2019-03-23

柿ピーのウラ面を読む

昨日はお客さんとこの会議室で、「柿ピー」メーカーによせる私の切ない思いを熱っぽくしゃべってしまった。

セブンイレブンの店頭に並ぶ、セブンプレミアムの「柿ピー」のパッケージを裏返してみると、なんと通常パッケージはでん六6袋入りは亀田製菓が作っているという衝撃の事実に出くわす。

作り手は違うのに、オモテ面はセブンプレミアムの統一パッケージで、製品名も「こだわりの柿ピー」とまったく同じネーミング。オモテ面だけ見ていると、もう「6袋か1袋の内容量の違いしかありませんよ」というたたずまいである。しかして、その実態は!いや、むしろ実体は!

いや、そりゃセブンさん側からみたら、同じブランドで出してるんだから見た目統一するでしょって道理はわかりますよ、でもウラ面にまわってみると、それはそれでこっちにはこっちの道理というものがありまして…という切なさがこみ上げてくるのだった。

パッケージのウラ面にはウラ面のドラマがある。私は時々こうしてパッケージのウラ面を見ては勝手なドラマを脳内再生して、ぐぬぬっとうなっている。商品の問い合わせ先が、セブンではなく各メーカーのお客様相談室になっているところも胸を熱くするものがある。なんだよー、ウラ面では圧倒的にメーカーが"顔"じゃないかーと。

この6袋入りのウラ面の「メーカー名」を見たときには、「あぁ、亀田さん、ついに」と大変な衝撃を覚えたのだった。というのも、この6袋入りが出たのは(つまり亀田製菓がセブンプレミアムに参戦したのは)、おそらくここ半年の間のこと。それまで、この「こだわりの柿ピー」は「豆はでん六♪」のでん六さんが1袋パッケージ(132g、86g)として一手に引き受けていた(と思う)。ということは、でん六さんはでん六さんで、これじゃあ話が違うじゃないかよーみたいなことになっていないかしらと、これまた勝手な胸騒ぎを覚えたりして。

セブンプレミアムの柿ピー事情については、以前にもここに書いた私の関心事。この間、この亀田製菓の6袋入りを見つけて気がかりが再燃し、「柿ピー セブン 亀田」でGoogle検索したら、検索結果の1ページ目に自分のブログが出てきてびっくりした。そんなニッチなワードで検索する人が、私以外にどれほどいるのか謎だが…。

そういえば、もっと前にユニ・チャームのマスクのセブンプレミアム事情についても書いたのだけど、マスクはこのところセブンプレミアムで出さなくなったんだよな。マスク需要は伸びていると思うのだけど、セブンイレブンは自分のところの「立体型」(メーカーはユニ・チャーム)をやめて、ユニ・チャーム純正の「超立体」と他メーカーを並べて出すようになった。どんなやりとりを経たんだろう。亀田製菓さんやでん六さんは、ユニ・チャームさんを飲みに誘ってみては…などと思ったりする。

まぁ相変わらずセブンイレブンには大変お世話になっており、また亀田製菓の柿ピーとでん六の柿ピー、食べ比べても違いがわからない程度に味音痴のため(どっちもおいしい)、セブンさんに「そういうお客さんのための商品ですよ!」と笑顔で言われたら、ぐうの音も出ず「いつもお世話になっております」と笑顔で返してしまうに違いないのだけど。ますますのご発展を祈念しております。

ちなみに客先でこの話に及んだのは、フェアトレードについて話題にあがって「林さん、こういうの好みでしょう」と振られたので、それに思いきりダイブして支持表明の引き合いに出したまでであって、何の脈絡もなく柿ピー話を始めたわけではない、という弁解を最後に添えておきます。少し興奮して話してはしまったけれども。

2019-03-15

キャリア支援をテーマに自分ができること

最近、企業さんから「社員の自律的なキャリア開発」に関するご相談をいただいたのを契機に、キャリア支援をテーマに自分ができることを、サービスや講座の形に落とし込んで整理してみた。

畑を耕すように、DropboxPaperに足を運んでは文章をしたためていって、今の状態。一覧ページから、それぞれの詳細を案内するページにとべるようになっている。

[一覧]クリエイティブ職向けキャリア支援

こういうのを一般人がテキスト打つだけで発信できてしまう時代って、なんてありがたいのか。(それが魅力的にきちんと伝わるかは、また別の問題があるけれども…)

「パッケージではなく、オーダーメイド」を基本に活動しているので、最終的に落とし込む形は相手に応じて手作りしていくのに変わりないけれど、それだけじゃどんなことを頼めそうなのかが一向に伝わらないよなと思い、仮で「形」を与えてみた感じ。

キャリアってテーマは、すごく個別的なものだし、答えのないものだし、誰かが(まして私が)大上段に構えて説くような話でもない。「研修」や「講座」として扱うことにそもそも違和感をもつ方もあると思う。

でも、ちょっとステレオタイプな「研修」「講座」イメージを捨てて、「一人だけで考えて結論しないキャリアデザインの意義」みたいなところにフォーカスをあててみると、こうした支援の形にも一定の価値を見いだせるかなと。

「考察:自己理解を能率化するアプローチと支援」を書いているときに改めて思って言葉にしてみたのは、こんなこと。

自分が大事にしたいことや自分に合うことは自分にとって当たり前のことであり、また抽象的な概念のため言葉にしづらい(=意識化しづらい)。自己理解は、いきなり自分の内面に問いただすより、一旦外側から検討材料を調達して取りかかったほうが能率化する面がある。

キャリア開発の考え方や支援ツールなど、あれこれ触れていると、例えば「どんなライフスタイルが好みか?」みたいな問いに30項目以上の「〜な生活」という選択肢を列挙しているツールとかあって、そういうリストに「これはいい」「これは自分の価値観から遠い」なんてざくざく反応を返していくと、ピックアップした「〜な生活」から、自分てこういうライフスタイルを好む人間なんだなって浮き彫りにできたりする。なんだかなって気もするだろうが、並んでいるからこそ優先順位も自ずと浮かんでくるというもの。

与えられた選択肢を一つ選んだら、それを自分の答えにしなきゃいけないって縛りも、どこにもない。あくまで自分を理解するための道具にすぎないのだから、「これと近いんだけど、自分の感覚はこれとちょっとニュアンスが違って、こんな感じなんだよなぁ」というところから、もっと直接に自分をつかみにいったらいい。近しい選択肢から、解釈を広げたりずらしたりして、自分のことを掘り下げていくことができれば能率的。たとえ「1つ選べ」という問いかけだったとしても、2つ3つ選んで、そこからオリジナルの1つが頭の中に浮かび上がれば結果オーライだ。

自分がこれを選んだ理由、あれを選ばなかった理由はなんだろうというふうに、選択理由の説明を試みることで、思考の旅はいくらでも膨らましようがあり、そこから自分の理解が深めることもできる。

ライフスタイルからもう一歩具体的に「仕事をする上で大切にしたいこと」リストなんかも、いくつかメソッドやツールを見比べてみると、仕事観って一括りにいってもいくつか切り口があるんだなぁみたいなことが見えてきたりする。

私がみてとったのは、次のような3つの切り口だ。
●「〜な仕事をしたい」「〜の役割に従事したい」(仕事内容、役割)
●「〜な働き方をしたい」「〜な会社・環境で働きたい」(働く環境・スタイル)
●「仕事を通じて〜を得たい」「〜のために働きたい」(働く目的・獲得したいもの)

でも、ここの「〜」に自分がびびっとくるものを思いつくのが、一人でやっているとけっこう難しい。ちょっとニュアンスが違かろうと、一旦は外から選択肢を提示してもらって、それをきっかけに自分の言葉を探していくほうが、アプローチとしては能率的かなって感じがする。

一人で部屋にこもってウーンって考え出しても、なかなか言葉が出てこない上、思いつくものに網羅性もないから、いつまでも考え終える蹴りをつけられなくてズルズルしたりする。ある程度、隅から隅まで行き渡ったリストがあると、とりあえず一定の網羅性をもって検討できる。

まぁ別に必要ない人・時期には全然必要ないのだけど、何かを取捨選択・意志決定しなきゃいけない局面では、自分のことを深く理解しているっていうのが、ものすごく判断を速く、楽にするし、間違いがない、あるいは後悔がない。

変化の激しい時代・業界では、数年・数十年先の世の中を占うより、自分のことをよく理解しておいて、世の中が変化するとき、だったら自分はこう動くという判断がすぐ出るようにしておくほうが賢明かもって見方もあると思う。

ともあれ、外部から与えられる言葉は、自分の脳を働かせる「刺激」として受け止めて、刺激を受けた自分がどんな「反応」を返すかを観察して、観察したプロセスや結果を丁寧に解釈すれば、そこにこそ大事な情報が生起する。そういうふうに、あくまで一時的&一次的な道具としてつきあうことを大事にできれば、こうした支援ツールも有意義じゃないかと思う。

私もそういうスタンスで、能率化する支援ツールの一つとして役割を果たせたらなと思う。キャリアカウンセラーというのも、こうした言語表現のあれこれを、一般の人よりは多く使っている(かもしれない…)ので、対話の中で解釈を広げたりずらしたり、フォーカスを絞りこんだり考えを精緻化する際の話し相手に使えるかも。

また、自己理解を支援するツール選び一つとっても、いろいろ見比べていると、フォーカスのあて方が異なるから、適切な道具選びもサポートの一つだ。先の図「自己理解を能率化するアプローチ」では、下のように切り口を分けてみた。
●性格
●希望のライフスタイル
●仕事の価値観
●適職
●環境/条件

その人が自分の何を知りたいのかを見定めて、話を聴いたり、整理したり、深掘りしたり、一緒に探索したり、必要なら適切なアセスメントツールを紹介したり、その解釈をサポートしたり。そういうことをやっていけたらなと思う。

DropboxPaperにまとめたのは、半分は自分の考えの整理用に起こせて良かった感じ。もう半分は、自分でお客さんに案内するときの手元資料として使えたらというイメージだけど、どこからでも見られる状態になっているので、この会社で興味あるかも?といったお相手にいつかどこかで巡りあったら、ぜひこちら思い出してやってくださいませ。

2019-03-13

研修の時間配分「90/20/8」の法則

研修プログラムの時間割を考えるとき、「90/20/8」の法則というのが使えそうだ。「研修デザインハンドブック」というノウハウ本で紹介されているものなんだけど、なかなか実践的で面白い。研修に限らず、いろんな時間配分にも応用できそう。

一般に、研修の時間割が「教える側の都合」で組まれがちなところを突いている。

もちろん、参加者側の都合をまったく考えていない研修も、そうそうない。受講対象者が業務時間内に一堂に会せるのは水曜日の午前2時間だけとか、ひと月前から予告したとしても丸一日確保するのがせいぜいとか、時短勤務の人も参加できるように16時までに終えたいとか、実施時期や時間数を「参加者都合」で条件づけることは少なくないだろう。

ただ、「参加者の体があくかどうか」という最低限の条件ではなく、「参加者が集中して確かなインプットをして、研修で得たものを持ち帰って実務に活かせるかどうか」という実施効果に即した面で見直してみると、学習者中心設計には、まだ工夫の余地があるかもしれない。

例えば「10:00-16:00の、昼休憩を除いておおよそ5時間枠」で研修をやるとなったとき、教え手はどのように時間配分を考えるだろう。

この研修でまず教えなきゃいけない概念知識は、説明に2時間はかかる。そうすると10時に始めて12時までは講義をやるでしょ。昼休憩を1時間入れて、午後はグループワークで課題に取り組んでもらおう。そこで、午前中の講義の理解を深めてもらう。このワークショップを、発表やフィードバックも含めて、午後の3時間でやるイメージ。

そんなふうに、大まかな構成と時間配分を考えてブレイクダウンしていく人が多いのではないか。ここに潜む「教え手都合」を指摘し、「人間の脳がどう学習に対応するかの原理原則に基づいて時間配分を決定してい」くよう、先の本は提案している。

その原理原則を、まずは列挙しちゃうと、次の3つ。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める

そこから導き出したのが「90/20/8」の法則である。上の原理原則を踏まえて、ではどうすればいいかを考えていくと、研修時間をこんな感じで組み立てたらどうかという提案が導き出される。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
→90分ごとに10〜15分間の休憩を入れよう

●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
→20分おきにペースを変えたり、明らかに異なった形式にしよう。例えば、この20分の間に話した重要な点を繰り返して確認し、長期記憶への移行を促すなど

●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める
→情報提供(いわゆる講義)は、8分を一区切りとして話を組み立てよう。8分ごとに参加者が主体的に考えたり話したりする時間を設けるなど

厳密にやろうとして、講師のほうがガチガチに縛られた状態になっても良くないので、あくまで目安として、視点として取り入れればいい話だとは思う。

ただ、話し手は頭フル回転でしゃべっていたりするので、気がつくとあっという間に一人語りが10分、20分、30分続いてしまうことってある。そうなったとしても、自分はフル回転ってことだと、聞き手に退屈を与えている感覚をもちづらい。

が、話し手と聞き手では、まったく脳の状態が違う。聞き手に、自分(話し手)と同じ熱量&集中力をもって話を聞き続けなさいというのは、時間が長くなればなるほど酷な話。それはやる気の問題とか、努力すればとか、興味をもって聴けばとかいうことではなくて、人の脳の作り的に無理があるんだなって話にして、研修の構造を見直したほうが能率が良いのでは、という話である。

では、10分を超える一人語りは、聞き手の主体性をしぼませていく働きももつという認識をもって、研修時間の組み立てを再考してみたい。

とりあえず、10分話したくらいで、「参加者へのちょっとした問いかけを挟む」とか、「これまでのおさらいを挟んで一呼吸つく」という一工夫でも、取り入れるといいと思う。

全体の構造を見直すとすれば、ひとまとまりを90分枠として、オープニングに5分、クロージングに5分とり、残り80分。これをざっくり4等分して、各20分の構成を、

【導入ワーク】学習テーマに関連する、参加者のこれまでの経験や既有知識を振り返ってもらって共有するワークで足場づくり(20分)
【講義】過去の経験や既有知識に関連づけながら、新しい概念知識のインプット(20分)
【実践ワーク】新しい概念知識を活用して、実践的な課題に取り組んでもらう(20分)
【発表】演習の発表、質疑応答、講評(20分)

としてみるとか。もちろん、学習テーマやその複雑性、学習者のレベルやタイプによっても、何を何時間かけてどんなふうに学習してもらうと効果的かはまったく変わってくるので、上のようにきれいに20分でまとまったりはしないだろう。上のはあくまで一例に過ぎない。

でも例えば、これまでは「講義2時間でまるっとインプット、ワーク3時間でまるっとアウトプット」みたいに大雑把に区切っていたものを、もう少しテーマを小分けにしたり、基礎と応用でレベル分けして段階的に学べるようにするなどして、それを90分ごとに割り当てていくようにするとか、上のような原理原則を知ると、いろいろ構成・時間の組み方にも広がりやアイディアが出てくる。

「とにかく最初は講義。知らなきゃ始まらないことを講義して話しきって、もの考えさせるのはそれからだ」とかにこだわらないで、90/20/8の法則の揺さぶりを受けながら、話す順番とか、話すことの区切り方とか、講義と演習の組み合わせ方とか、レベルの段階分けとか、それぞれの時間配分とか、いろいろゆさゆさと再考してみると良さそう、という共有でした。

ご紹介の本は、中村 文子&ボブ・パイク共著「研修デザインハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)。実践的なノウハウ本ゆえに、「言い切っちゃってるけど、常にこれが最適解というわけじゃないだろう」と思う記述もあるけれど、それゆえ具体的に「こういうやり方もあるんだな」と自分のやり方を見直すネタを拾えて、そういう使い方にとても有用な一冊。

2019-03-11

43歳という立ち位置

この週末に誕生日をむかえて、一つ歳をとった。同世代の友人から「お互い50歳に向けてますますアップデートしていきましょう!」という威勢のいいメッセージをもらい、「ご、ごじゅう…」と一瞬ひるんでしまった。

歳を重ねることに抵抗はないのだけど、自分が50を迎える日が来ることを現実的に想像しようとしても、まだ難しいことに気づく。私の周囲には魅力的な先輩方があちらこちらにいて、あの器には程遠いな…と思う。

まぁ、そういう先輩方とはずっと距離を縮められないまま歳を重ねていくのだろうけれど、そんな人たちと一緒に同じ時代を生きられて、ちょっと前を歩きながら人生を謳歌する様を見せ続けてもらえるのは、たいそう心強い。

とりあえず50まであと何年あるかと慎重に数えてみると、丸7年あった。この7年のうちに、ぐいっと大人になれれば50も怖くない。あと7年あれば、どうにかなるかな…。そう考えると、一年一年、しっかり成長していかないと間に合わないなって気にもなる。

若者からみれば「おばちゃん」でもあり、諸先輩方からみれば「一介のペーペー」でもある40代前半というのは、自分の位置取りにバランス感覚を求められるものだなと思う。いつまでも若い気でふるまわれても若者にはうっとうしいだろうし、おばちゃんおばちゃん言うばかりでも、なんだ40の若造が玄人ぶって生意気に!って感じがある。

私個人的には、どうしても意識が「おばちゃん」より「一介のぺーぺー」感覚に寄りがちだ。放っておくと若者より先輩世代にすり寄っていく傾向があるため、ずっと下っ端の感覚が抜けないし、チームマネジメントを避けてずっとプレイヤーでやってきているので、人材育成には裏方で関わり続けている割りに、自分が直接的に若い人たちに何か教えるとか育てるといった立ち位置は、さほど馴染みがない。「自分に有能感を覚えたら最後、そこが自分の能力の終着点だ」という危機感も体に馴染んでいるため、自分の仕事人生で「一介のぺーぺー」感覚はおそらく一生抜けないだろう。

だけど1割2割、そろそろ若い世代との交流機会ももちつつ、その対話から、自分に何ができるのかを問うて活動していく時間も有意義なんだろうなと、最近若い女子たちとゆっくりしゃべる機会があって、思ったりした。

自分がどういう役に立てるのか、どういう働きができそうかって、文脈や環境に依存するから、その現場の文脈・環境に身をおいてみて、そこで出会う人たちと話してみないことにはわからない。話してみれば、何かできることも発見できたりする。

一人で閉じていると、あるいは固定的で偏った環境下にずっといると、それが見えてこない。自分が知っていることは皆も知っていると思うし、自分ができることは皆もできると思うから、自分は何の役にも立たないようにしか思えないし、人の話を聴いたり読んだりすると、自分の知らないことできないことを、いろんな人が知っていたりできることに圧倒されて、ますます本当に自分は何の役にも立たないなという気がしてくる。

だけど、どこかの場に出ていって、そこに身をおいて、そこにいる人としゃべってみたり、そこで起こっていることを観察してみたり、人や物の動き、事の流れを肌身で感じて追っていると、いろいろ自分ができること、言ってみたら力になれそうなこと、やってみたら役に立ちそうなことを発見できたりする。

それはとてもささいなことで、ちょっと場を和ますだけのことかもしれないし、ちょっと話を前に進めるくらいのことかもしれない。それでも何の役にも立たないだろうというゼロ地点にいるのとは雲泥の差、心が晴れ渡っていく。

そういうのを見つけてはコツコツやっていくことで、きっといいんだよなと思う。自分に過大な期待をかけず等身大で、できること、できそうなこと、ちょっと頑張ったらできそうなことに手を出していけば。

それがきっと積み重なって、ひとまとまりの経験になったり、再現性ある能力になったり、他の場所でも応用がきくノウハウになったりしていくのだ。

最近、むかし自分が書いた自分のキャリア分析の資料を読み返す機会があって、あぁそうだよな、私はいろんな魅力的な人と出会っていくこと、お話しすること、関わって作り手をサポートしていくことを、すごく大事だなって、これが自分のキャリアの幹だって、若くしてわかったんだった。そのときは意識していたけれど、最近はそういう自分の考えに同化しすぎていたのか、そのことを「意識して大事にする」ってことができていなかったかもしれないなって思った。

大事なものをシンプルに、大切にやっていく43歳にしようと思います。ここまで読んでくださった有り難い方、この一年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。

2019-03-05

「6つのホランド・タイプ」からの自己理解ミニワーク

キャリアの著名な理論家の一人にジョン・L・ホランド(Holland,J.L.)という人がいて、「6つのホランド・タイプ」を提唱した人として知られる。

ホランドは人の基本的性格を6つのタイプで表した。職業や職場、大学の専攻科目といった環境も、同じ6つのタイプで説明できるとして、これがマッチすると、個人はその環境に満足と安定を感じるし、環境(例えば職場)に対する貢献度も高まると考えた。

6つのタイプが表す基本的性格というのは、人の興味や能力、価値観を表すものだ。

- 現実的(R: Realistic)
- 研究的(I: Investigative)
- 芸術的(A: Artistic)
- 社会的(S: Social)
- 企業的(E: Enterprising)
- 慣習的(C: Conventional)

これには2つの前提が置かれている。
◆人は通常、「3つの性格タイプ」の組み合わせとして表すことができる
◆どれか1つが強く、あと2つのタイプはそれほど強くない

ということで、自分はどうかなぁというのを検討するワークシートっぽいものを作ってみた。ここで自分が選ぶ3つ(強い1つ+それほど強くない2つ)で、自分のスリー・レター・コードを導き出して自己理解に使うとよろしい、ということで、次のような案内テキストを入れて、簡単なシートにしてみた。

「6つのホランド・タイプ」を用いて自己理解を深める

次の6タイプの【好む活動】【高い能力】【性格特性】を読み比べ、自分に「最もフィットするタイプ」を1つ選んで◎を、「どちらかといえばフィットするタイプ」を2つ選んで○を記し、「これは違う」と思うタイプには/を引いてください。

ちなみに、この6つは適当に並んでいるわけではなく、六角形の角が隣り合っているものは類似性が高く、離れているものは類似性が低いというふうになっている。

実際、自分でやってみると、一つおきで3つ選択する結果となり、バラバラ感が半端ないのだけど…。自分に照らして吟味してみると、人間とは複雑なものであるな、としみじみ思う。

昔やったときと違うなぁ、ホランドのタイプは後天的に身につけた性格を前提にした理論なので、やっぱり変化するんだなぁというふうにも思った。

また、それぞれのタイプの説明を読むと、この部分はそう思うんだけど、この部分は違うみたいなところもあって、3つ選ぶとなると難しかったりする。

でも、「そこをなんとか!」と一人芝居で押し切って、「えいっ」と、Aランク1つ、Bランク2つに内々で決めてみるのも、なかなか面白い心の体験である。やっぱり居心地悪いと思えば、変えてみてもいい。誰も文句は言わない。

一方で、タイプ分けにこだわらず、タイプごとに書かれている【好む活動】【高い能力】【性格特性】から、それぞれに気になる、自分っぽいキーワードを拾ってみて、自分のオリジナルな人物像をえがき出してみるのも良い。自己理解を深めるためにやっているのだから、タイプ分けにこだわる必要はない。

そういうことをぶつぶつ考えながら、私が勝手に思いついた軸としては、タイプ分けがうまくできないにしても、次の観点ではわりと「自分は、どっち寄りか」って考えやすいかなというもの。私が勝手に思いついただけの軸なので、ご参考までに(これもシートの下のほうに入れておいたけれど)。

自分は、どちら寄りか
◆人を相手にする仕事   ⇔ 物を相手にする仕事
◆チームで仕事をする   ⇔ 一人で仕事をする
◆実体あるものを扱う   ⇔ 概念・抽象的思考を用いる
◆ゼロからイチを生み出す ⇔ 1を秩序立てて軌道に乗せる ⇔ 10を守り運用する ⇔ 10を100に育てる・改善する

自己洞察に使えれば、まぁいいのである。

2019-03-04

性格診断をやりすぎない理由

私は「MBTI」という性格検査/メソッドを取り扱うMBTI認定ユーザーという資格を持っていて、ときどき知り合いから声がかかると、「MBTIを用いたキャリアカウンセリング」に対応している。

あと最近、企業の方から「MBTIを会社に導入したい(任意で社員が受けられるようにしたい)」との相談があり、それを機に法人向けの「MBTIを用いた自己理解ワークショップ」も用意したので、ご参考まで(ご興味ある方は、お声がけくださいませ)。

MBTIに限らず性格検査のたぐいって、一方に「そんな胡散くさいもの」という反応があり、その対極に「診断ものとあらば、とりあえずやってみる」という層がある。ライトなものだと、Facebookなどには、よくこうした診断ツールのリンクが流れてきて、一時的に流行る。すると、両者の反応が見られる。

私はどっちつかず主義で、両極のどちらにも属さない。極力偏見はもたずに、時と場合に応じて「その人にとって益があり害がない手段」を選べる状態を大事にしたい。なので性格診断とあらば、はなから百害あって一利なしとも思っていないし、手当たり次第やってみるということもしていない。

前者の「そんな胡散くさいもの」という見方に対する自分なりの考えは、前にここで「人の性格をタイプで語るうさんくささ」という話を書いたことがある(これは妥当性や信頼性が検証された心理検査を前提にしたものだけど)。

そこで今回は、対極の「診断ものとあらば手当たり次第やってみる」について、自分がなぜそれをしないのかを書きながら整理してみたい。ちなみに、だいぶだらだらと書いた。最後は全然関係ない吐露になっている気も…。

「自分を理解したい」という気持ちは誰しももっているもので、こうしたものに関心が向くのは、人のごく自然な反応だとは思っている。

そういうものを専門に手がけるなら、とにかくいろんなツールに触れて目を肥やしたほうがいいんじゃないの?そういう探究心って大事じゃない?っていうのもごもっともで、そういう見方もあるとは承知している。ストレングス・ファインダーやCPS-Jなど、過去にやったことがあるものも、いくらかある。

ただ、あまりやらないように、あれもこれも浴びるようにやらないように、というのは肝に銘じている。私が回避したいリスクは、自己概念の肥大化だ。

性格診断ツールの類いは、結果の解釈に危うさがある。数十問の設問に答えてチェックを入れていくだけで気楽にできるわりに、結果として受け取る言葉の影響力は無意識下で強大だったりする。その影響に、ちょっとした遊び気分であればこそ気づきにくくあるのも厄介だ。

まず、こうしたツールの診断結果は、受けた人の可能性やポジティブな機会を提示することに言葉を尽くす。つまり、本人が読んでいて気持ちいい言葉がつまっているのが常だ。自分の興味に寄りそい、自分の価値観にフィットし、自分が受け取って気持ちいい言葉が出力され、自分を価値ある素敵な人として描き出す。

例えば、

あなたは人に教えたり人助けをする活動を好みます。言葉によるコミュニケーション力に長け、人と一緒に仕事をする環境で能力を発揮します。教育や保育、カウンセリングなどの職業に向くでしょう。友好的で、外向的な性格です。

だとか、

あなたは他の人を導いたり、他人に影響を与えられる活動を好みます。人と友好的なコミュニケーションを図ることを得意とし、リーダーシップや説得力を備えています。チームを統率して事業推進する立場で力を発揮します。野心的で外向的、精力的な自信家です。

だとか。

数十問の設問に回答することで、もやんとした自分像を、明快で魅力的な輪郭をもつ人物像に変換して言い当てるように提示してくれることの価値は高い。そこに自分の可能性や機会を見出して、次の一手を検討しやすくなったりする。それは単独でやろうとしても、なかなか難しい。人の性格や能力を表すボキャブラリーって誰もがそんな流暢に出せるものじゃないし、自分の性格となれば尚さらだ。

ただ、こうした診断結果のコメントは、興味や能力や性格がごちゃっと混ざっていたりする。

あなたは教えたり、人助けをするような活動を好むんでしょう。ということは、子ども時代からそういう活動によく参加してきたのでしょう。ということは、きっとその能力も他の人に比べて伸ばす機会を多くもち、実際に人より秀でたものがあるでしょう。さらに伸びるポテンシャルもきっと高いでしょう。

というように「ということは」「きっと」という推測のもとに、本人の興味や価値観が「能力」に発展して「実績」をあげるところまで導かれていて、本人が受け取って気持ちいい人物像に熟していたりする。

けれども、能力の獲得や実績は、その適性を活かして、実際に経験を重ねて、洗練させていった先の話だ。実際に自分がどれくらい、興味を能力に展開できているか、実用的な知識・スキルとして養えているか、実社会で発揮して人に貢献できているかというと、それはまた別の話である。

けれども、こういう言葉を気の抜けた昼下がり、疲れた夕暮れどきなんかに遊び感覚でやって受け取ってしまうと、あるいはあれもこれも浴びすぎてしまうと、興味とか能力とか可能性とか一緒くたに脳内に入ってきてしまう。結果、自己概念(自分に対するイメージ)が実際以上に肥大化してしまう恐れが私にはある。

言葉の力は強い。人から自分に与えられた言葉は、想像以上に自分にまとわりついてくる。「あなたは、そういう人である」と、良いものも悪いものも、言葉は規定してくる。

また、こうした診断は「自己評定の質問紙」をもとに出力しているのが常で、自分が回答した結果を、洗練された言葉で言い直しているに過ぎない、とも言える。診断結果の情報源は、あくまでも本人の自己認識だ。実際は「私は、こういう人だと思うんです」という表明である。

リーダーシップの力量や、コミュニケーション力の高さを測定するテスト問題が出て、その回答結果から能力の高い低いが判定された結果ではないし、上司や部下・同僚、取引先からの他者評価をもとに判定したわけでもない。

その回答には「そうありたい自分」が混入している可能性も十分にある。「そうありたい自分」と「実際の自分」をごちゃまぜにした自己評定をすれば、結果も「そうありたい自分」を含んだ2割増し3割増しの自分像が出力されうる。その結果は「私は、こういう人だと思われたいんです」の表明であるかもしれない。

そんな解釈の余地も頭におきながら読めば、それはそれで自己洞察も深まるかもしれない。そういう意味では、本当に使い方次第ではある。けれども、自分的にはけっこう危ういなぁと思い、ものは試し的に自己評定の診断ツールに手を出して、自分を説明するふうの言葉を不用意に入手しないようにしている。

性格診断ツールは手当たり次第やったり、数多くやればそれだけ自己洞察が図れるというふうに考えず、一つをよく咀嚼して丁寧に解釈するのが良いように思う。企業でも、あれこれの診断ツールを数多く完備するというアプローチは悪手だろう。

種類を増やすなら、「自己評定の質問紙」以外の「面接法」「観察法」「投影法」などと組み合わせて充実を図るのが良い。「自分情報」を大量に外から取り寄せて情報過多になると、人から受け取った言葉におぼれて、自分の言葉を見失ってしまうリスクのほうが高いと危惧する。

もやもやしたものを本人が心のうちにもっているなら、「とりあえずツール」に手を出すより、対面で本人の言葉を引き出してみて、そこから探っていくのが先決、そちらのほうが自然なアプローチだし、核心に迫る上でも有効なアプローチだろうと思う。

自分で舵を握れていればなんら問題はないので、エンタメコンテンツとしてうまくつきあえている人の楽しみや活用法を否定するものではまったくない。うまくつきあえる人は、ごまんといるとも思う。多くの人は、特にSNSを賑わすものなど遊びとして気楽にやっているだろうし、私のように悪い意味で「マジメ」な言葉の受け止め方はしていないだろうと思う。ただ私はわりと、人から受け取る言葉に弱いので慎重だ。マジメ…なのだ。

なんてことを書きながら思うところ、私は自分の発する言葉にも、だいぶやられている。何かを偉そうに発言したり、批判的な弁を述べた後、じゃあ自分に何ができているか振り返ると、何もできていないじゃないかと自己ツッコミせざるをえず、ときどき本当にげんなりする。自分の不甲斐なさと尊大な態度に恥ずかしくなり、うんざりすることもある。

でも、そもそも自分ができることはちっぽけなもので、自分の実態を意識しだすと、もう何も発言できなくなってしまうかもしれないとも思う。自分を自分で許せなくなったら立ち行かないしな。どうにか自分を卑下せず、慢心も過信もせず、自分のできることを淡々とやっていく精神をもとうと、もがく。

自分が人の役に立っていないという感覚は、歳を追うごと高まっていって、何者でもないことを受け入れていくのが、現実をみられていて健全な気もするし、ときにすごく不健全な気もして手を焼く。

ひとまず、検査結果をあくまできっかけとして使い、ワークショップを通じて本人が自己洞察を深めていく構造を前提とするMBTIのカウンセリング活動は、自分が果たせるいくばくかの機能の一つ。静かな気持ちでコツコツ役目を果たしていきたいもの。

はぁ、まぁ、ちょっとすっきりした。結局、最後の4段落を吐露したくて書いた気がする…。

2019-02-25

「ワークショップ課題を作る」という自主トレ

野球選手の素振りのように、インストラクショナルデザイナーはワークショップの演習課題を作る…のかどうかは知らないが、私はWebサイトやら関連書籍やらに目を通しているとき、「おぉ、これは演習課題に使えそうだなぁ」というネタに遭遇すると、素振りがてら演習課題を作ってみたりする。

「誰ターゲットで、こういうスキルを鍛えるための、こんな演習課題に使えるかなぁ」などとぼんやり考えるだけで終わりにしてしまうことも多いのだけど、実際に演習課題の「問い/ワークシート/回答例/時間割」を書き起こしてみることもある。

あるいは関連書籍を読んでいて、この内容の理解度を測定するにとどまらず、理解促進や知識定着を図る筆記テストを作るとしたら、どんな設問が良いだろうと考えてみたりとか。そんなことをしていると、さらに本を読むのが遅くなっていくわけだけど…。

こうした活動はすこぶる創造力を使うもので、自分の力の限りを引き出してくれる、あるいは引き上げてくれるもの(にもなる、頑張れば)。つまり、インストラクショナルデザインを生業とする私の、一種の自主トレになる。

何かを教えるときの講義内容の構成、事例解説のネタ集め、講義スライドの作成などは、その道の実務スペシャリストである講演者・講師役の方が単独でも素晴らしいものを仕上げることが多い。

けれど、それを受講者に「説明して終わり」ではなくて、「どう理解促進を図って知識定着させるか、スキル定着させるか、現場に持ち帰って発揮させるか、発展的な継続学習につなげるか」ということになると、それだけでは足りない。そこが、実務者向け学習を扱うインストラクショナルデザイナーの力の発揮しどころである。

と、大きく出たが、まぁたいそう難しい。難しいけど、それこそいくらでも知恵が絞れる広がりがあり、創造的で面白い活動だ。そして、ロールプレイやシミュレーション課題、理解度テストやパフォーマンステストといった類いが、それに寄与する。

この週末は、「中古車のガリバー」のWebサイトに食指が動くページを見つけて、それをネタに演習課題を作ってみた(暇か…)。情報設計の系列化(どういう順序で情報を並べたら分かりやすいか)を考える課題を皆で取り組むワークショップ形式に仕立ててみた。つまり「このページ、分かりづらくない?」と思ったということなのだけど…。

車の種類を5つに分類して、セダンはこういうので、コンパクトカーはこういうのでと初心者向けに説明してくれるページなのだけど、「順番これが一番いいのかしら?」「どうしてこの順に並んでるのかしら?」と不思議に思ったので課題に展開してみた(暇か…)。

Workshop: 情報設計の系列化

だいぶ狭いところを突いている…。取り扱う範囲が狭いと、自主トレで作ってみようって腰をあげやすいのだ…。ちなみに私が考えた答えは、これ。

Workshop: 情報設計の系列化(回答例)

これは正解(例)ではなく、あくまで一つの回答例にすぎない。実案件でも、自分でたたき台は作るけれど、正解例や問題そのものの監修は必ず、その道の専門家の方にやってもらう。そもそも、この問いに答えることが今回獲得したい知識なりスキル習得にあたって本質的な意味をもつのか含めて、学習テーマ(ここでは情報設計)の専門家の検証は必要だ。

というわけで、どこかに閉じ込められて10分、15分暇を持て余している方とかいたら、ぜひおつきあいいただいて、回答を教えてください…。私はまったく車種に詳しくないので、実案件だったらもう少し調べてから演習づくりに取り掛かるところ、その辺も今回は雑だ。

ちなみに、最近さくっと何か書くのにDropbox Paperをよく使っているのだけど、これがすごく手軽で、ちょうどいい。さくっと!に必要十分な機能と表現力で、複雑すぎず使いやすい。これがあるなら、もうちょっと自主トレ数を増やしていこうって気にすらなる。諸々他のことでも、ちょっと構造化して整理しておきたいってときに、これがあるおかげでちょっと構造化して整理しておくことが増えた。ツールのパワーって、すごい。

結局、思ったことをぼやんとしたまま脳内イメージに留めてしまうと、全然トレーニングになっていないし、脳内の生産活動になっていないんだよなと、今回書き起こしてみて、すごく思った。きちんと言語化して、構造化して、精緻化するってことをやらないと筋力にならないのだ。

今回は作り込んだと言えるほどじゃないけれど、自主トレとしては良い頭の運動になった。今後は「おっ」と思うネタに出会ったら、もっとフットワーク軽く自主トレしていこうと思う。

追伸:
研修で教えられる講師は社内にいるんだけど、適当なトレーニング課題がないとか、実案件ベースで課題を作ろうとすると、案件の背景事情が複雑すぎて課題想定がややこしくなっちゃって、受講者のスキル習得にちょうどよい&興味をもってやってみようと思えるサイズの演習ができない。

…とかで結局、講義形式で方法論とか事例共有とかする研修に終始しているといったお悩みがあれば、そういう現場の力にこそなれたらなぁという思いが常々ありますので、課題づくりとかテストづくりとかで何か手伝えそうなことがあれば、ぜひお声がけくださいませ。ニッチすぎて、そんな働きに市場はないかもしれませんが…。

2019-02-22

春風ふいて、淡々と

今週は、しばらく待ち状態にあった案件が、まとまって動き出した。

私は一つのことが起こると、それと他との関連性や、それを包含する全体の動きに想いを馳せるほうで(なんだそりゃ)、火曜にお客さんから連絡が入ったときは「おぉ、これは他の待ち案件も動き出すか⁈」と、やっぱり思ってしまった。

が、そういう自分の思考のクセは重々承知しており、仕事場面では根拠のない関連づけや拡大解釈に自制を働かせるクセもある程度ついているので、早合点を退け、居住まいを正し、連絡をくださったお客さんの対応を静々と進めた。

すると木曜に、提案を出していた別のお客さんから連絡がやってきた。再び「ほれ、やっぱりいい風吹いてるんじゃないの?」と、まずは思ってしまう。一旦そう思っちゃうくらいは、まぁいいじゃないか。

2社とも、こちらの出し物を提示してから、そこそこ期間が空いていたので、音信不通のしばらくは「あぁ期待に応えられなかったのかなぁ」と最悪の評価を想定範囲内に入れて過ごしていた。限りなく最悪の事態を想定範囲内に入れておくのが、ディレクターの務めである。

まぁでも、今の自分の精一杯を出して提示していたから悔いもなく、それが役立たないなら、そりゃもう力及ばずってことで仕方ないと腹はくくれており、「自分の力量に対する評価を正面から受け止めて、今の自分が役立てることをやりながら、コツコツできることを増やしていくほかあるまい」と、他の案件にあたりながら静かな心で暮らしていたところ、やってきた反応が2つとも良好なもの。うぉっと両手で受け止めて、まずは胸をなでおろした。

それにしても、何の関係もない2社から同じ週にまとまって反応があるなんて、やっぱり今週は物事が動き出す風が吹いているのではーと、私の中の小人Aが軽やかに歌う。

すると、小人Bが淡々と説き伏せる。いやいや、どちらも年末年始で期が変わる会社でしょ、年末から年始にかけてこちらが提示したものを、先方が社内でもんで、上層部の決裁を取りつけて1月末。2月から具体的な今期の活動を計画して外部に連絡をとりだすと、2月半ばの今週にまとまって連絡がやってくるって、いたって普通でしょう、風とかそういうの関係ないでしょう。

そんなAとBのやりとりを微笑ましくみている小人Cというのもいて、どっちかねぇ、どっちとも言えないねえ、でもまぁ一つの思いこみで凝り固まるより、解釈はいろいろあったほうが健全よね。偶然か必然かなんてのも、同じ対象を指して、人が自分の都合にあわせて名前つけかえてるだけでしょう。なんて言いながら、何はともあれ、いい形でいろいろサポートしていけるといいよねぇなどとお茶をすする。

その間にも小人Aには、「でも、これで明日もう一つ別のお客さんから連絡が入ったら、ちょっとおもしろいよねぇ」という頭がある。それが今日のお昼に本当に起こって、また別のお客さんから連絡があった。こちらも年始にやりとりして、先方社内での検討を待っていた案件だ。

なんだかんだ3つも1週間にまとまって、向こうボールが戻ってきた。この集中を、どう解釈するかって、こんなだらだら書き連ねているわりに、これといった本命の解釈をもっておらず、一つひとつ、いい仕事ができるといいなぁ、頑張らないとなぁという金曜の晩の着地なのだけど。とにかく今週は、わぁっと春風がふいて、空気が動いて、新しいタームが始まったような感じ。そこを淡々と歩いていく。

ワークショップ冒頭に参加者が全員に自己紹介することの考察

「私はワークショップの序盤に参加者全員に自己紹介をしてもらっています」から始まる長谷川恭久さんのブログを興味深く読んだ。こうした時間を冒頭に設けることの意義について、ここに挙げられているポイントはいずれも、私も深く賛同するところ。興味のある方はリンク先の「ワークショップをするときに自己紹介の時間を多く費やす理由」でご一読いただくとして、下に書き連ねるのは、これを読んだ後に自分があれこれ考えたことのメモ。

私も参加者が10名程度までであれば、必要に応じて参加者に自己紹介してもらう時間を入れたりする(私の場合は裏方が専門なので、講師は別にいて、こういうワークショップの構造を設計するという立ち回りが多いけれど)。けれど、「30人前後参加するイベント」でも全員の自己紹介タイムを組み込むというのは、なかなかやらない選択だ。

全体で何時間使えるうちの「20分以上とる」かによってもインパクトが全く変わってくるので、午前に始まって夕方までやるような終日イベントであればありかなとも思うし、参加者同士が初対面のイベントであれば、ネットワーキングの価値も高いとみればありよなぁという気もする。

長谷川さんが今回言及しているのは、このような参加者初対面イベントであることが窺える。一方で私の場合、一社向けの研修を提供する立場でワークショップの構造を組むことが多い。

そうすると、参加者同士はよく知る仲であって、自己紹介タイムを設けるとなると「講師が受講者を把握するためのもの」という意味づけが強まる。それだったら事前にヒアリングして受講者分析しておいて、講師にもあらかじめ整理して共有しておくのが裏方たる私の仕事だろうよという考えになる。受講者も本編に時間を割いてほしいと考える人が多くなるだろう。「講師ではなく参加者同士が、互いの自己紹介を必要としている状態か」というのは、一つのポイントになるだろうなと思った。

もちろん、参加者が互いに知っているつもりでも、実際はそれぞれの仕事について理解が浅いこともあるので、社員研修といえど自己紹介タイムをもつことが有意義なケースもあると思う、その辺は目的次第だし、伝え方次第だ。

長谷川さんの場合、表方も裏方もなく、ご自身で全部をやるのが常という違いもあるだろうし、本人から直接に話してもらうことで得られる情報は、間に人が入ってまとめたものとは違う情報の鮮度や濃度をもっているから、それも優先順位をみての時間配分ということになってくるだろう。

いろんな職場から希望者が集まったイベントということになると、参加者のアイスブレイク的にも、全体で「互いの文脈を共有する」という観点でも、全員に向けて自己紹介しあうことの有用性は高そうだ。また、イベントの当日までに、あらかじめ参加者の情報を詳細には得難いという事情もある。

私が手がけている社員研修案件だと、その組織の職種の定義や、現場の役割分担の実際、それぞれが担う職務や責任範囲、具体的な成果物あたりは、事前に現場マネージャーにヒアリングしておいて、講師にも共有しておくのが常。

その上で当日の冒頭でアイスブレイクを設けるなら、自己紹介のもう一歩先にフォーカスして、今回の研修で学習するテーマに関連するところで自分がどういうことをしているかとか、それにあたっての悩みや気になっていることをざっくばらんに話してもらうとか、そういう展開になる。

そして、その他諸々の優先順位を考慮して研修全体で使える時間を配分すると、参加者30人規模の場合は大方、アイスブレイク部分は数グループに分かれて少人数で話してもらうアプローチをとるだろうと思う。

最近読んだ本(*1)で、グループに小分けして自己紹介するということでは着地点が一緒ながら、その理由において別の視点が提示されているものがあった。ここでは「グループ内など少人数での自己紹介」を推奨し、「全員の前で1人ずつの自己紹介」をNG例として挙げていて、その理由にちょっとはっとさせられた。

全員の前で1人ずつ自己紹介を行うのは、とても緊張感の高いアクティビティです。過度なストレスや緊張状態を和らげるには逆効果と言えるでしょう。また、参加者は自分の話すことを考えるため、ほかの人の自己紹介を聞く余裕がなく、結果として自己紹介を行っても情報共有という観点からは効果が薄くなります。

この部分って、講師をよくする方や、私のように裏方でも前説なりなんだりで、人前に立つこと自体はけっこうやっている人にとって死角になりがちで、経験を積むほど考慮しづらくなる観点かもなぁと思ったのだ。

私の場合、人前で話す能力は決して高いわけではなく、本当にただ人前で話す機会がそこそこあるというだけだけど、いかにうまく伝えられるかという点では相変わらず緊張するものの、人前で話すこと自体に緊張を覚えることはあまりなくなった(相手にもよるが…)。

でも小学生の頃なんかは、数十人の同級生がいる教室の中で発言するだけでも過度な緊張をよくしたもの。顔が赤くなって、手に汗をかいて、そういえば「赤面症」という言葉を、小さい頃はよく使っていたよなって懐かしく思い出した。

つまり、これは慣れの問題ってことで、人前で話す機会が少ない仕事や生活スタイルの人にとっては年齢問わず、人前で話すということに、けっこうな抵抗感を覚える人があるかもしれない。過度なストレスがかかり、緊張状態に陥るということもあるかもしれないという点は、だから全員向けの自己紹介を止めるかどうかを別にして目配せしておきたいところ。

この観点でいうと、社員研修のほうが、そこそこ知り合っている間柄ということでは緊張もほどほどで済むかもしれない。参加者同士が初対面のイベントのほうが緊張を強いられるかも。あるいは強制参加の研修より、自分でエントリーしたイベント参加者のほうが、その場で発言することに前向きな傾向って見方もあるかもなぁ。

また過度な緊張はなかったとしても、何を話そうか…と考えをめぐらせているうちに順番がまわってきて、順番が遅い人なんかは、他の人の自己紹介をほとんど聴けずじまいということもありそうではある。

では、そんな緊張は与えてはならぬものかというと、それも決して答えは一つじゃない。学習活動と緊張度の度合いを示した「ヤーキーズ・ドッドソンの法則」(*2)を振り返ってみる。

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図のとおり、横軸に覚醒レベル(緊張度)、縦軸にパフォーマンスレベルをとっていて、難しい課題にあたるには、「緊張度が低くてもダメだが、高すぎてもダメ。ほどよい緊張感が最大のパフォーマンスを発揮できるのであって、過度な緊張感を与えては逆効果になる」という話だ。

ただ、単純な課題であれば話は別。緊張感が増しても、パフォーマンスは下がらない。取り組む課題が簡単な場合は、多少ぎくしゃくしても何とかなるものだし、むしろ緊張感が足りずに気が緩んでミスをしでかすほうにリスクがある。

さて、じゃあ「冒頭で自己紹介してもらう」課題は、単純なのか、難しいのか。過度な緊張となるのかどうなのか。これはもう相手次第だ。

大人の勉強会ということになると、多くの場合、そこはほどよい緊張感をもって乗り越えよう!というレベルの課題設定とは言えそう。そう無茶を言っているわけではない。でもまぁ、ケースバイケースだ。

つまるところ、やり方は固定ではない。これは何のためにやるのであって、その会終了時点のゴールはどこまでで、集まっている人たちはどういう人たちで、時間や空間などの実施条件を照らし合わせると何が一番いいかという視点をあわせもって、今回はこうしようという最適解を都度決める。

そのとき、いろんな人の緊張のもち方に意識を向けて考えたいし、そこにいる人たちにとって適切な難易度の課題設定を導きたいし、何が参加者にとってより有意義で、能率的で、のめりこめるかというのを軸に据えて、丁寧に構造づくりしていけるように目を肥やし、知識を活かしていかねばと考えたりした。

*1: 中村文子、ボブ・パイク「研修デザインハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)
*2: Yerkes and Dodson 1908 [CC0]

2019-02-19

歩くペースで本を読む

私は本を読むのが、めっぽう遅い。ただ、本を読んでいる時間は好きだ。なので読書には、そこそこ時間を割いている(読書時間のわりに、あきれるほど読んでいる本の数が少ないということになる)。

本を読んでいるとき独特の、あの感じは、どう表現したらいいのだろう。というのは、ときどき考えることだ。ちなみに、ここで「本」とは、紙に印刷された書籍をざっくりイメージしている。

デジタルメディアに取って代わられたり、映像や音声メディアに全面的に移行したら困ることって何なんだろうか。逆に言えば、本というメディアのどんな特性が引き継がれるなら、従来の「本」という媒体が、デジタルメディアや映像・音声メディアに形を変えても、さしたる損失はないのだろうか。

それが最近、「こういうことかもなぁ」と合点がいくような一節に出会った。なんとなく気分転換に買ってみた苅谷剛彦さんの「知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ」*の中にあった。

本を通じて得られるものは、知識、情報、教養、楽しみ、興奮、感動など、いろいろあるけれど、そういうものはどれも本でなくとも得られると前置きをした上で、

それでも本でなければ得られないものは何か。それは、知識の獲得の過程を通じて、じっくり考える機会を得ることにある─つまり、考える力を養うための情報や知識との格闘の時間を与えてくれるということだと私は思います。

本を読むのが遅い私には、とりわけ、この「じっくり考える機会を得ることにある」という本の特性の表しようが、染み入るように本質的に感じられた。心にやさしく響いた。

苅谷さんは「受け手のペースに合わせて、メッセージを追っていくことができ」る、とも書いている。文章を行ったり来たりできるし、斜め読みもできる、一足飛びに別の章を開くこともできるし、途中で放り出すこともできると。

確かに、自分が意識を閉ざした瞬間に、ぱっと本から自分の脳内への情報の流れが止まる。これは、どんどんお話が進んでいく映像や音声メディアにはないことだなと思う。自分と本の関係って、自分主導&手動でいかようにも、かなり感覚的に瞬時に操作できる感じがある。

私の大好きなラジオも、映像メディアに比べると、こうした自在性が高いメディアだと思うのだけど、「意識を他へ向けたかったら、スパッと遮断できる」切り離し自在性の高さがラジオだとしたら、本というのは、「本の中身に意識を向けたまま、それについて深堀りしたり、少し離れた所からみてみたり、別の角度からみてみたり」そのテーマであれこれじっくり考えられる自在性が高いように感じられる。

活字メディアの場合、読み手が自分のペースで、文章を行ったり来たりしながら、「行間を読んだり」「論の進め方をたどったり」することができるのです。いい換えれば、他のメディアに比べて、時間のかけかたが自由であるということです。

立ち止まってじっくり考えることもできるし、もっともらしいせりふを十分吟味しないまま納得してしまわずに疑ってかかることもできるし、これまで読んできたところを読み返して、この著者がこれから何をいおうとしているのか予想を立てることもできる、そうした余裕がある、と説く。

これは電車や車、自転車などの乗り物を使わず、自分の足で歩いているときの自在感に近しい。立ち止まりたければ、すぐ立ち止まれる。目に止まった何かに近寄りたければ、すぐ体をそれに近寄せられる。

歩くペースで本を読む。道草しながら、ゆっくり読む。それでいいじゃないか、それしかできないし、そういうふうに読んでいこうと、まぁもうずいぶん前から開き直ってはいたのだけど、これを読んで救われたような、許されたような気持ちになった。

…のと、映像や音声メディアと活字メディアでは、やはりそれぞれに独自の魅力があるから共存していったほうがいいよなと思う一方、紙メディアかデジタルメディアかということでいうと、デジタルに移行しようと、ここで挙げた性質は確保できるかなと思った。

慣れの問題はあるけれど、じっくり考える機会を得ること、時間のかけかたの自由を確保することは、デジタルメディアでもできるかなと。あとは、読むデジタルデバイス&メディアに「文章を行ったり来たりできる」「一足飛びに別の章を開くこともできる」あたりの自由が紙レベルで利くといいのだけど。

*苅谷剛彦「知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ」(講談社)

«「すごくできる人」の講義を聴くだけでは、なぜ「できる人」になれないのか考