2019-06-17

ブロックチェーンと学習プラットフォーム、個人のキャリア情報のオーナーシップに思いを馳せる

ことわり:タイトルが長いのは、話がまとまっていない書き散らかしのメモだからです。謙遜ではありません…。

▼シロウトによる「ブロックチェーンとは」

ブロックチェーンというと、仮想通貨のビットコインを実現する技術として有名だけど、HR業界では学習プラットフォームにも活用され出しているという話を、ATD 2019-ICE報告会」(*1)で聴いた。

ブロックチェーンというのは、暗号化された公開台帳の技術で、中央で集中管理するのではなく分散してデータベースを管理、タイムスタンプをつけて情報をアップデートしていく仕組みだとか(シロウト理解)。

分散してデータを管理しているので、偽造・改ざんができない。タイムスタンプがつくので、どっちが先だったか後だったかで揉めない。

▼仮想通貨以外のブロックチェーン活用

そんなわけで仮想通貨にかぎらず、語学力・学位・各種資格や免許などの証明書、契約書の発行、生産履歴の記録と証明なんかにも活用が期待されていると言う(シロウト解釈)。

すでに難民やホームレスなど身分証明をもたない人たちのIDとして実験的な活用が始まっていたり。アムステルダムにある美術館では、贋作の防止とか、盗難して売りさばけないようにするのに活用しているとか。学者の研究成果や論文も、タイムスタンプがつくことで、どっちの発表が先か問題で揉めないで済むなんて動きがあるのだとか。

マサチューセッツ工科大学(MIT)では、2017年にブロックチェーンで実現させたデジタル修了証書を授与したことが話題になった。学歴詐称できない仕組みの実現だ。

学習プラットフォームとしては、BitDegreeというリトアニアの会社がエンジニア不足を解消すべく、ブロックチェーンを活用した学習プラットフォームをこしらえた。学生にe-ラーニングを提供し、これを通じて学ぶと学生は仮想通貨がもらえて、学ぶだけで収入が得られる。会社側はこのラーニングで出来の良かった人に、仕事のオファーを出せる仕組みを構築したとか。

▼ブロックチェーンが普及した世の中

さて、ここからは技術や市場に明るくない一市民の、ただの妄想だが…。

ブロックチェーンの仕組みがいろんな分野に普及すると、難民にかぎらず一般市民が、性別から血液型、住所の変遷、学歴、成績、資格、趣味嗜好、信条、職歴、業績、保有スキル、人脈、その他のキャリア情報まで、自分のIDに紐づけて自己管理する方向に進むのかしら。

そうすると、自分のデータは、国でも勤務先でもなく、個々人がオーナーシップをもってマネジメントする世の中に、前提が変わっていくのか。

いや、今だって個人情報は保護されているのだし、そうだといえばそうなのだろうけれど。昔はイエローページの一般家庭版、青色のハローページなるものがあって、一般家庭の世帯主&電話番号が分厚い冊子になって市民にばらまかれていたのが、今はそんなことありえない世の中になっている流れを鑑みるに、個人が自分のさまざまな情報にオーナーシップをもって、何を開示して何を開示しないか、誰に開示して誰には開示しないかを自分で選択する時代変化の中に身を置いているのかな、という感じがしている。

勤め先、役所、友人A、家族B、パートナーなど、どこにどこまで出して、どの情報は出さないか。今でも、奥さんに財布を預ける人もいれば、結婚&子育てしていても財布は各々で管理している夫婦もあるように、どこまで誰と運用をシェアするか、誰かに自分の情報管理の権限移譲するかは多様であろうけれど。

▼組織と個人の、従業員データ所有感

組織視点に立つと、これまでなんとなく終身雇用の前提で、HR部門がオーナーシップをもって従業員のさまざまなデータを情報管理し、従業員個々に見せたり隠したりをコントロールしていた感覚が少なからずあるのだとすると、情報の取り扱い権限が、従業員個人のほうに比重を移していくのかも、という気もする。

そもそも1社で40年勤めあげるなどは、大手の、一時だけの、例外的な生き方であって、基本はこれまでだって個々人が自分の情報を管理し、キャリア形成を主導する立場にあったとも言える。アラフォー世代の私なんかは、そういう感覚である。

ただ、昔はなぁなぁだった情報管理が厳しくなって、その情報は誰のものなのかをはっきりさせる必要が出てきた。

今だと、ある企業の勤務期間中に外部の方と名刺交換して受け取った名刺は、退職時に全部廃棄してから辞めるみたいな運用って、けっこうある気がするんだけど、これって過渡期の暫定的な対処法な感じもあり、ちょっとぎくしゃくしている。

もっと思いきり個人のほうに、キャリアにまつわる情報のオーナーシップが移ってくると、これまで「組織のもの」感覚だった「人脈」なる価値が、個人が所有して持ち歩けるものとして、もっと勝手よくなっていくインフラ整備が進むのかなぁとか。何をイメージして話しているやら、わからないかもしれないが…(私もよくわからないから大丈夫だ…)。

従業員が勤めている間は、その人が学習したスキルとか、達成した業績なんかをデータとして付与して、会社によってはそれを退職時に個人が持ち出せる状態で証明書的に発行、個人は自分のIDに紐づけて次の職場、その次の職場へ持ち歩くことになっていくとかが、あるのだろうか。そういう証明書を快く発行してくれる企業に人気が集まったりとか。

SCORMに置き換わってxAPIで学習データを統合管理するようにする動きはあるらしく、従業員の経験を記録するためのデータ言語(主語・動詞・目的語)をもって、何を学習したのか、何を読んで、何のビデオを視聴して、何のブログを書き、何のシミュレーションテストに合格して、何を達成したかといった履歴をxAPIとかで、いろんなシステムを渡り歩いて管理できるようになったりとか、するようである。

▼就・転職する際の求職者データも

分かりやすいところで言えば、誰もが知るグローバルカンパニーに勤めていたとか、そういう組織に入社できただけでなく、入社後も会社から賞賛されるような功績をあげていたとか、退職後もフェローとして良好な関係をもっているとかが、本人の自己PRに終わらず、その組織が発行したデジタル証明書によって示せれば、個人のキャリア形成においては大きな後ろ盾になるかもしれない。就・転職するときに他者の推薦文を提出するような文化圏では、早々に取り入れられるのかも。

個人が求人に応募するとき、入社するとき、その時々の求めに応じてブロックチェーン上で信頼性を確保されたデータを提示することになり、雇用する組織側は選考時、雇用時に、その時々の必要に応じて、必要な分だけ過去の蓄積データを従業員から提示してもらって、その人の所属期間だけ活用できるように雇用契約を結ぶことになるのか。

実際には、選考する側の企業が要求する情報を、求職者は提出するのが基本で、出すのを拒めばそもそも選考してもらえないという力関係が働いて、今とさしてオーナーシップのありようは変わらないのかもしれない。

けれど、入社後も含めた個々のキャリア情報を持ち方、作り出し方、与え方、持ち回り方は、けっこう個人によるデータの持ち主感覚の比重が高まっていくのかもしれないなぁなどと思った。強気にふるまえる企業は今後もあり続けるのだろうけれど、強気にふるまえる個人も今後はどんどん出てくるのではないか。そうすると、個人の側が、この範囲のデータ提示で労働契約を結べないなら、あなたの企業には就職しないという判断も出てくるのかもしれない。

どのデータは雇用主に、その勤務期間中だけ提供していいと思うか、企業との信頼関係、入社時の契約とかによってくるのか。退職時には、どのデータは残して、どのデータは個人名を省いて統計的に活用できるような契約にして、どのデータは完全に削除するかなども、手続きするようになるのか。

▼妄想を終えて…

いや、たぶんすでに、こういうのを妄想じゃなくて、リアルに仕事で構想なり計画なり設計開発なりしている人がいるのだろうけれども。

とりあえず一市民として、あるいは人材開発に関わる端くれとして、ブロックチェーンを仮想通貨に偏った技術と捉えず、自律的なキャリア形成と紐づく位置づけで情報を取り入れていこうと思った(控えめ…)。

最初に宣言しておいた通り、これは妄想の書き散らかしメモであり、ここまで読んでしまって、なんて骨折り損のくたびれ儲けな文章なんだとがっくりしてしまったとしても、どうか受け流してください。

*1: ATD (Association for Talent Development) が年1回世界中から企業の人材開発関係者やコンサルタント、教育機関、行政体のリーダーなど25,000 名以上を集めて開催している人材開発の国際会議。ATDは、組織における職場学習と、従業員と経営者のパフォーマンス向上を支援することをミッションとした世界最大の会員制組織

2019-06-16

粗ではなく意図を探ること

とあるHR系のイベントで、「Newsweek」最新号のリーダー論に関する記事の紹介(*1) があった。「リーダー候補の8つの目標」というリストが興味深かったと言う。

その場で8つの目標を読み上げてくださったのだが、次のように始まる。

1. 毎週、最低3冊の本を読む努力をすること。1冊は伝記もの。1冊は小説や詩など。もう1冊は、あなたが何も知らない分野に関するものであること。
2. できるだけネットではなく紙に書かれた情報源を使うこと。新聞や雑誌、そして書籍などだ。タブレットやスマホなどから離れることは、記憶力や想像力を高める上で有効だ。
3. スマホの使用時間を1日20分以下にすること。意識を分散させてしまうデジタル端末から離れれば集中力を高めることができる。

8まで続くのだが、2で一線を引き、3でドン引いた。第一印象として抱いたのは、今どきデバイスの種類で情報の質の良し悪しを語るのって古くないか?だった。

この後にも、旅先として躊躇しがちな場所を年に2か所訪問するとか、仕事上の人的ネットワークは150人を維持とか、そのうち半分は年1で直接会うとか、最低30人の知人を新しく出会った人に紹介とか、6人の世代が異なるメンターを持てとか、8つの目標が続き、うひゃーと気圧された。

これを全部して成功したリーダーの研究実績が十分あるんだとしても、これをしないで失敗したリーダーの失敗実績はどれくらいあるんだろう…とか。過去の実績上は、それが言えたとしても、紙→デジタルに媒体が移行している現代において、今&これからの若い人たちにもそれが有効だと言うのは、なかなか微妙な提言なのではないか…とか。たたみかけるように反発の声が、私の脳内を駆け巡っていった。

が、待て、待てと。この教授が、どう言うことを言いたくて、結果この具体的なリストになったのかを深掘って、まずは全容を見てみようよと、脳内で別のほうから物言いがついた。

きっと、この8つの目標の根拠が、地の文には書かれているのだろう。根拠となっている情報が何なのかとか、そもそもこの教授が何を意図してこういう発信をしているのかを汲み取ること、そこを受け取ることこそが本質じゃないかと、私の中で私が私をたしなめる。粗ではなく、意図を探ること。

それで「Newsweek」を買ってみた(電子版はたいそう読みづらいが…)。地の文を読んでみると、この8つの目標が、こういう構造で提示されていることがわかる(表をクリック or タップすると読めます)。

8

つまり、「人間の脳がもつ弱点・欠点」は〜で、「放置すると懸念される問題」が〜なので、「リーダーとして克服すべき課題」は〜で、「処方箋」としては〜があります、というふうに、地の文が構成されている。その「処方箋」に基づいて、具体策として提示されたものが、最も目を引く中央においてある図版で、ちょっと眉唾感が漂う「リーダー候補の8つの目標」 なのである。

デバイス関連の話でいうと、私たち人間は新しい刺激に弱いので、スマホの新着メッセージやニュースのアラートなどに注意を奪われがち。一日の長い時間をスマホ接触にあてて、それが習慣化しちゃうと、まとまった時間にわたって集中力を維持することが難しくなり、仕事効率が落ち、大きな問題を解決したり、自分のポテンシャルを発揮したりするのが難しくなる。創造的な仕事は、集中力が持続した結果として生まれるものだから、集中力を低下させる習慣をもつのは回避すべきだと、そういう話のようである。

集中力を低下させない使い方ができれば、スマホの接触時間が一日20分を越えようと、まぁ問題はない、とも言えるのだろう。

人の話の粗探しに意識を奪われて、そこにエネルギーと時間を割いていくのではなくて、その人が何を意図してそれを発信しているのか、そこに力点を置いて向き合っていく基本姿勢を大事にしたいと反省した一件。

とかく、最終コーナーの具体策(ここで言う「リーダー候補の8つの目標」)だけが切り出されて目に飛び込んできやすい世の中では、発信する人の意図するところ、問題視していることは何で、その根拠は何で、だからどういう課題を提示しているのか、全容を丁寧に汲み取る姿勢を大事にしたいもの。

具体策だけ目に入ってきたとき、「私は今、一部だけを摂取していて、全容を捉えきれていない」と認識し、「全容を把握しにでかけていく」行動をとるのが大事な時代なのだ。そういうことをわきまえておかないと、危ない。あっち側に、魂を売り飛ばしてはいけないのだ。

あと、一番キャッチーな具体策は、有効性が人によりけりな気がするので、提示されるものを参考程度に受け取るのが良さそうだ。実際、この8つの目標を読んで全部やり出す人がいるとしたら、その真面目さゆえに窮屈な暮らしを営んで精神をつぶしてしまわないか心配になってしまう。とりあえずやってみる素直さは、それはそれでグッドなのかもしれないが、話半分に聞いて受け取り方を自分でコントロールしたり、具体策は自分で作り出すというスタンスもグッドだと思う。

リーダーシップに長けた人にこの話をしたら、このリストを守るより、意図を汲み取るとか、あなたが反省したことの方がリーダーに必要なことだよねと笑われた。まったくだ…と思った。

*1: 「Newsweek」(2019/6/18号)「特集:米ジョージタウン大学 世界のエリートが学ぶ至高のリーダー論」:29歳のときに「全米最高の教授」の1人に選ばれた気鋭の学者、米国ジョージタウン大学教授サム・ポトリッキオ(現在37歳)の講義を再現した記事

2019-06-11

On-Screen Typography Day 2019 参加メモ

この日曜日に開催された「On-Screen Typography Day 2019」というイベントに参加しまして、久しぶりにたいそうエモい場に居合わすことができたな、という感慨を覚えました。

こちらに関わった方(主催、登壇、協賛、参加)への感謝の気持ちをこめて感想メモをしたためTwitterで共有したのですが、感想の後半部にある、

「イントロダクション」の妙、の詳説

というところは、参加されていない方にとっても「伝え方」のアプローチ共有ということで意味をもつかもしれないということで、こちらにもリンクをはって残しておきます。現場の躍動感みたいなものはうまく表現できていないのですが、そこは想像力で一つなんとか…

2019-05-31

「Web系キャリア探訪」第11回、欲しい経験を取りに行くキャリア

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第11回が公開されました。今回は、広報やマーケティングコミュニケーションがご専門の庄かなえさんを取材。この連載では、3人目となる女性へのインタビューです。

幸福度重視の仕事選び。50代以降の選択肢を広げるための戦略的転職

1998年に社会に出て、6回の転職を経験。現在は、公益財団法人 地球環境戦略研究機関(IGES)の戦略マネージメントオフィス マーケティング・コミュニケーションズ マネージャーを務めるというキャリア。

所属や肩書きはごっつい感じなのですが、お会いしてみると、取材にうかがった葉山の街なみに調和するような朗らかさ、しなやかさや聡明さをあわせもった趣きの素敵な女性でした。

自分の中で大事にしたいものをクリアに把握されていて、それを大事にするってことを丁寧にやってこられたんだろうなぁという印象で、朗らかな語り口の中にも、芯の強さが一貫して感じられる取材でした。

自分の意思をしっかり自覚しているから、「同業種のほうが転職しやすいかな」とか「今の住まいから通える範囲で」とか「今より高い給与で」といった一般論に振り回されず、異業種転職も、東京を離れることも厭わず、給与が下がっても欲しい経験を取りに行く、自分ならではのキャリア選択をしてこられたのだろうと思います。

なかなか自分が望む役割を担えない職場・境遇にあったときも、その時期はインプットに精を出すというように、決して投げやりにならず、「今、自分ができること」を大事にしてこられたことも読み取れて、後から振り返っても含蓄あるお話だったなと思います。

取材日には、これまでのキャリア変遷を、「幸福度」と「給与」でグラフ化して図示してくださって、何をどう考えて仕事経験を積んでこられたのか、どうして次に移る決断をしたのか、丁寧にひも解きながらお話しくださいました。

20年に渡るキャリア話の中には自ずと、ネットをどうPRに活用していくかとか、組織におけるマーケティング・コミュニケーション部門の役割の変遷についても話題にあがり、代理店で働くか事業会社で働くかといった話題も。いろんな刺激が詰まっている記事かと思いますので、ご興味がわきましたら、ぜひお目通しくださいませ。

締めには、「40代の現在地から、50代のキャリアをどう展望し、今をどう生きているのか」にも言及くださって、これは同じ現在地に立つ自分ごととして結構効きました。じぶん、大雑把だなぁと…。

2019-05-15

続:腰痛とフリーアドレス制導入

ゴールデンウィーク中に弱音を書きつづっていた腰痛の件は、その後持ち直している向きはあるものの、まだまだ予断を許さない状態。歩くペースは早まったものの、足早に歩くとか、重たい荷物をもって歩くとかは、なかなか厳しい。その割りに、重たいノートPCを持ち歩いてしまうこともままあって、腰の容態は日ごとに異なる。

整体クリニックには週一ペースで通い続けていて、次で4回目。腕のいい方だなと信頼して通えているものの、毎度支払う額もばかにならないので、今週あたりでストップするなりペースダウンするなり移行したいところ。あとは自然治癒でどうにかなれば嬉しい。水泳の習慣も、早く通常に戻したいけれども、とにかく焦らず着実に…。

会社のフリーアドレス制のほうはどうかというと、ゴールデンウィーク明けから予定どおり導入されて、今はみんな手探りで体に慣らしているところ、なのか、たぶん。実際のところ皆がどんな感想をもち、どんな感じで過ごしているのか、よくわかってはいない。

ゴールデンウィーク明けから今日まで、いや、この先もしばらくそうなのだけど、いついつまでに作らなきゃ!仕上げなきゃ!出さなきゃ!な提案書やら原稿やら教材やらに追われて余裕がない。「あれをやったらこれ、これが終わったらあれをやらねば…」と一人で切羽詰まっている。

居場所も、皆がいる大部屋ではなく、(うまくすれば一時的に)集中スペースっぽくなる小部屋にこもって壁に向かっていることが多いので、会社の雰囲気に疎いのは相変わらずだ。

今日は、背中越しのミーティングスペース(が、なぜかある)から、「だいたいこの集中スペースを使う人も決まってきてるよねぇ、林さんとか…」という小声が聞こえてきたので、導入2週目にしてすでに「こもり部屋の住人」認定されつつあると言えよう。

とはいえ、GW前の自分比でいうと、会社の情報がなんとなく入ってきたり、社内の人となんとなく顔を合わす機会が増えた気はする。GW前は、毎日通っているものの本当にほとんど会社との接触がないくらいの勢いだったので、いくらかここの会社員っぽさが増した気がする。

そこそこ古株ではあるものの、長いこと隅っこでひっそり仕事しているので、社内で私のことを知っている人も限られており、さらに外向けの仕事をしていて、あまり社内と絡む用事もなければ、まま自分の仕事でいっぱいいっぱいだったりするので、仕事スタイルはあまり変わらない気もするけれども、余裕が出てきたら同僚とのさりげない会話も楽しみたい…。

戦々恐々としていた「椅子」問題は、初日出勤してみたら逃げ道があって胸をなでおろした。集中スペースにある数席は、前に使っていた椅子よりいいかも?と思えるくらい座りやすいものだったのだ。

GW中は、SNSを通じてアドバイスくださった兄さま姉さまがたの知恵をかりて、椅子にあうクッションなりサポートシートを用意しようか、ノートPC画面と目線の位置合わせをするスタンドも手配しようかと物色していたのだけど、とりあえず、こもり部屋の住人と化して事なきを得ている。

大部屋にある多くの椅子はどうにも体と相性があわないので、その意味でも私は小部屋にこもるほうに流れてしまわざるをえないのだけど、ぼちぼちこの環境に慣れて、うまく活かしていきたい。いつもにまして、だいぶ日記。

2019-05-06

「寛容になろう」が生みだす不寛容

最近は「寛容になろう」とか「多様性を受け入れよう」という発信がいたるところで見られるけれど、「寛容になろう」というスローガンが、かえって不寛容を生みだしている問題というのがあって、なかなか取り扱いが難しい。

TBSラジオリスナーにはおなじみのジェーン・スーさんが出した対談本「私がオバさんになったよ」*の中で、脳科学者で医学博士の中野信子さんと話している内容が分かりやすい。二人がどんな話をしているか、ざっくりその部分を要約しちゃうと、

「寛容になる」の最善の解は「放置」。「仲良くしましょう」じゃなくて「放っておきましょう」「他人のことには口を出さないでおきましょう」なんだけど、そこを放置できないのが、ヒトの脳にある「社会性の罠」で、仲良くしようとしちゃう。そうすると同調圧力が働いてきて、みんなの和を乱したり、和から外れた人を許さないという閉鎖性が生まれる。結果的に、「寛容」になるつもりが「不寛容」になっちゃってる。仲間意識と排外意識はセット。

というような話。中野信子さんいわく、

実際、仲間意識を高めるためのホルモンをヒトに投与すると、みんなのルールに従わない者に対する攻撃が行われる。つまり、逸脱者を排除したいという気持ちも同時に高まることがわかってます。

とのこと。うん、寛容になるって、「仲良く」じゃなくて「放っておく」のほうがフィットするよなっていうのは納得感がある。わりと自分がやっていることだよなって、読んでいて安堵感も覚えた。

一方で、じゃあこれを皆が自覚して「そうですね、放置がいいですね」って一斉にそっちに振り切ったら一件落着するかというと、話はそう単純ではない。

スーさんが問題提起する。放置ってなるとそれはそれで、干渉しないものに対して人はなかなか愛着を持てない、「自己責任」と突き放しがちになる問題が出てくる。「過干渉しない」と「社会で見守り、助ける」をセットにするのは難しいねって話が展開される。

ほんとに人の世界というのは、どっちつかずのバランスをとって舵取りしていく難しさを抱えるのが常だなと思う。その難しさが面白さや豊かさも生んでいるし、ややこしさや争いも生んでいる。

私も、寛容になる訓練は望むと望まざるとに関わらず人並みにはやってきたけれど、寛容になるって、「放置する」「干渉しない」と近しいところに「期待しない」という態度もあって、あんまり振り切りすぎないで途中で踏みとどまったところに健全な立ち方があるんだろうなぁと思うことがある。

放置する態度をズンズン突き進んでいくと、人に期待しなくなる状態に通じる実感があって、そっちの際に近づきすぎるのも不健全な気がするなと警戒心がわいてくる。

たとえば、人に声をかけたら反応を返してほしいと期待する。ごく一般的なことだと思うのだけど、反応が返ってこない、無視されることが続くと、向こうには向こうの事情があるんだろうというので、苛立たずに距離をとって平静に放置することを覚える。寛容であろうとする。連絡が返ってきたら、あら嬉しいわ、くらいの感じにしちゃうのだ。

そうすると、楽は楽である。期待を裏切られて傷つかなくて済む。でも、そこに安住しだすと、何事も誰からも一切の見返りを求めない、人に期待を寄せない、自分にも期待しない、人から称賛されたいとも思わない、人との関わりを絶っていく…と、先へ先へ進んで頑なになっていく病が見え隠れしてくるのだ。例が極端かな。でも、言わばこういうこと。

寛容になろうとして、自分勝手な期待を人に向けなくなる、それはそれで、いいだろう。でも自分勝手かどうかは常に曖昧だから、境い目がわからないだけに、どんどん寛容さを突き詰めていくと、気づいたときには、あれ、これって寛容な態度であってるんだっけ?ってところに流れ着いていたりする。

途中でバランスを欠いて、何を目指して今どこに自分がいるかわからなくなり、自分の無意識下で働き出した卑屈さとか臆病さとか無知な判断に飲まれて方位磁石がおかしくなっちゃって、だいぶ遠いところまで流されてしまって…みたいなこともあるかなぁと。

まぁ、私はわりと「健全でありたい」欲求が無意識に働くめでたい性格なので、下手に頭使って理屈をこねくり回すより、そこに舵とりを任せているほうが勝手にうまい按配でバランスをとってくれて良さそうという役割分担をしているのだけど、ときどきそこの担当が体調を崩したりすると偏屈おやじ化したりするので、気をつけたいところ。

寛容と不寛容。放置、干渉、期待、見返り。現実世界では、こういう概念・コンセプトが明確に区画整理されているわけじゃない。それどころか、対立する概念とおぼしきものが入り乱れてつながっていたり表裏一体だったりするのが世の常だ。

実際には何の境い目もないぐにゃぐにゃの世界に対して、人が自分都合で名前をつけていて、勝手に名づけて使っているうちに、あれもこれも、さもこの世に人がいるいないに関わらず、もともと存在するかのように捉えてしまっていたりする。

けれど、名前も言葉も概念も、それを分かつ境界線も、どれも人ありきだし、人によっても何を認めて、どういう境界線を引っ張って、何という名前をつけて、あれとこれを区別するかって違う。自分専用のメガネをとおして、自分が指し示したい概念・コンセプトを勝手に知覚して、勝手に自分の解釈を加えているだけだ。

メガネをはずせば、そこにあるのはやっぱりぐにゃぐにゃの境い目ない世界でしかない。自分が自家製メガネをかけて見ていることを忘れずに、自分がどんなメガネをかけて、今何を目指して、どこにいるのか慎重にモニタリングし続けないと、わけがわからなくなってしまう。気づいたときには目指すところと対極に自分が立っているなんてことが簡単に起こってしまう。

抽象と具象世界を行ったり来たり、メガネをとったりはずしたり、人のを借りて見たりしながら、力まず中庸であることを大事にしていきたい。という覚え書き。

*ジェーン・スー他「私がオバさんになったよ」 (幻冬舎)

2019-05-02

「メールが美しい」という褒め言葉

新卒社員研修を提供したお客さんから、振り返りの会の後にお食事をご一緒しませんか?とお誘いいただき、先月末、先方の役員の方、人事の方、私の3人で夕食をともにした。

気さくな飲み会のような感じで、多くは人事の女性の前職の武勇伝をあれこれ聴かせてもらっておしゃべりを堪能する会だったのだけど(めちゃめちゃ面白かった)、今回の仕事のやり取りについても、いくらか話題に挙がった。

その中で、お二人から、私の書くメールがどれも美しいという謎の褒め言葉を頂戴した。メールの文面を美しいと形容されたのはたぶん初めてで、すごい嬉しかったのと同時に、どういう意味なんだろう?と、最初よく意味を汲み取れなかった。

「メールが美しいとは?」と疑問符を打ちながら、続く話を聴いていると、「特に、あのときの…」と例に挙げてくださったのが、研修の助成金について相談されたときに私が返答したメールだった。

助成金について書かれた美しいメール…。謎は深まるばかりだ。これに顕著に出ていたというのであれば、"てにをは"のことを言っているわけではなさそう。あのメールで顕著なのは…と考えてみた。

あれに顕著な特長を挙げるとすれば、自分が調べられるかぎりのことを調べて、表現できるかぎり分かりやすい表現を選んで、その会社の、その研修でどう助成金が使えそうかを、できるだけ個別具体的に絞りこんで、メールにしたためたというところだ。

この会社が今回の研修で国の助成金を使おうとした場合、どの助成金をどの範囲で使えて、どこに対象外となる落とし穴がありうるか、後から「使えなかった」「想定より低い額しかおりなかった」ということがないように、どの部分をどこに直接確認したほうが安全かとか、そういうのをできるだけ具体的に、できるだけ簡潔に、できるだけ平易な言い回しで、対面で直接説明するような流れに構成だてて、仕上げたメールである。

そのお客さんは、新卒社員研修を体系立ててやるのが今回初めてで、助成金の手続きについても手探りなことがうかがえたので、私も勉強がてら厚生労働省のサイトを調べたり、ややこしそうな所を東京労働局に電話して確認したりして整理した結果をメールにしたためた。

それが向こうに届いたとき、「美しい」という印象をもって受け取られるということが起こった。そんな化学反応があるのか…と、不思議な感じがした。

助成金のメールに顕著だったけれど、あれにかぎらず普段のメールのやり取りがどれも美しかったと、お二人に言ってもらえて、気持ちがホクホクした。決して格好よかったり華美な言葉や流麗な表現を採用しているわけではない(当たり前だけど…)、この地味な言葉の連なりに、そんな印象をもってもらえるなんて、ありがたいことだ。

メールは、考えてみると、大事に書くようにはしている。メールって、つまり、お便りである。大事なコミュニケーションが中に収められるもので、何かをわかりやすく伝達したり、教えたり、 教わったり、意識合わせしたり。

だから、これまで一切「メールを処理する」という表現を使ったことはないし、「メール対応だけで1日が終わった」とかで不毛感を覚えたこともない。そこにどれだけの意味を生み出せるかは、書き手にかかっているし、時と場合によっては、何をどう伝えるかという下準備やら推敲やらに、大変な時間がかかったりするものだろうと思っている。

私のアウトプットは、提案書とか設計書とか、メール文面とか、打ち合わせや電話での会話とか、案件途中にあって、次につないでは消えていくものが大半で、最終成果物としては世に出ないことがほとんどだけど、ときどき、こんなふうに言葉をかけてもらえることがあって、なんだか幸せなことだなぁと思う。

でも、もう一歩さがって考えてみれば、こんな地味な働きから、そんな印象を受け取って言葉をかけてくださる方の心の目とかアウトプットのほうが、ずっとずっと美しいよなぁと敬服。気分よくなって、言葉をもらうだけもらってルンルン帰ってきてしまって、まだまだである。

2019-05-01

サポートの原型にふれつつ令和時代へ

平成最後の日は、キャリアカウンセリングを引き受けていた。カウンセリングというか、キャリアカウンセラーとして、MBTIという性格検査のフィードバック・セッションを行っていた。

とある喫茶店の個室を借りて、お昼どきから夕方までの4時間、1対1で話しこんだ。前半はMBTIがどんなふうに性格をとらえるかといった解説が中心、後半はワークを取り入れながらその人の自己洞察をサポートする。

複雑な概念をわかりやすく解説するという難題がまず立ちはだかるのだけど、そこが決してゴールではなく、あくまで、その後その人にとっての発見なり整理なり、自己洞察の深まりがなくては意味がない。

なので、だいぶ知力、体力、精神力を使うのだけど、こうした時間をもつことは自分にとっても、とても豊かに感じられる。ご本人もいろいろ有益なところがあったようで、快い疲労感を覚えつつ、安堵して帰途についた。

自分が解説なりなんなりを提示した後、相手がそれを聞いて考えたこととか、思い出したこととか、これはどういうふうに解釈したらいいんだろうとか、思うところを自由に話してくれて、その受け取り方を一緒にひも解いていくやりとり、そうした時間が、すごく好きだ。

深淵な海に、ゆっくり安全確認しながら一緒に潜っていく感じ。そこに同行して、本人が自分の心の風景を見渡したり仔細に検証したりするさまを、そばでサポートする感じ。

あくまで、本人が見つける、探っていく、その力を信じて、邪魔しないように、勝手な決めつけで誘導しないように、分をわきまえながら丁寧にそばで関わり続ける、なんだかサポートの原型のように感じられる。

平成最後の日とは意図せず、こういう一日になったのだけど、なかなか良い時代の超え方だったなぁと振り返る。

その後、友人とごはんを食べ、おうちに帰ってから少し体(とくに腰)を休めていたら(つまり寝ていた…)、気づいたときには0時をまわっていて、時代が令和に移っていた。

NHKのニュースサイトで、天皇陛下の最後のおことばを拝聴して、街の声なども動画で観た。若者が渋谷や新宿に繰り出し、大きな声でカウントダウンしている。いい時代にしたいですと20代の女性が笑顔で取材に応じている。

そうした映像をみて、あぁこういう国民の笑顔をもって一つの時代の幕を下ろし、新たな時代を迎えられているのは、明仁天皇の大きな、大きなご決断(というか訴えというか)あってのことだなぁと、目頭が熱くなってしまった。最後の最後まで、国民の平和に尽くされた天皇だったなぁと、感謝の念をもって令和を迎えた。平和で、寛容で、多様性豊かな時代となりますように。

2019-04-30

腰痛とフリーアドレス制導入

腰が痛くて、たまらない。数週間前から痛みが出てきて、1週間くらい前から、だいぶひどくなった。よぼよぼとしか歩けない。先日、人生で初めて「よっこいしょういち」と言ってしまった。しかも朝起きあがるとき、一人でいるときにだ。これは相当まずい。

原因は…といって明確に1つ挙げられるものがあるわけじゃないが、そもそもの日頃の姿勢とか歩き方とかストレッチ不足とか体の硬さとかが土台となって、4月上旬に仕事で5日連続キャリーバッグを引きずって都内を行き来していたところ痛みが出てきた。

そこに、5月のゴールデンウィーク(GW)明けから会社がフリーアドレス制になるため、それ関連の対応が積み重なってのイタタタかなと思う。

会社の固定席に置いてある本を整理しなきゃいけないとなると、私物を家に送るかということになり、となると家の本棚をまず片づけなきゃいけないってことになり、家の本棚の整理&数十冊の本の処分を、4月半ばの週末に執り行った。結局、収納スペースを確保できたので会社に置いたままで良くなったのだけど…。

それから、固定席を手放すにあたって、貸与されているパソコンがデスクトップからノートPCに変わり、これもデスクワーク中の姿勢や視線が明らかに下向きになったので影響あるような気がしないでもない。

さらに、GWに入る直前は、これまで固定席に置いていた荷物の処分やら荷づくりの作業があれこれ。

GW明けからは、椅子も変わることになる。これが、私の首と腰と相性が悪く、数十分座っているだけでも体がバキバキになることがわかっている。この椅子は、もう何年も前に会社が一斉導入した椅子なのだけど、私は当時座ってみて数十分で根をあげ、古い椅子のままにさせてもらっていたのだ。

これを今回のフリーアドレス制導入で手放し、5月からは共用の椅子に座ることになる(ことに先週気がついた)。ダンボールか何か積み上げて勝手にスタンディングデスクで仕事することにするか、持ち歩けるクッション的なものでどうにかなるものか、来月に入ったら真剣に考えねばならない課題である。

ともかく、今の腰の状態は改善させてGW明けをむかえたい。というか1日も早く、この状態から脱してGWを過ごしたい。

というわけで、休みに入る前の先週半ば、前に首が痛くなったときに診てもらった整形外科に足を運んだ。

医師の診断は、「椎間板ヘルニアなどの損傷系の問題はない。腕のいいセラピストにかかれば一回の施術で治るかもしれないし、腕の悪いのだと数ヶ月かかるかもしれない」といった微妙なもの。

そこは1Fが診断する医師がいるフロア、2Fがリハビリをする理学療法士がいるフロアで体育館のような設えになっている。患者は1Fの診断の後、2Fに引き渡される。

私は食い下がる。「え、じゃあ、どなたにお願いすれば?」、すると先生「一番うまいのは誰々って副院長。だけど、彼は1ヶ月待ちとかだからね。若い奴の中でうまいのは誰々。こいつは、まぁでもうまいから、今からだとー、4人待ちだね(たぶん2時間以上待つ)。そんなに待てないってことだったら、今日のところは予約なしでとれる人にやってもらって、今日の終わりに受付で、次回の指名予約をとって帰ることもできるから」と。

この日は、会社で所属部署メンバーが集まっての期初ミーティングがあったので、2時間待ちして施術して帰るほどのんびりしているわけにもいかず、結局予約なしで割り振られた人にリハビリをお願いすることに。

これが、首のときにも面倒をみてもらった若手の女性で、お互い顔を覚えていた。私はそのとき、1〜2回で通うのをやめてしまったので、ちょいとばつが悪い。しかし、やっぱり今回も即効性は何もなく、腰にチャンピオンベルトみたいなのを巻いて、とぼとぼ帰途についた。

こうなると、もうここ自体通うのが難しくなる。1Fの医師に紹介してもらった若手の誰々さんに次回から乗り換えるのは、なかなかきつい。乗り換えた私と、乗り換えられた彼女は、そう広くない2Fフロアできっと顔を合わせることになるわけで、そんなの双方めちゃめちゃ居心地悪いではないか。彼女が休みの日を選んで…といっても、ここはGW中休みだから、次は5月7日だしなぁ。

そんな状態で、腰をいたわりながら会社内の引越し作業みたいなあれこれをやって、GWに突入。通勤しているときに比べれば体は安静にできているものの、これでは悪化はせずとも回復もしない感じ。ここはひとつ、面倒くさがらずに攻めの姿勢で打って出ねばなるまい!

ということで、ネットで検索。都内の整体とかカイロプラクティック系の情報を集め、Googleのレビューなど読んで、怪しくなさそう、痛くなさそう、効果がありそう、さほど移動距離がない、目が飛び出るほど高額じゃない、GW中もやっていそう、っていうかすぐ対応してくれそうなところをいくつかピックアップ。優先順位をつけて、朝一番、連絡を入れてみることに。

即日OKでありますように!と願いながら、受付時刻9時ちょうどに電話を入れると、午後いちでOKという。そんなわけで恐る恐る、代々木のとあるマンションの一室にあるという整体クリニックへ足を運んだ。

最上階までエレベーターで上がり、扉を開けてみると、明るく清潔感があって落ち着いた雰囲気。ほっと胸をなでおろし、問診&施術をしてもらう。

ご指摘がいちいちごもっともで、全身鏡の前に立ち、おろした状態の右手と左手の長さ、全然違うでしょう?と言われて見てみると、ほ、ほんまやー!という驚き。肩が張っているとか、足首が硬いとか、呼吸が浅いとか、あちらもこちらも全身に異常を指摘される始末。

とりあえず、初日は全体のバランスを整えて骨盤を調整するとかで、10分かそこらの施術をしてもらう。肩とかおなかとか、それぞれ数秒程度ポイントを押したりさすったりするだけなのに、確かに施術前と比べると、少し状態が回復している気がする。

一回ですっかり良くなったという魔法はなかったけれども、根本的なところから改善を図ってくれているような気もする。ということで、しばらく通ってみようと思う。次の回で、ぐーんと回復するといいんだけどなぁ。

健康で身軽な状態を保ち、必要なときに、さささっと人知れず動けることが、私の役回りにはとても大事なことだと思っていて、そこが損なわれている状態というのは、非常にまずい。どうにかして早々に、ここを脱却したい。早期回復を祈りつつ、平成から令和へ。

2019-04-28

私のことを「まりりーん」と呼ぶ彼の訃報

4月25日、会社で仕事している昼どきに、元上司から連絡が入った。Facebook Messengerに、今から電話していいか?と。メッセンジャーで言うには躊躇することなのだな…と不穏な空気をよみとり、胸をきゅっとひきしめて電話を受けた。元同僚の訃報だった。私の1学年下で同い年、まだ43歳だ。

その日の午前中に亡くなったと言う。くも膜下出血で3日前に倒れて、そこからおそらく危篤状態が続いて、そのまま亡くなってしまったようなのだと。元上司もそうだったが、私もあまりにびっくりして、言葉がなかった。

彼がうちの会社にいたのは、10年前とか、もうそれくらい昔のことだけれど、同じ部署ではなかったものの、なんだか懐いてくれて、職場でよく声をかけてくれた。彼が転職した後も、数年に一度くらいのペースながら、一緒にご飯を食べる機会をもっていた。

会うといつも、わんころのように人懐こい顔をして、しっぽを振るように手を振って、「まりりーん」と近づいてくるのだった。私のことを「まりりーん」と呼ぶのは彼くらいのもので、私は彼にとってどういうキャラ設定だったんだ?と今さらながら思うけれども、私はその呼びかけにいつも快く応じて、会えばとにかくてんこ盛りのおしゃべりをしてくれる彼の話に耳を傾けた。

数年に一度の"直近"は、つい数ヶ月前のことだ。ちょうど彼が勤める会社から仕事の相談をもらって鎌倉まで行くことになったので、事前に連絡を入れたら、都合がつくので、その打ち合わせの後に一緒にランチをしようと誘ってくれたのだ。

それで昨年末、暮れも押し詰まる12月26日に、鎌倉で一緒にランチをした。今からちょうど4ヶ月前になる。

何を食べたいか訊かれて、たぶん私がお蕎麦とか?と応えたんだろう、彼が少し駅からは離れるけど、いいお店があるというので、観光客の喧騒から遠ざかるようにしばらく歩いたところにある蕎麦屋に連れて行ってくれた。

それは自然と鎌倉散歩になった。天気が良くて、ちょっとした移動なのに、その光景がキラキラした印象として今、思い出される。

彼は向かう道中も、お蕎麦屋さんに着いてからも、やっぱりたくさんたくさん話した。今やっている仕事のこと、鎌倉暮らしの魅力など、あれこれあれこれ、終始はずんだ声で話を聞かせてくれた。

帰り道、私が駅に向かい、彼が会社に向かう分かれ道で、じゃあここで、と私たちは手を振って別れた。まさか、それが最期になるなんて、思いもよらなかった。

「まりりーん」と、また人懐こい顔をして手を振って近づいてきて、たくさんたくさん話を聞かせてくれる日が来ると思っていた。無意識にそう思っていたから、意識的に「思っていた」とは言えないくらい、そう信じていた。

この世界にもういないなんて、二度と会えないなんて、なかなか信じられるものじゃない。3日ほど自問を続けるも、今も了解できていない。

それをきちんと受け止めるために、残された者は儀式を行うのか。お通夜に行くことで、私はいくらかでも、彼の死を受け止めることに近づけるのではないかと思うのだけど、こんなときにかぎって腰痛がかなりひどい。遠出できるかは直前の判断になりそうだ。

儀式を目の当たりにしないと、私は彼の死を曖昧なものにしてしまうのではないか。信じたくないもの、信じられないものを曖昧な記憶にして、受け止めたような受け止めていないような状態で時間を送ってやり過ごしてしまうのではないかと、それを恐れている。それをするのは違う気がすると、働きかける自分がいる。

あなたが確かに生きたこと、私の人生にも登場してくれて、そう長い時間ではなかったにせよ一緒に過ごす尊い時間をもてたことを曖昧にしないために、私はあなたの死を今きちんと受け止めるよう促されている。あなたが確かに生きたから、私は今あなたの死を悲しんでいる。その悲しみを遠のけたら、あなたが生きたことに対する感謝や、出会えた喜びも一緒に遠のけてしまう気がして、それは違うよなって気がしている。それなら感謝と喜びと一緒に、この悲しい気持ちもまるっと全部ひきうけて、この先もずっと大切に私の中に抱えていくほうが、自分の答えだというふうに感じる。だから、ここに書いている。やっぱりまだ全然信じていない気持ちのまま。

当たり前が、どんどん当たり前じゃなくなっていく。当たり前が、どんどん尊くなっていくなぁ。

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