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2016-09-25

思いこみの検証項目

不安や恐怖心、憂うつな気分に捕らわれてしまったとき、それを下支えしている「自分の考え」が閉じたものになっていないか、背景を探ってみるのは有効な検証アプローチだ。

何かにチャレンジするときの「失敗するんじゃないか」って不安だったり、苦手な人を相手にしたときの「何を言っても取り合ってもらえないだろう」って恐怖心だったり、自分がどうにも無能で無価値に感じられて仕方なくなってしまったとき、その背景を探ると、どこか偏狭な考えに自分が絡み取られてしまっていることがある。

心理カウンセラーで臨床心理士の杉原保史氏の著書(*1)によれば、こうした不健全な考えって、自分の意志で考えた考えではなく、勝手に浮かんできてしまう考えであることが普通で、そのことについて本人はほとんど意識していないことも多い。というので、「自動思考」と呼ばれているのだとか。自動的に思いこんで、自動的に不安・憂うつになっちゃっている。

こうした不健全な自動思考は、正すまでせず、ただありのままに認識するだけでも、厄介な感情が和らぐことが分かってきたのだとか。自動思考を自覚することで客観的に見られるようになって、不安感情や気分に捕らわれることが減ってくればしめたもの。

自動思考の代表的なパターンは、次のものだそう。こうやって見てみると、自分が「一旦は落ち込んだものの、少し時間をおいて気持ちを持ち直す」ときによく使っている検証項目がずらっとランクインしていて、ですよねぇ…と思う。

[自動思考の代表的なパターン]
●全か無か思考…全か無か、白か黒か。中間を認められない考え方。こちらでなければあちらと両極に振れてしまう。
●破局視…常に大げさに破局的、破滅的に考える。
●肯定的側面の否認…肯定的な出来事や自分の側面に対して選択的に不注意で、否定的な出来事や自分の側面には常に選択的に注目している。肯定的な出来事や自分の側面を指摘されても認めない。
●感情的理由づけ…そういう感じがするからそれが事実である。
●レッテル貼り…単純で固定的なレッテルを貼る。
●読心術的思考…人の心理をあらかじめ決めつけてしまう。
●過度の一般化…一つの事例を不適切に一般化して断定する。
●自己への関連づけ…周囲で起きていることを不適切に自分のせいだと考える。過剰に自分の責任だと考える。
●べき思考…いつも自分自身に「〜べき」「〜ねばならない」と言い聞かせている。行動の背景にある考えがいつも「〜したいなあ」ではなく「〜すべき」である。

※先の書籍より引用。「例」は省略。

しかし実際落ち込んだとき、こうしたことは、なかなか一人での探索が難しい面もある。不安だからこうなるみたいな鶏と卵の関係にも感じられるし。とはいえ他人に探索を同行願うのも気後れしたりプライドが邪魔したり。こうした探索活動に、静かに同行して、穏やかに探り当てて、丁寧にほどいていくキャリアカウンセラーでありたい。その訓練も兼ねて、自分の検証は日常的に抜かりなくやり続けていきたいところ。

*1: 杉原保史「キャリアコンサルタントのためのカウンセリング入門」(北大路書房)

2016-09-17

スライド共有:みんなで市場変化を予測する会

「みんなで市場変化を予測して自分のキャリアを考える会」というお題で、ワークショップ用の進行スライドを作ってみました。

みんなで市場変化を予測して自分のキャリアを考える会

これは、どこかでやってみたワークショップではなく、こういうのができたらいいんじゃないかというアウトプットです。Slideshareに公開してありますので、ご興味のある方は見てみてください。そして、もしやってみたら、意味があったとかなかったとか、ここをこうアレンジするといいとか、共有いただければ幸いです(他力頼み)。まぁ実際のところ、現時点で名前負けしているところは自覚していて、「自分のキャリアを考える」ところまで内包できず、そのネタを持ち帰るところまでしか無理なのですが。名前のつけ方をしくじった。

以下は、Slideshareに載せているご案内の転載。

IT/Web業界に限らず、あらゆる業界で仕事の性質が急速に変化しつつあります。業界、組織、個人の役割や職務も、境界線が曖昧になるばかり。 自分のキャリアの行方を考えるとき、自分の希望・条件だけでなく、市場変化を見据えてステークホルダーが自分に期待する職務や役割」がどう変化していくかを明らかにし、これに適応していく必要があります。 しかし、難しい…。視界はもやもやしていて、なかなか一人では先を見通せません。こういうことは、とりあえずワイワイ語り合ってみるのがいいのではないか。ということで、ワークショップの体裁でスライドを用意しました。
※進め方のアレンジ方法をスライドに添えています。開催趣旨、集まるメンバーの構成や人数、割ける時間枠に応じて、ちょうどいい按配に調整して進めてみてください。

ということで、以下に「編集後記」的な話をさくっと書こうと思ったのですが、全然さくっとまとまらなかった…。ということで、ここからが話の始まりと思っていただければ。

自分のキャリア、あるいは自社の社員・部下のキャリアについて考えるとき、「当人の希望・条件」ばかりでなく、「市場・組織の要請」をかけ合わせて落としどころを見出していく必要がありますよね。当人がやりたいことでも、世の中にニーズがなければ仕事にはなりません。

その役割・職務が固定的なものなら、わりと話は単純に済むかもしれません。一度誰かがしっかり考え抜いて明快な指針が導き出せれば、あとはそれに沿って皆やっていけばいい。そういう時代背景にあれば、会社や業界の中に2〜3本の典型的なキャリアパスをこしらえて、「あなたにはA、B、Cのうち、どのコースが合うでしょうね」という与え・与えられる関係も成立する。不動のゴールを掲げて、自分自身、あるいは自社の社員・部下を育てていくこともできる。少なくとも、計画はできる。もちろん、そんなゴールは己の望むところではない!とはみ出したい人は、はみ出せばいい。それも「俺は通常のコースからはみ出して、こっちを行くぞ」と自覚的にできる。

昨今は、そうも言っていられなくなりました。急速な技術進化で、市場や組織が個人に期待するパフォーマンスも何度となく変化を余儀なくされます。自分が得意なことでも、世の中にニーズがなくなれば仕事ではなくなります。走っている間にゴール位置が変わっていく。しかも、変動性(Volatility)、不確実性(Uncertainty)、複雑性(Complexity)、曖昧性(Ambiguity)が高いVUCAの時代なんて言われて、先々の予測も困難。ゴールが遠くに伸びたり方角が変わったり消えたり、これまでなかったものが出現したりします。仕事に求められる能力は流動的で、なおかつ先々の見通しの不確かなもの。そういう前提で、走りながらダイナミックにゴール設定や計画を作り変えていく基礎体力が求められています。

その上、これまで社会的に好ましいとされてきた価値観すら、その立場は曖昧になり、捉えられ方も多様化しているように思います。自分が矜持をもって取り組んできたことが、世に称賛される「職人のこだわり」として評価されるのではなく、合理性を欠いた「老害」として認定される変化すら起こりうる、人によっては残酷この上ない時代変化です。

個人的には、老子のいう「無名天地之始、有名萬物之母」を実感させられるこの時代感は、好みだったりもします。既成概念が溶解して、これまでの言葉が意味をなさなくなり、名ある世界から名なき世界へと揺り戻しが起きている。もう一度、名なき世界からものを見て、ゼロからこの世界の本質と、今の時代にあったものの見方・捉え方・関わり方を手探りしていく感じ。自分だって決してうまいこと、それを為しているわけじゃないけれど。

一人の人間に求められる役割や職務の境界線も曖昧なら、業界や組織の垣根も崩れてきている。会社は会社で、業界は業界で、自分たちが追求したい本質的な価値は何なのかを手探りしながら、時代に対応した舵取りを求められている。そんなふうに捉えています。

つまり、そういう時代にあって、少し先の未来がどう変化していくのか見通してみるワークショップは有用かなと思ったのです。3年後、5年後の見通しといったって、後から振り返ってみれば全然当てずっぽうのことしか考えられないかもしれない。それでも、というよりは、それだからこそ、当人が自分でいろんな予測を試みるプロセスを体験することに意味があるんじゃないかなと。

当たっていようがいまいが関係なく、人に予測してもらった出来合いのキャリアパスで考えるんじゃなくて、自分で予測してみるということが、今の時代を生きるに適した基礎体力づくりじゃないかなと。いくら予測したところで、誰が予測したところで、未来予測の不確実性から逃れることはできないわけで、そうなんだったら、不確実な行く末をもって今を楽しく生きられる基礎体力づくりが意味をもつんじゃないかなと。

しかし、とにかくお題が難しいので、楽しくそれに取り組むためにも、より有意義な予測を導き出すためにも、みんなでやるのがいいよね、と。そういうわけで、そういう時間をちょっとみんなで持ってみようと、とっかかりやすい枠組みを、ワークショップという体裁に落とし込んだのが、今回の試みです。

普段からそういうことはやっているという人には不要かと思いますが、そうじゃないという方、こういう枠組みがあったほうが周囲を巻き込んで機会を設けやすいという方に、お役立ていただければ幸いです。

できるだけ、いろんな年代の人、いろんな志向・関心事をもつ人をごちゃまぜに取り入れて、自分より視座が高そうな人を巻き込んでできるといいと思います。なかなか難しいという場合は、スライドに載せているように事前の課題図書(*1)を取り入れて、先見性高い著者を間接的なオブザーバーに据えてやってみるのもありかなと。

あと、会社でやりたいという場合。社内の上層部の人たちに「今後、起こりうる環境変化」の部分を壇上で公開討論会してもらって、それを受けて社員みんなでこのグループワークをやるような二段構えにしてもいいかもしれません。そうすると、社員の人たちは上層部の人たちの視座をもって未来予測ができて視野も広がるし、上層部の人たちに抜けている観点があれば、それを部下の人たちにフィードバックしてもらう機会にもなります。ここで部下が臆して語らず、活発な意見交換ができない状態であれば、まずは組織のフラット化をどう推し進めるかが優先課題になるやもしれません。それはそれで健全。言うは易し…ですが。

会社ごとに考え方はいろいろあると思うけど、会議室で一部の人たちが「我が社のキャリアパス」をこしらえて出来合いのものを配って選ばせるのを従来型とすれば、社員全員(あるいはできるだけ多くの人たち)に「今後、起こりうる環境変化」を予測する機会を設けて、それが自分たちの仕事にどう影響してくるかを段階的に考えていく力を養う施策のほうが、今の時代にあった強い組織づくりになるかもなぁなどと、今のところ机上の空論で考えたりしています。

*1: ケヴィン・ケリー著「〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則」(NHK出版)

2016-09-10

互いの仕事を知り合うこと

人の仕事の話を聴き、自分の仕事の話をすること。互いの仕事を知り合うことって大事だなぁと思う今日この頃。これって、直接仕事で関わるクライアントや外部パートナー、社内の人とはやっていても、そこをちょっとはずれると私は全然だ。

と思ったけど、よく考えてみると、直接仕事で関わる人とすら具体的な案件の話ばかりで、自分の仕事の話はしていなかったりする。自分で考えられること、まとめられることは自己完結でやってなんぼの仕事だから、そこについてくどくど説明を浴びせては編集・仲介役の意味がない。そういう前提があるから、極力自分の仕事自体の話はしないように、しないようにという意識が働く。相手とは自分が考えたこと、まとめたことの確認・検証なり、その先の話をするのが肝要なのだと。

具体的な一つの案件から離れて「こういう仕事をしています」という話をするのも、営業フェーズでは必要に応じてクライアントさんに話すけど、それ以外だと外部パートナーにも社内の人にもほとんど話す機会がない。仕事領域もわかりにくいし、私も説明ベタだし、さして注目される仕事でもない。ここ数年で社内で話した相手というと、メンターしている新卒の子くらいじゃなかろうか(新卒の子に、自分が最近面白いと思っている仕事の話を、自分の言葉で伝えるのは大事だと思っていて、わりと遠慮せず話題にあげる)。

そこにちょっとした風が吹いた。この夏ある会合で知り合いになった方から、なんか一緒に仕事ができそうな気がするから一度情報交換の場をもちませんか?とお声がけいただき、その方のオフィスにおじゃまする機会をもったのだ。やる人はそういうことを、具体的な案件がなくてもやっているのだなぁと感服。

なんでもかんでも場を持てばいいというものでもないが、私もその会合でお話をうかがっているとき、この人はもしや私のメンター的存在ではないかと感じるところがあり、この機会を大変ありがたく思った。活動領域は違うのだけど、少し抽象度をあげて解釈すると共通項がある感じ。ゆえにお仕事をご一緒できたら、いろいろと広がりがあるような、気づきや学びをいろいろいただけそうな感じがした。

実際お会いしてみたら本当にそうで、1時間半ほどだったか互いの仕事の話をしてみると、案件の規模感やバラエティの豊かさ、スコープの広大さには、ただただ敬服するばかりだったけど、自分の仕事との共通項を感じるところも多くあった。あぁ、別領域でこんなふうに仕事をしている人がいるのだなと大変刺激的だった。

すごく曖昧で柔らかい領域に立ち、案件ごとに自分の役割を探り探り当てていって、ときに踏み込んだり身を引いたりしながら、振り返れば少しずつ自分の活動領域を広げてきた感じとか。

クライアントの話を聴いて、こちらで答えをどれだけ完璧に作り上げられるかというところを重視しているのではなくて、勘どころの冴えたたたき台を提示してみて、クライアントと一緒に考える、そのやりとりを踏まえて、また能率よく前進するようにアウトプットをこしらえて一つひとつ言葉にしていって、再び先方に提示して「こういうことですかね?」というやりとりを通じて、言葉・捉え方を精緻化していこうというスタンスとか。できるだけ問題の本質をつかんで、そこからブレイクダウンして具体的施策を講じたいという意識とか。

こういうのを言葉にしている時点で、そうとう曖昧で、何言ってんの…という感じかもしれないけど、なんかその辺を大事にしていそうなところに、すごく共感を覚えたのだった。

自分の働きが、最終成果物ではなくプロセスにこそ宿るみたいな仕事領域の人ほど、ちょっとまとまった時間をとって、言語化して有形化して、自分の仕事を人に伝えていく時間をもつことは、意識的にやったほうがいいのかもなぁと思ったりした。エンドユーザーのお客さんに示すことはないんだけど、一緒に仕事する相手、一緒に仕事できたらなぁと思う相手と共有することは、意識的に時間をとってやったほうが発展的に仕事していけるんだろうなぁと。

2016-09-08

人材開発からキャリア開発へ

先日ある会社の人事部門の方から、このブログを読んで…というのでプライベートのアドレスに相談メールをいただいた。このブログきっかけで、法人の面識ない方からお問い合わせをいただくというのは、これまでなかったんじゃないかしら(たぶん)。あと法人のお客さんから「人材開発」ではなく「キャリア開発」の相談をいただくというのも新鮮だった。

勤め先の仕事でも、法人のお客さんからいただく相談は、研修を中心に「人材開発」に類するものが基本だ。今の会社に来てからは概ね軸足をそっちにおいているので、当然といえば当然なのだけど。「キャリア開発」に類する相談は、ごく稀に個人的にはいただくけれど、実務者コミュニティの主宰者や、もともと知り合いの友人知人からの声がけで、キャリアカウンセリングやキャリア形成に関する講演など単発のものだ。

今回お問い合わせいただいたのは勤め先のクライアントさんでもあったので、私も会社の人間として訪問してお話をうかがったのだけど、訪問してみたら「人材開発」の相談ごとにも発展して、いろいろつながっていくことの面白さを感じた。

じっくりお話をうかがって意見交換しているうち、先方の静なる熱に打たれて、何か自分にお手伝いできたらなぁとか、お仕事ご一緒できたらなぁという思いを強くして帰ってくる。最近、お客さんにせよパートナーにせよ、こうした思いに駆られる機会がちょこちょこ続いていて、その巡り合わせに感謝する。

ビジネス的には案件とれてから言いなさいよという話だろうけど、個人的には、ひょんなことからお声がけいただいて、お話を伺いに行って、意見交換したり情報交換したり、持ち帰って先方の課題を整理したり、どうしたらいいかなぁと提案を練ったりして、考えた提案を出してみたら、なかなか良い反応をいただけて、信頼関係でつながった感じが(一方的に)あって。この時点で、ものすごーくありがたい気持ちになる。ほくほく。人生の味わいとしては、だいぶこの上ない。

私は「キャリア支援」を自分の仕事の幹とみていて、その一環として長く「人材開発」の仕事を専門的にやるようにしてきているのだけど、ここで「キャリア開発」のご相談をいただいたというのは、なんとなく、そろそろ…という風向きの変化か。ここしばらくやってきた「学習/育成」から少し幅を広げていく頃合いなのかもしれないなと。しばらくぶりに「揺さぶり」のような風を感じる。

そんなこんなで、最近は「キャリア開発」の脳みそと感受性を活性化させるようにしている。ちょうど2016年度からキャリアコンサルタントが国家資格化され、それもこれを機に重たい腰をあげて申請手続きした。CDA資格をもつ人は申請して登録できるようなのだけど、調べてみたら期限が今月までだった…(*1)。危ない、危ない。手続きに数週間かかるようだけど、ぎりぎりセーフかな。

*1: 質問いただいたので今一度調べたのですが、CDAなどの有資格者がキャリアコンサルタントになる登録申請は、平成28年4月から5年間のうちに指定の手続きを行えばOK。ただ、「現在、いわゆる標準レベルのキャリア・コンサルタントである方については、平成28年4月から9月末までの間にキャリアコンサルタント名簿に登録して頂く必要があります」ということで、今月中にその名簿登録手続きをしないと、「キャリアコンサルタント」、あるいはこれに紛らわしい名称を用いることができないというものらしく。名乗るなら今月中に名簿登録手続きを完了させなさいよ、ということのようです。詳しくはこちらをご確認くださいませ。
「キャリアコンサルタント」について(厚生労働省)

2016-08-29

相手を悪者にしないユーモア

うちの会社の夏期休暇は「7〜8月に5日間の休みを取ってよし」というもので、いちおう連続での取得が推奨されているけど絶対じゃない。それに甘えて、今年は全部とびとびで取った。

複数案件がいろんなフェーズで走っているのと、まとまった時間をとって集中してやりたい仕事が断続的に発生するのと、いいのか悪いのか休まなきゃならない事情もなかったので、今年は「気まぐれに5日間、休暇をつまみ食いできる2ヶ月」として楽しむことにした。

そうしてなんとなく夏期休暇を取り終えた8月最終週の先週末、言わば「ただの土日」に、今年の夏まず間違いなく私にとって最も夏休みらしい休日を過ごした。妹の帰省にあわせて、父と妹と私で家族旅行に出かけたのだ。父が舛添さんの泊まったホテル三日月に行きたいというので、行き先は千葉の房総に決定。

一週おきにやってくる台風の合間、どうにか雨に降られず曇り空のもと出発。車の運転は妹、父は後部座席、私は助手席に乗り込んだ。高速道路に乗って南に下っていく。久しぶりのサービスエリアも楽しい。

再び高速に戻ってしばらく車を走らせていると、どこかのインターチェンジで無茶な入り方をしてきたのだったか、黒のミニバン(たぶん)に遭遇。以下、うろ覚えの家族の会話。

妹「すごい運転だなぁ」
父「ああいう運転はだいたい60くらいのオバハンや」
私「えぇ!? 60の女性は車体の色に黒って選ばなくない?」
父「じゃあ、確かめてみよう。◯子、追い抜け」
妹「よし、見てみよう」※良い子は真似しないでください
(追い越し車線に移動、ブオォーン、真横まで来る)
私(左を見て)「ほ、ほんまやっ!」
妹(すかさず)「全然違うじゃん!お姉ちゃん、ほんまやっ!って言いたいだけじゃん…」

そうだった。全然60じゃなかった。40か50くらいのアラレちゃんメガネした女性だった。お姉ちゃん、ほんまやっ!って言いたかった。っていうか運転席から見てたのか、妹…。となると、3人全員で一斉に左向いて彼女を見ていたことになる。そりゃ向こうも見るわな。アラレちゃんと思いきり目が合ってしまった。

そんなこんなで、向かっている時点から笑いのお稽古は万全だった。なのに、その後の旅先でうまく使えなかったんだよなぁ。

ホテル三日月は、値段がかなり張るのだけど、それでこれは無いよなぁというオペレーションが目立った。施設にお金をかけているのはわかるのだけど、目立つところにお金をつぎ込んで、一見一流を装いつつ実際はそうでないから残念さが出てしまう。一人1万円くらいに押さえてあれば、あのオペレーションでも笑って流せるのだけど。でも120%ファミリー向けだったので、うちのようなジジババトリオで行くと、とりわけ行き届いてなさ加減が目についてしまうというのもあるかもしれない。

まぁそんなのも家族旅行となれば、旅の味わいに変えてしまえるもんである。ここのオペレーションはこうすれば良くなるのに…とか、宿の側がそうなら客の側が頭使ってこう動けば一気に長蛇の列は解消されるのに…とか、あーだこーだゴハンを食べながら(勝手に)問題点を整理して改善策を練るおしゃべりも楽しいっちゃ楽しい。私だけかもしれないが…。

とにかく夕食も朝食も、数百人入る広間に満員状態で、たくさんの人をうまく動かす流れが作れていないので混乱ぎみ。父はとりあえず風呂あがりのビールを持ってきてほしいのだけど、注文から何分待ってもやってこない。そこで宿の若者をつかまえて父が「もう150時間待ってるんだけど」と声をかけると、若者「150時間ですか…」と顔をこわばらせて固まってしまった。もしかして計算してるのか…。

そこで機転をきかせて「6日も前から座っとるはずないやないかー!」とか「そこ真面目に計算するとこやないでー!」とか合いの手を入れられればよかったのだが、私はこういう時たいてい笑いに持っていけず、「いや、冗談です」とか「だいぶ前に注文したんだけど、まだ来ていなくてねぇ」などと仲介に入って、柔和に微笑んで場をなごますとか間をとりなすとか止まり。

そういうので終わってしまうと、結局「文句を言った客と、文句を言われた宿の人」という構図そのものは崩せない。んむむ、やはり明石家さんまは偉大だ。

場をなごます、間をとりなすから、もう一歩。ユーモアをもって緊張を総崩れさせたいもの。だけど、ユーモアの語釈には「思わず微笑させるような,上品で機知に富んだしゃれ」と載っている。「6日も前から座っとるはずないやないかー!」じゃ品に欠けて、ユーモアへの道は険しいことを痛感するのだった。

これって、自分がサービスを提供する側と位置づけても大事なことだし、仕事以外の人間関係でも大事。誰かと相対するときに、ユーモアってとっても大事だ。こちらの対応力如何で、相手の意見がクレームになったり、相手が悪者になったり。逆に、相手の意見をクレームにしない、相手を悪者にしないこともできる。ある程度は、受け取る側の力量と心持ちで変えられるのだ。ある程度は、だけど。あと真剣に怒っている人には火に油、だけど。

って話がまとまらないので、話を戻して、とにかく家族旅行はとっても楽しかった。2016年夏の素敵な思い出。

2016-08-25

暗中模索に一筋の光

クライアントから「わかりやすい内容で、いろいろとイメージが膨らんだ。次回の打ち合わせを楽しみにしている」との返信をいただいた。嬉し泣きすぎる…。今回出した提案に対して、これほどもらって嬉しい言葉があるだろうか。いや、ない!夏休みだけどメールチェックしに来て良かった…。提案書を送った昨日のうちに、一通り確認して返事をくださっていたのにも胸がつまった。ほろり。

思えば、ここ2ヶ月ほどは暗中模索の日々だった。今もまぁそこから脱したわけじゃないが、この一筋の光は私にとって大きな意味をもつのだった。

もともと、この案件に関わる自分にとっての個人的な意味は、疑いの余地なくあった。研修に落としこむ前提ではなく、組織の人材開発という通常より広いスコープで、お話をうかがって分析する機会を得た。わらわらと挙がってくる問題をどう整理して、その先どこに解決策を導き出すのかは、私のこれまでのキャリアに照らすと、レールのない地頭勝負な面が強かった。

その道のプロとしてお助けしましょう!と胸はって言える領域じゃない。が、まずは営業活動の一環として無償でやる流れだし、それであれば文句も言われまい。使えないなと思えばそこで終了にするだろうし、それであれば客先にかかる迷惑も最低限に留められるだろう。私としては未経験ともいえる分野を実践させてもらえる機会だし、やらないと伸びない能力なのだからやりたいならやるっきゃない。というわけで、とにかく今自分ができるかぎりのことを体当たりでやってみようと思った。個人的に進むべき道は一択でシンプルだった。

ただ、それをメタ的にみて、自分の仕事のあり方を差配するのは難しかった。お話を聴いて分析レポートを上げた後も継続してやりとりがあり、この自分の働きはお客さんにとって有用なのか、自社にとってはどうなのかと悶々としていた。

私との継続的な関わりが、お客さんにとって無駄骨になってはいけないし、会社の時間を使って立ちまわる以上、自社にとっても意味ある働きに還元できないと申し訳ない。では、この案件において自分がどういう立ち位置で役割を果たせれば、お客さんにとっても自社にとっても望ましいのか。どう動けないなら、どこで自分は判断して身を引くべきなのか。先方から言われれば話は早いが、自分は自分で厳しく自己評価する目をもたねばなるまい。

しかし、わからないのだった。新しい要素を多分に含んでいるため、自己評価はたいそう難しい。この打ち合わせ時間はお客さんの問題整理、課題発見に有用だったのだろうか。この分析レポートは、お客さんが施策展開に打って出る一助になるのだろうか。すでに社内でも散々話し合って整理されていること、関係者間でもとうに共有されていることであれば、打ち合わせの中で私に状況説明する時間も、私のドキュメントを読む時間も、先方にとっては無駄な時間、労力なのだ。私には、自分の働き、打ち合わせのパフォーマンス、提出したドキュメントの有用性、これらを評価する能力が著しく欠けていた。

客先からの評価がどう下ろうとも、それを真正面から受け止めようとは腹をくくっていた。けれど実際のところ、こちらが何か出したものについて、お客さんがその良し悪しに焦点をあてて明確なフィードバックをよこしてくることは、なかなかないものだ。

それは、違和感なく読めて的を射ており、腹落ちしたから課題そのものに集中していて突っ込みがないということもあるし、可でも不可でもないとか価値が見出せなくてスルーしているから反応がないということもありうる。そこんとこが、つかみとりづらいこともままある。

でも前者なら、せっかくお客さんが課題そのものに集中しているのを遮って、私のアウトプットどうでしょうと野暮な質問を持ちかけたくはない。私だってお客さんと一緒に課題に集中して次に歩みを進めたい。一方で後者なら、向こうが言い出す前に察して、自ら引く冷静さを持ちたい。お客さんに気を使わせて、ずるずると要らぬ打ち合わせをもったりドキュメントを読むコストをかけ続けさせるような迷惑はかけたくない。

研修案件と比べて自己評価のあてがなく、自分の仕事に対してずっと懐疑的だった。ただ、一段階二段階と歩を進めていくうち、最初期に比べれば靄が晴れてきて、提案も具体化でき、あぁこのご担当者のこの課題にはこういうサポートができるかもしれないという提案ごととか、この人の真剣な取り組みを自分がこんな役回りでサポートできたら嬉しいなぁという思いとかが、ぐぐっと鮮明になっていった。それで、都度都度行けるところまで突き進んで分析や提案をまとめては提示してきた。

そこから得た、一筋の光だったのだ。はぁ、嬉しい。力になれるといいなぁ。力になりたい。まぁ引き続きの暗中模索、自分のできるかぎりを尽くすのみ、それでどうなるかはお客さんの判断だ。ここまでの道中だけ振り返っても、すごく良い経験をさせてもらった。この先も悔いのないように、こつこつ頑張ろう。

2016-08-24

ニュースにならない日常

昨日、倉庫をリノベーションしたという都内のオフィスビルに打ち合わせに出向いたのだけど、ビル前までは問題なくたどり着いたものの、その入り口で立ち尽くしてしまった。ビル名は合っている、間違いない。が、目の前のフロア案内に、目的地の社名がない。さらに、この倉庫ビルの入り口は、A、B、C、3つあると書いてある。

もう2つの入り口は、だいぶ遠くにありそうだ。大きな倉庫ゆえ、通りに面してずーっと先まで外壁が続いていて、建物の終わりが見えない。2つ目、3つ目の入り口前まで移動して、1Fのフロア案内にその社名があるか調べていったら、訪問時刻を過ぎてしまうにちがいない。

しかし、目の前の入り口から指定階まで上がって、果たして目的地にたどり着けるか、これも怪しい。これは、あれじゃないか、入り口ごとにたどり着けるところが違って、入るところを間違えると一向に目的地にたどり着けないってやつじゃないか(そういうので何度も痛い目にあっている。特に大きな駅…入り口じゃなくて出口だけど)。とりあえず指定階に上がってみて、その会社がなかったら、これまた時間のロスが大きい。

その会社のサイトに情報はないし、ここは電話をして入り方を確認するのが早いか…などと10秒20秒思案していたところに、郵便やさんがやってきた。これは!なんという巡り合わせ。郵便やさんこそ、こうしたビルの内部構造を知り尽くしているにちがいない、相談相手にうってつけの人物登場だ。しかも、これからまさに、このビルの中を一通り配達してまわろうという感じだ。というので、郵便物の束を抱えて入ってきたお姉さんに躊躇なく声をかけた。

「あの、どこそこって会社に行きたいんですけど、ご存じですか。サイトにはこういう表記しか書いていなくて。この入り口から◯階に上がって、たどり着けますかね?」と相談を持ちかける。すると、「あぁ、うーんと、じゃあ一緒に上がりますよ」と案内してくれることに。本当はいつもの配達ルートがあると思うんだけど、私が行きたいと言っているフロアを先にしてくれるらしい。「大丈夫。そのフロアにも用あるので」と、着いてきな!って感じで前を歩いていく。

お礼を言って足早に彼女を追いかけ、1Fのエレベーター前まで来ると、そこの各フロア案内には目当ての会社名が書いてあった。「あ、ありました!社名書いてありました。あとは大丈夫そうです」と指差して言うと、彼女「あぁ、でも、そのフロアはシェアオフィスだから、入り組んでいてわかりづらいんですよ」と言って、やはり一緒に上がってきてくれた。

そして、目的の会社のドア前までたどり着いたところで、私がガラス越しの先方担当者を目にとめて視線を向けているうちに、郵便屋さんは「じゃあ」と言って足早に曲がり角を折れていった。向かう途中に何度かお礼やら詫びやら伝えていたものの、私は最後にきちんと頭を下げてお礼を言えずじまいに。

こちらは心残りだったけど、彼女にとってはたぶん、日常のちょっとした当たり前の善意なんだろうという気がする。私も彼女の立場だったら、まぁ同じようなふるまいをするだろうとも思う。思うんだけど、私はそのことを何度となく、この一日半くらいの間に思い出しては感じ入った。

なんというのかな、そうやって私たちは毎日を生きているんだよなって思ったのだ。こうしたささやかな善意は、何のニュースにもならない。けど、たぶん日々そこら中で起こっているのだ。当たり前のことは、ニュースにならないのだ。

そうした日常の、ニュースにならないこと、悪いことではなく善いことを、気に留めて、目を向けて、言葉を与えて、意味を与えて、価値を見いだすのは、誰のすることか。私なのだ。メディアじゃなくて、一市民である一人ひとりの私が、やるかやらないかなんだよな。そうやって自分が生きる世界の見え方は、自分がつくっていくのだ。

2016-08-08

過去を変える、未来の作用

今年のリオデジャネイロ・オリンピックは生中継を観られる。NHKが実験的に、テレビと同時中継でWebサイトにも映像を流してくれているのだ。

テレビを持たない私は、長いこと生中継でスポーツ観戦する経験をもたなかったが、開会式翌日に行われた競泳400m個人メドレーの萩野選手が金、瀬戸選手が銅メダルを獲得したレースは、観ていて力が入った。

あとで動画を観るのとライブでは、やっぱりだいぶ感覚が違う。別に「動画よりライブ」と言いたいわけでもない。一通りを終えて振り返る体験には、また別の意味が宿る。

そうしたことに思い巡らせているうち、今読んでいる小説「マチネの終わりに」(*1)の一節と脳内でリンクした。

登場人物が少し前に亡くなったおばあちゃんの話をする。おばあちゃんは90歳になって足元もおぼつかなくなり、転んだ時に庭石に頭を打って亡くなってしまう。自分が子供の頃、よくテーブルに見立ててままごと遊びしていた石が、大切なおばあちゃんの命を奪うことになる。それまで何十年と、良い思い出の風景として在り続けた石が、未来の一件で意味を変えてしまう。その石を良い思い出の風景としてだけ思い出すことはできなくなる。

ギタリストはこう返す。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

音楽もまたそうで、聴き始めは手探りでその主題の行方を追い、最後まで見届けたとき、振り返ってそこに広がる風景をよむ。

展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。

繊細で、感じやすい人の解釈が「過去」の印象を塗り変え、意味合いを書き変えていく。大人になればなるほど、たくさんの過去をもち、未来の自分がその意味づけを変えていく機会に巡りあう。それは決していいことばかりじゃないかもしれないが、それでも点をつなげて、意味を深めて、価値を広げていくポテンシャルを、過去はたくさん秘めている。大人は過去持ちだから、そのことは大事にしたい。「今」もまた、「未来」に書き変えられていくのだと自覚しながら受け止めていきたい。

時も偉大だが、人間の解釈も偉大だと思う。そもそも「過去」というものが一時的な人間の解釈に立脚した、やわいものだと言ってしまえばそれまでだけど。

*1: 平野 啓一郎「マチネの終わりに」(毎日新聞出版)

2016-07-31

不可避のライン

Pokemon Goに個人的な好き嫌いが出るのは当然と思うのだけど、あれを今時点で社会的な価値づけとしてダメと論評するのには、えぇー…と思った。一部のノイジーマイノリティの声が目立って聞こえてきているだけかなとも思うのだけど、実際のところがよくわかっていない。

ともあれ、アプリが出て数日の、まだみんなが使い慣れてもいないいっときを切り取って、あれは危ないからとか、人をダメにするから良くないとか断じてしまうのは早計に感じられる。

これだけの社会現象を巻き起こしたとあれば、使い方マナーの啓発活動は、提供主側もする必要があるかもしれないし、それで人があふれているところなどは、一時的に対策を講じなくてはならないこともあるだろう。

でも、それぞれに1週間2週間と使えば、遊び方はこなれていくだろうし、1ヶ月後も2ヶ月後も同じだけの人数が同じ場所に通い詰めているとも思えない。隅田川の花火大会なり、フジロックフェスティバルのように、いっときのお祭りと思えば、イレギュラー的にいっとき一所に大量に人が押し寄せているという見方におさめることもできる。それに応じて、期間イメージをもった対策を考えるのが妥当だろう。

いつまで経っても学習が進まずケガが絶えないということであれば改まった対策が必要だけど、出て2〜3日のアプリを、数日の混乱をみて、その存在自体断罪するのは浅薄だし、無期限を想定してルールを作ろうとするのは合理性に欠ける気がする(無期限を想定して作られたルールは、そのルールが不要になっても残ってしまいがちだ)。

人は新しいものを、段階的に使いこなせるようになったり、関わりあえるようになっていく。そうやって時代とともに、新たな道具を取り入れ、合理性と自由と、その次に得られる可能性を獲得してきたのだ。それが何ものかわからない時点では、評価をくださず留保するというのも、評価能力の一つだよなぁなどと思う。

そんなことをうだうだ考えているときに、「〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則」(*1)の「はじめに」を読んで、まさしくだなぁと心に響いた。

われわれはあまりに早く変化していて、新しい機能を発明する速度がそれを文明に取り入れる速度を超えてしまっている。あるテクノロジーが出現すると、それが何を意味するものか、それを飼い馴らすためにどういうマナーが必要かという社会的な同意ができるまでに、10年はかかっている。

ということで、

テクノロジーを使い始めた頃の反応はすぐに消えていくもので、別に本質的でも不可避でもない。

私がだらだら書き連ねてしまうことを、ある人はこんなにシャープに表現できてしまう。こなれた翻訳者の手腕もあるかもしれないが、ピーター・ドラッガーの文章を読んだときのような心持ちで、聡明な世の中の捉え方にふれ快く味わう。「はじめに」だけでも買った甲斐があったなぁと。まだ「はじめに」にしか読んでいない…とも言う。

この本は、著者がここ30年の技術進化にもとづいて、この先30年がどう形作られるか、不可避なテクノロジーの力を12コ挙げて説くものだ。小さなトレンドがどうなるかというのは、予測がつかないけれど、

テクノロジーの性質そのものに、ある方向に向かうけれど他の方向には向かわないという傾向(バイアス)がある。

そのバイアスを項目立てて、ここ30年の大きな流れから、この先30年を見通すことはできると。

そのバイアスがもたらす変化は、すべてが歓迎されるものではなく、既存ビジネスが立ちゆかなくなったり、今就いている職業では食べていけなくなったり、今の法を逸脱して違法な領域にも踏み入ったり、心を痛めるような事件、紛争、混乱も生じるだろう、と。

それでも、

不可避なものを阻止しようとすれば、たいていはしっぺ返しに遭う。禁止は一時的には最良の策であっても、長期的には生産的な結果をもたらさない。

であれば、

生まれてくる発明が実際に(つまり可能性としてでなく)害悪にならないように、われわれは法的、技術的な手段によって制御する必要がある。個々の性質に合わせて、文明化し手なずける必要もある。ただそうするためには、まずは深く関わり、手を出して試してみて、警戒しながらも受け入れていく必要がある。

人間には制御不能な変化も起こる世の中に生きているという前提に立って、テクノロジー進化がもたらす変化も例外ではないことを踏まえるなら、これまでのテクノロジーの大きな流れから、不可避のことと、制御できることを見通して、己をわきまえて、受け入れていくという態度で関わりたい。人間はまったく万能じゃない、大きな流れの中に身をおいて、さまざまな不可避のことを抱えて生きているんだと思うから。

*1: ケヴィン・ケリー(著)、服部桂(翻訳)「〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則 − 未来を決める12の法則」(NHK出版)

2016-07-24

「面倒くさくない」という指標

上司の代理で、とあるリーダーシップ開発の研究会に参加している。リーダーシップってよく、「リーダーとリーダーシップは別の概念であり、リーダーシップとはリーダーに限らず(広く全員に)求められるものである」と言われる。

が、本当にそうだろうか。改めて考えてみると、ちょっと結論に一足飛び感がないか?と疑問符を打った。「リーダーシップ」と「リーダー」、言葉が違うんだから意味だって違うはず。それはわかる。けど、意味が別なのと、「広く全員に求められる」はイコールではない。その「広く全員に〜」は、どこで拾ってきたのだ。

リーダーシップというのは、人材開発業界では常に脚光を浴びている安定のトピックで、いろんなところで研究がなされている。世に出ている「リーダーシップの定義」を数えたら200くらいあったという話も聞いたことがあるから、「広く全員に〜」がどれくらい一般的なのかも、よくわかっていない。私の捏造かもしれない…。

ともかく、この現状を地に足つけて捉えるに、それぞれの現場で「我々としてはリーダーシップをこういうふうに考えていくよ」って身内の定義を共有しないと始まらないってことだ。みんな、リーダーシップについてバラバラのイメージを持っているわけだから。

例えば、年次を考慮して“若手・中堅社員におけるリーダーシップ”を、

組織の上位方針や所属部署・担当職務の役割にもとづき、自ら目的に応じた仕事を作り出し、上司や関係者の承認・助言を得ながら、やり方を修正・調整し、関係者と協調しながら、一定の制約条件(期限や予算)のもとに完遂できる

みたいに定義したとして(適当)、これを「わが社の社員全員に求める」のは、本当に現実的なんだろうか。ある人は、これって極めて基本的な仕事力で、新卒1〜2年目には無理だとしても、3年、5年の社員にはできていてほしいパフォーマンスだと考える。

でも、じゃあこの辺のことを5年目とか10年目とか問わず、社内でできている人って何割くらいいますか?と問うと、だいたい1〜3割くらいにおさまるのだ。

ということは、つまりそういうことなんじゃないかなと。このリーダーシップってやつも、全員に求める能力ではなく、技術者が特定の技術力を持つのと同じように、一部の人がもつ特殊能力って位置づけちゃったほうが現実的な組織づくり、人事施策が打てるんじゃないかなと。いつまでも「リーダーシップは社員全員が身につけていなきゃいけないのに、いろいろやっても身につかない」と嘆いていないで。だって何年も何十年もずっと、1〜3割で推移してるんでしょ?と。それ、何かやって6〜8割に変わりますかねと。

もちろん、上に挙げたような能力を、当たり前に全社員に求められる採用力ある大企業、ベンチャーもあるかもしれないし、少数精鋭のスタートアップもあっておかしくない。けれど、それはそれ、現実的に難しいと思う企業は、「うちはそうではない」と割りきって、リーダーシップも一部の人がもつ特殊能力、自社製品・サービスの技術開発力も、顧客対応力も、財務も事務も同様に、一部の人がもつ特殊能力という前提で、チームづくり、組織づくりを考えたほうが現実的な策に着地できるのではないかと。

つまり、一人に求める能力をむやみに万能化せず、自社の現実に即してもっと小分けして、みんなで分担するようにするというのか。自社の採用力をわきまえず、一人に万能性を求めすぎると、結局どの能力も十分に発揮できない集団になってしまうというのか。

いや、割り切りすぎて、まったく多くを求めない、個の成長が見込めない企業となるのもどうかというので、結局はバランスなのだと思うけれども。

それで考えたのは、社員個々人が「何ができるか」に焦点をあわせるのではなく、「何を面倒くさく感じないか」で組織メンバーを構成して、採用したりチーム編成したりマネジメントするといいんじゃないかなぁということ。「今もっている能力」ベースの組み合わせじゃなくて、「今後伸びていくポテンシャル」をベースに組織づくりを考えるというのか。

人はとかく、その人が今できること、今見て取れる得意なことに目を奪われがちだけど、この人は自分や他の人と違って、「こういうことに面倒を感じない人なんだなぁ」というところに、その人のもつポテンシャルやユニークポイントの芽を見出すといいんじゃないかと。

人によって「何を面倒くさいと感じるか」って違う。リーダーシップも、あるいはそうではないかと。誰も発言せず膠着状態の会議で、別の切り口から問いを投げて話し合いを展開させようとすることを厭わない、やらないではいられない人もいれば、そのまま静かに下を向いて時間が行き過ぎるのを待ちたい人もいる。進めていることの反対派に直面すると、それを解きほぐすのを面倒に感じる人もいれば、説得するロジックを組み上げてプレゼンし、人々を巻き込んでいくことに面白みを感じる人もいる。

また別に、ある人は技術進化の激しい分野で、日々技術情報をキャッチアップして新しいものを習得して実践に活用していくのを厭わない。厭わないどころか、全然苦にならないし、面倒に感じない、むしろそうやって生きていきたいという人もいる。でも、そんなの絶対やだ、ものすごい面倒…と感じる人もいるのだ。

あるいは、1mm、1pxのズレが納得いかず、その配置に美醜を感じて整えずにはいられない人もいれば、そこに神経をつかうなんて疲れちゃうという人もいる。

ある人はタスクAを面倒に感じ、タスクBに時間を割くことを厭わない、あるいは気になってこだわらざるをえないのに、別のある人にとっては、タスクAとBが逆転する。

そうやって、人はそれぞれに面倒くさくないものに時間を使い、こだわり、おのずと能力を高めていく。組織が発揮する機会を与えていけば、それを面倒に感じる人より、ポテンシャルが開花する可能性は高い。そうやって個々の専門性を高めていくのが自然かなと。

凸凹がある者同士がチームを作ることで、一人ではできないことを実現しようとするのが組織の意味だとするなら、そうやって個々のポテンシャルを見出して、機会を与えて、いろんな人が集まったチームを育てていくのが健全なのでは。リーダーシップも、ベーシックな能力というより、多くの企業においては特殊能力と位置づけちゃったほうがいいのかもなぁと。

まぁ結局はバランスの問題。もちろん組織共通の価値観も必要だし、ベーシックなコミュニケーション能力みたいなのも必要だし、どこにバランスの線を引くかは個別案件なんだけど。

«同じ空間、同じ時間が意味を生む