクがない」という驚愕の事実に。

その昔、一人暮らしを始めたときに、この6畳一間にテーブルもデスクも置くのは無理があると思ってデスクをあきらめたところから、引っ越した先でもデスクなしがデフォルトになってしまっていた。それに、当時からごく最近(1〜2年前)までは圧倒的に会社で過ごす時間が長かったから、2択なら家はデスクよりテーブルがいいんじゃないの?という結論の導き方もそうおかしいものではなかったのだ。

しかし、よくよく考えてみると、別に人を呼ぶ家でもないので、最初からテーブルよりデスクを選んでよかった気がする。私の使う時間は、大半がテーブルではなくデスク向きである。本を読むとか、文章を書くとか、ノートとペンでもぞもぞやっているとかいうのは、実にデスク向きのことであり、私の24時間はだいたいこういう地味な作業に割かれている。

が、15年前には自分がどんな生活を営むのかイメージを持ち合わせていなかったし、別のところに引越すときも他の要件はあれこれ見直してきたのに、ことデスクに関しては新たに追加しようという発想がなかった。家にそういう集中空間は作れないことが前提になってしまっていて、本を読むとか文章を書くとかいうときには近所のお店に出かけるのがスタイルとして定着してしまっていた。家にはあまり長居しないのが当たり前になってしまっていたのだ。

いやぁ、しかし、家にそういう空間を作ってしまえれば、閉店時間とか気にしなくていいんだもんなぁ。家にはそんな空間作れないと思ってきたけど、デスクを置くっていうのは、ものすっごいスーパーソリューションじゃないかっ!と、家具屋さんでハッとした。自分の生活をより豊かにしようとかいう心意気をもって家具屋さんとかをぶらつくことが若い時分にできていたら、もっと早く気づけたと思うのだけど。いやぁ、ずいぶん時間がかかってしまった。

というわけで、土曜日にハッとして、日曜日にいいものに出会って、月曜の本日それを買った。なんだか一気にデスクと椅子と、チェストとかいう袖の引き出しと、シェルフとかいう本棚と、4点まとめ買いした。私は家具って買うと、ぼーっとしている間に10年くらい軽く使ってしまうので、最短でも10年使うと考えたら、まぁいいでしょう。

というか相当世の中が激変して、机に向かうとか、椅子に座るとか、引き出しとか本棚に物を収納するとか、何それ意味わかんないわーみたいな時勢にならない限り、一生でも使いたい。今後引越しをすることになっても皆さん引き連れて仲良く暮らしていきたい。

家にデスクのある生活。あぁ、たまらないわー。今さらすぎるわー。久しぶりに、生活っぽいことをテーマに過ごした休暇で新鮮だったなぁ。そんなGW前半戦でした。

2012-04-26

エラー番号「11」

昨晩のこと。お風呂に入ろうと給湯器の電源をオンにして蛇口をひねったのだが、いつまで経ってもお湯にならない。リモコンに目をやると、いつもの温度表示などがすべて消えて「11」の数字だけが点滅表示されている。見るからにエラー番号っぽい訴えだ。洗面所や台所も同じ。電源を入れ直しても変わらない。何度か試しても変化なし。

とりあえず、ルンルンお風呂気分を鎮静させ、肩を落として部屋に戻る。冬じゃなくて良かったよねと自分を慰めつつ、布団にもぐる。翌朝はフィットネスクラブのお風呂に入って出勤すればいいとして、致命傷じゃないが早々に解決したい問題ではある。明朝起きて直っていなかったら、朝一番で管理会社に電話するかーと短い対策会議を終えて、寝て起きてみたら、やっぱり直っていなかった。

フィットネスクラブ経由で出勤し、朝9時にマンションの管理会社に電話。すると、まだ少し早かったのか深夜帯の一次受けサポートセンターのようなところにつながる。あまり要領を得なかったが、とりあえずブレーカーを落として10分おいて立ち上げ直して、それでもダメだったらもう一度管理会社に電話、メーカー名と型番を伝えて修理を依頼するという段取りに。

諸々家でやらなくてはならないこともあったので、午後半休にして家に帰る。指示通りブレーカーを落として様子をみるが復旧ならず。エラー番号らしき「11」を調べてから管理会社に連絡しようと、取り扱い説明書を開く。どうやらガス系統の問題らしいが、詳しいことはよくわからない。

マンションの管理会社に電話すると、今度は本社につながる。深夜帯のサポートセンターでのやりとりは何も共有されておらず、再び一通り状況説明。メーカーのサポートセンターに連絡をとって、直接こちらに連絡が入るよう手配してくださるとのこと。電話をきって待機。

電話を待っている間、洗濯やら部屋の掃除やらしていると、あれ、この机の上の郵便物の束に。あれ、ガス料金の支払い依頼書類みたいなのが新品状態で。あれ、1枚、2枚、3枚。あれ、3月分払ってない、2月分払ってない。あれ、もしかしてこれなんじゃないの?ガス料金未払いで止められてるだけなんじゃないの?これ払えば、直るんじゃないの?

と胸騒ぎをおぼえたところで電話が鳴る。メーカーのサポートセンターだ。でもな、もしかすると滞納のせいじゃないかもしれないもんな。とりあえず見てもらう日程は押さえておいて、支払って直ったら即キャンセルしよう。そう思って、平静を装い先方の話にあわせて修理の日程調整をする。その後、すかさず先方の連絡先を確認。「日程変更のご希望などありましたら、こちらにご連絡ください」と添えられた一言に癒される。お礼を言って電話を切る。

切るやいなや、コンビニに行って3ヶ月分の支払いを終える(いや、滞納していたのは2ヶ月分だ。3枚目は問題ない4月分)。家に戻り、再挑戦。これで、もしかして直っちゃったりして。淡い期待というより、きっと直っちゃうんだろうと思いつつ、部屋の中に入って電源を入れ、蛇口をひねる。

で、行けるか!と思ったら、なんとダメだった。玄関先にある扉をあけてガスの再始動らしきボタンを押してみたらどうかと思ったけど、これもダメ。なので、やっぱりメーカーさんの修理の予約は有効だったわけだ。が、原因というか、少なからずきっかけは私の滞納にある気がしてならない。とすると、メーカーさんの問題じゃないよね、ガスの問題だよね、と思いつつ修理の日を待つのは罪?まぁ、せっかくだし。

しかしまぁ、この生活に対する無頓着さというかずぼらさというか、相変わらずひどいな、と思った。早く直るといいなぁ。そんなわけで、いまだエラー番号「11」は謎。ガス料金滞納なのだろうか。

2012-04-24

なっぱふみふみ

小説を読んでいると、お話のなかに出てくるあれこれが、自分のなかにあるあれこれと関連づいて、意識の水面に浮き上がってくるような体験をちょこちょこ得るものだ。今日小説を読んでいたら、「どういう字を書くのか、改めて考えたことがなかったが」という一節があって、あぁそういう言葉ってあるよねぇと思いながら、自分のなかにあったある言葉に行き着いた。

それが「ばふいやふいやのなっぱふみふみ」である。「どういう字を書くのか、改めて考えたことがなかった」というより、「どういう意味があるのか、改めて考えたことがなかった」言葉だ。おおいに謎である。

これは父の口癖で、どんな意味があってどこを起源としているのか、まったくわからない。が、物心ついたときから聞いていたので、口癖ともなんとも、「これはなんなのだろう」と考えることがなかった。30数年も、それは何者かと問わずにきてしまったものに対し、これはいったい…と問いを投げかける回路を組んでしまうのが、小説の不思議な力である。

で、今ならば現代テクノロジーを使って起源を調べられるのではないかと思って、Google検索してみた。「ばふいやふいやの」はさすがにわけがわからないので、「なっぱふみふみ」で検索してみると、近しいもので「はっぱふみふみ」が出てきた。

これくらいわけのわからない言葉で、これくらい近しい表現であれば、きっと関わりがあるのではないか。「はっぱふみふみ」を詳しくみてみると、1960年代の流行語で、起源は大橋巨泉の万年筆のCMにあり。で、これもまた、短い時間でわけのわからない言葉を言っているのが話題になったようで、わけがわからないということが共通の肝のようである。

では、鑑賞してみよう。そうしよう。パイロットエリートSという万年筆のCM映像(Youtube)。

「みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ、すぎかきすらの はっぱふみふみ」である。耳になじむ五七五七七。言葉がはちゃめちゃなのに、何がどう素晴らしいのかなんとなく伝わってくるようなこないような大橋巨泉の振る舞い。人間の根源的な力を感じますねぇ。

しかし、ではなぜ「なっぱふみふみ」になまったのか、頭についている「ばふいやふいや」とは何なのか。本当に「なっぱふみふみ」を起源としているのかは、いまだ闇の中である。「ばふいやふいや」は、「はっくしょん、ちくしょうめー」とかいう、無駄に長くしてみました的意味合いに近いのかなとも想像するけれど。でも、あれはくしゃみじゃない。いったいどんなふうに生まれて、どんなときにあれを言っているんだろう。

でも、こういうのってなんか、本人に聞いてすべてがわかってしまうのももったいない気がしますよね。なので、「ねぇ、それって何なの?」とは聞かずに、これからもやっていくと思います。

2012-04-22

プログラミング学習という基礎体力づくり

以前Facebookで、そろそろ義務教育の教科に「プログラミング」を加えたほうがいいような…とぽろりつぶやいたのだけど、そのときはほんとにぽろりだったので、それについて思うところをメモ。

といっても、私はプログラミングができないのであった…。なのであくまで概念的に思っていることなんだけど、結構真剣に思っていることではある。ちなみに、あと2、3年でどうこうという話ではなくて、20年、30年かけてでも整備していくべきじゃないかなぁというイメージ。

では、なんでプログラミングを義務教育の教科に入れたほうがいいと思うのか。一つ思いつきやすいところとしては、日増しにエンジニアの社会的ニーズは高まっており、これは今後も右肩あがりであろうし、それは国内のみならず世界的な傾向といえるでしょうから、という見方だろう。

義務教育の目標の一つとされている「職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと」にどんぴしゃりってことになるだろうか。

国語や数学や社会や理科や音楽や体育と同じレベルで、プログラミングも早いうちから、まずはこういうものがあるんだと存在を知るきっかけが早期に与えられるべき分野になったのではないかという。その存在を知る機会さえ与えてあげれば、興味のある人はずんずんその先に進み、深めていける。ただ、その存在を知る機会がなければ、そのまま子ども時代のつきあいなく時間が過ぎていってしまう。そうなってしまうにはあまりにも重要な分野に成長しているんじゃないかという話だ。

ただ、そうした「適性のある人に早く出会いの機会を」ってことに限らず、私はプログラミングの基礎を学ぶことって、みんなにとって有意義で有効なもんじゃないかなぁと思っている。会得できたかどうかという結果より、学ぶプロセスで得るものへの期待感が個人的には大きい。

プログラミングの特徴というのは、自分の出した指示に、これという反応がかえってくることだと思う。「このときの主人公の心境はどんなものだったと思いますか?」と問われて、「○○と思う一方で、○○という思いもあったと思います」と答えると、「そういう捉え方もありますね」と先生から曖昧な反応が返ってくるとか、そういうとらえどころのなさと真逆にあるというか。

自分の出したとおりに、反応が返ってくる。それ以上でも以下でもない。そこで自分の指示に不備があれば、反応が得られない。あるいは、誤った反応が返ってくる。人のせいにできない。自分の指示がまわりくどければ、指示が遅れ、反応も遅くなる。隣をみると、もっと素早い指示の出し方をしている人がいて、その差異が明示的にわかる。お題が共通していれば、どちらがより効率的かが一目瞭然であり、効率的で合理性が高い解のほうがベターという思想も前提にあるように思う。そういう中で、視覚化されたフィードバック、視覚化されたより合理的な解の導き方に触れながら、人のせいにできない環境で、自分の能力を自覚し、より良い答えを知り得るプロセスは、とても有用な体験だと思う。教育のすべてがそうあるべきとは思わないけど、そういう部分が濃厚な分野も含まれていたほうがいいとは思う。

あと私がプログラミング学習で個人的に一番関心をもっているのは、省察やメタ認知力を鍛える効果についてだ。現代の基礎教育は、固定的な知識を得ることより、知識を入れ替えさし替え生涯を通じて継続的に学んでいけるよう「学び方を学ぶ」方法が問われる。そんな中で、省察やメタ認知は非常に重要な基礎体力だと思う。Papertは、プログラミング学習の中で、それを学ぶことができると説いている。

Papertは、子どもたちがプログラミングを学習する中で、手続きを詳述すること、繰り返しを見いだすこと、そして、プログラムが期待したとおりに動かなかったときに、自分自身の考えを「デバック」することを学ぶと主張している。

『学習科学ハンドブック』R.K.ソーヤー編、培風館

さらに、こうして何らかの役割を果たすものづくりを手がける一連のプロセスで、プロジェクトとか、ものづくりにおけるスコープというものを学ぶことになると思う。何が機能するようになったら、これは一旦「できた」ということになるのかという範囲だったり、いつまでに作るのかとか、どうしたら効率的に作れるのかとか、あちらを立てるとこちらが立たないけど、さてどちらを採ったらいいのかとか折衷案で何かよい策はないかとか、ものづくりを完成に至らせるまでに人はいろんなことを考える。俯瞰的に一連のプロセスをみて省察することも自然とやる。それは、必ずしもプログラミングで学ぶ必要はないと思うけれど、比較的そういうものをミニマムに学ぶのに相性のよい分野だと思う。

そんなこんなで、そろそろ義務教育の教科に「プログラミング」を加えたほうがいいような…と思っている。そろそろ来るんだろうか。私立の学校とかが成功事例を出していってって感じになるんだろうか。できないくせに、そんなことをもやもや考えたりする。

追記:あとあと、作って楽しい、作り途中の模索も楽しい、人と話すとまた発見があって楽しい、出来上がって嬉しい、を体験できるのも、もちろん大きいなぁと。ものをつくることの感情体験というかなぁ、これってすごく大切と思う。

2012-04-21

軽はずむ言葉

ブログを書き続けていると、山谷が巡ってくる。なんだか立て続けに書きたいことがわいてきて、毎日のように更新してしまうときもあれば、全然書くことがひとまとまりとなっては浮上してこずに、しばらく更新が滞るときもある。

それを「書けないとき」と表してもいいのだけど、個人的には「書かないとき」というほうがしっくりいくかなと思っている。仕事じゃ締め切りがあるからそうはいかないだろうけど、これはただのブログである。書く気にならないときは、普通に書かないことにしている。一方、書くことがぼこぼこわいてくるとき、書かずにはおれん!という衝動が走るときは、それも制限せず、そのまま書いてしまうようにしている。力量不足で形にならないことも多いけれど…。

どうして書かないときは書かないでいい、書かないのがいいと思うか。それについて書いてみる。そもそも、定期的な更新を前提として始めたわけではない気ままなブログという前提はあるのだけど、それとは別軸で私の根底にあるのが、言葉は上滑りを始めるものだからという認識である。

言葉を日々書き連ねていき、それがナチュラルハイみたいな状態に達すると、なにか自分より自分の発する言葉のほうが主導権を握り出して、自分の頭で自分ごととして考えたり実感できていないものも、何かの流れにのって言葉が勝手に暴走しだしたりする。主従逆転現象というのかな。そういうのを、昔なんとなく予感したことがあった。

言葉は、中身がなくても言い表せたり書き表せたりする面がある。そこから何かが創造されることもあるから、一概にそれが悪いことだとは思っていない。ただ、自分の発する言葉に我が身を預けて放っておくと、自分が思うより、自分のはく言葉のほうが立派になってしまって、これが人に誤解を与えたり、おいおい実際の己とつじつまが合わなくなったりもする。

何より怖いのは、自分自身が自分を見誤ってしまうことである。言葉に表したことで、さも自分がそれをわかっている、そう思っている、それについて一家言もっていると無意識のうちに思い込んでしまう。中身は薄っぺらいままなのに。自分で自分を見誤ると、これはなかなか歯止めがきかない。そこに飲み込まれるのは、ちょっとご免だなぁと思うので、自分がはく言葉の暴走には細心の注意をはらっている。

言ってしまってから反省することもあるけれど、それはそれで自分の言葉として発した責任を負う覚悟はある。「確かにそう言いました。でも、違いました。ごめんなさい」というだけかもしれないけど(笑)、まぁそれも大事なことだ。

もう一つ、書かないときは書かないでいいと思うわけは、焦らずともまた、四季が巡るように、書くことがぼこぼこわいてくる時期も巡ってくるのだろうと思っているからだ。一日一日を大切に生きていれば、おのずといろんな人の言葉や思いや考えやふるまいに触れることになる。本を読めば、また違う世界に触れられて刺激を受ける。そういう日々の生活の中でまた、いろんなことが心のうちでゆっくり一つのかたまりをなしてきて、いずれまた言葉がわいてくるのではないかなと。

どうも私は、そういうのを文章に表したい衝動が働くタチらしいし。実際どうなるか未来のことはわからないけど、漠然とそう信じているところがある。それを書き表す過程で、自分自身が深まっていくのがこの場に求めるところであって、それをできるだけ頻繁に起こすことはさして重要ではない。だから、無理くり何かをアウトプットしなくても、肩の力を抜いて、日々の生活を大切に営んでいればいいかと。

不器用だなぁと思うこともあるし、日々散らかり続ける手書きのメモをもっとまとまった思考で文章に起こせるだけの力量があったらと思うこともしばしばなのだけど、まぁ自分らしく模索しながらやっていく。そういうのがいいかなと。

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