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2018-02-17

MBA11inchから、MacBook12inchへ

先日、私物のMacBook Airをダメにしてしまった。買ってから数年経つものの、壊れないかぎり当面使い続けるつもりでいたのに、転機は突然に訪れるものだ。

自宅でニュースサイトの映像を見ながら食事をとっていたところ、手元のコンソメスープをパソコンにぶちまけてしまった。急いでキーボード上の水分を吸いとり、逆さにしてポタポタこぼれ落ちるのも拭いてみたりしたけれど、時すでに遅し感が半端ない。ディスプレイが不気味な動きで異常を訴えている。

ニュースキャスターが画面の左側でしゃべり続ける中、ポインタの矢印が画面いっぱい自由に動き回って、縦横斜めに移動したり消えたり出現したりせわしない。その動きはさながら狂ったハエのようであり、あぁ終わった…感に包まれた。

何を押しても、電源ボタンすら、その指令を受け取ることは叶わないようで、キーボードを使ってもマウスを使っても一切のコミュニケーションを受け付けない。もう、このパソコンの脳みそはコンソメスープに冒されてしまったのだ。ちゃぷん。

となると、切り替えは早い。ダメなものはダメなのだから、次どうするかである。特に、わが家はテレビがなく、ニュースも娯楽もネット頼み。大好きなラジオも、radikoを使ったネット経由である。スマホがあるので陸の孤島感はないけれど、パソコンがないと、いろいろと不便。まとまったテキストも打てない。早々に代替機を手に入れなければなるまい。

また基本的に面倒くさがりなので、買い物の類いに時間をかけることができない。一刻の猶予があろうがなかろうが、買い物の検討時間は短いほうがいい。個人的なものを選ぶときは、とりわけ直観任せである。

というような怠け者の自己都合によるパソコンの買い替えは、これまで使っていたものと極力同じものの最新版が第一候補になる。しかし、MacBook Air (MBA) の11inchはもう出ていない。私はAirにこだわりたいわけじゃなく、11inchの小サイズにこだわりたいので、となると、最も近しいのはMacBook 12inchだ。今のMacのラインナップだと、これが一番小さいし、どうやら重量もMBA 11inchより軽くなって1kgをきっている。厚みも4mm近く薄くなっているという。

しかし、この外部機器に通じる口がUSB-TYPE Cの一口しかございませんというのは、なんなのだ。電源供給で、この一口を使ったらおしまい。ワイヤレスマウスのレシーバー、スマホの充電、HDMI接続と、何かしらの併用時は基本的に拡張ケーブルをぶら下げることになる。全然スマートじゃない。

「使用時の使い勝手」を軽視して「使用しない時の見た目と携帯性」に偏重な感じが、実際的につらいのと、作り手へのなんだかなぁ感で、どうも乗り気になれない。

でもまぁ常にマウス、HDMI、スマホ充電に使っているわけじゃないしな、他に選択肢を広げてあれこれ考えるのも面倒だし時間ないしなぁと、その手間を天秤にかけると、面倒くさがりの心は限りなく広大になるのだった。結局受け入れることに。

というわけで、早々MacBook 12inchを買ってしまったのだけど、そんなことそっちのけの事案が、購入直後に立ちはだかった。打鍵音がうるさいのだ。そうだった。私、打鍵音にうるさい人だった。打鍵音がうるさいことにうるさい人だった。ということを忘れていた。数年おきに買うような買い物って、自分が何を大事にして買いたいかという観点を覚えていられないのが、つらい。次回はAIにご指摘願いたい。

今回のMacBookは、だいぶ打鍵音がうるさい。それも高音域でカチャカチャ言う。これ、すごく苦手なのだ。売り場で触ったときは、売り場がうるさいので気づかなかった。

セミナー会場などで使ったら、確実に「かちゃかちゃうるさい人」になれる自信がある。これは、つらい。例えていうなら、朝起きたら自分が苦手とする「くちゃくちゃ音を立てて食べる人」に生まれ変わってしまっていたような、やりきれない生理的受け付けなさがある。これは、どうしたものか。

で、ネットで検索してみると、打鍵音に物申している人がざくざく出てきた。一番簡単な対応策として、「キーボードカバーを使う」という勧めがある。これなら1,000〜3,000円くらいで策を講じられそう。レビューを見て良さげなメーカーをメモ、ビックカメラやヨドバシカメラに足を運ぶも、その辺は置いていないので、Amazonで買うかなぁと退散。これで丸く治まることを願いつつ、壊れたMBA 11inchも起死回生を狙って天日干し…。

というわけで、今回の学び。一つ、私にとって打鍵音が小さいことは、パソコン選びにおいて大変に重要な選定ポイントであることを肝に銘じる。次回もぜひ覚えておきたい(覚えておける自信はあんまりない…)。

一つ、次世代機だからといって、あらゆる面がバージョンアップしているわけじゃない。何かに強く肩入れして磨き上げたことによって(例えば薄さや軽さ)、別の何かが前の機種より損なわれている(例えば静音性や使い勝手)こともある。そして自分の重視する観点が、損なわれたほうにあるということも往々にしてあるわけなので、同じブランドのバージョンアップ品と言えど、そこら辺をわきまえてだな、それなりに調べて検討の上で買い物したまえよ。

一言でまとめると、慌てる乞食は貰いが少ない。あ、あと、言うまでもないけど、飲食物とパソコンはもう少し離して置こう。

もう一つ気がかりは、毎回お古のパソコンをあげている友人に、あと数年はパソコンを引き渡せなくなってしまったこと。もうかれこれ10数年、パソコンを買い換えると、お古を彼女に引き渡す儀式をしていて、もう4〜5台になる。それが今回壊しちゃったことにより、次がだいぶ先送りになってしまった。まぁ前に渡したMBAも不便なく使いやすかったから、当面はこのままいけると思うのだけど。そう思うと、MBA 11inch、ほんとにいいマシンだったなぁと思う。無念。

最後にMacBook12inchを褒めておくと、軽い薄いに加え、ディスプレイはすこぶる美しい。吸い込まれるように、美しい。これを標準として日常を暮らせるのは、きっと豊かなことだろう。その辺の感度は鈍いのだけど、だからこそそれを日常とすることは、きっと良いことだろう。

2018-02-10

花束を母に

数日前から、ある音楽が頭の中に流れ出した。ずっと頭から離れないというのでもない。なんだか控えめに、日に一度か二度、ふいに流れ出して、私が鼻歌まじりに頭の中で流していると、適当に切り上げて消えていく。

それが今日まで続いて、これは今年の「母の命日」のテーマソングなのだと思った。母が「今年は命日に、これをかけてよ」とリクエストしているような気になって。そっちで、こっちの新譜もチェックできるのか知らないが…。

これまで一度も母と関連づけて聴いたことのない曲だったし、特別興味をもって聴いていた曲でもなかったのだけど、母の命日の数日前から頭の中に流れ出した縁を大事にしよう。

そう思って、命日の晩に部屋で流して聴いた。あぁ、そういう歌なのかと縁を感じつつ、2011年2月からもう7年かと思いつつ、それからの7年をたどりつつ、7年前まであった母との時間に想いを寄せつつ。

花束を君に(Youtubeの動画)。一日遅れになるけれど、明日は家族みんなで会いに行きますよ。花束をあなたに贈るために。歌を聴いて、真っ先に思ったのは「お母さんは普段からメイクしてたじゃない?」だったけど。

2018-01-30

スライド共有:3つの「じゃない」から掘りさげる自分キャリア

昨年末になって遅ればせながら、昨夏開催されたDeNAさん主催のゲームクリエイター向け「Game Developer’s Meeting」キャリア勉強会Vol.2の登壇スライドをSlideshareに共有した(こちらにてご案内)のですが、昨春開催されたVol.1のときのスライドがあがっていないことに気づき、こちらも今さらながらスライド共有しました。

3つの「じゃない」から掘りさげる自分キャリア

以前にもシェアしたことがあるお話を再編集したような内容なので、人によっては既視感があると思うのですが…、こんなのをきっかけに、時おり自分のキャリアを考える時間をもってみたり、ここに書いてあることを酒の肴(さかな)に、たまには人とキャリアをテーマにおしゃべりしてみたりするのも良いのではということで、そういうのにお役立ていただけたら幸いです。

このイベントはゲーム業界の方向けでしたが、さほどゲーム特化の内容ではありませんので、クリエイティブ職のキャリアについてご興味ありましたら、どうぞ。

2018-01-28

ダサ良い、町の時計職人サイト

父から、家の時計が止まっちゃったと連絡があった。前から時刻がずれて遅れぎみではあったのだけど、今回まったく動かなくなってしまって、電池を替えても直らないという。

居間の掛け時計で、もしかしたら私が小学生のとき建て替えた今の家より、前に住んでいた家から使っていたものかもしれない。いずれにせよ30年は、うちの家族を見守ってきた時計だ。

父のメッセージも「長年頑張ってきた」「思い出の家族の時計だよ。みんなあれを見て育ったんだよ」とあり、思い入れのある大切な品であることがうかがえる。

しばしLINEのメッセージに気づくのが遅れてしまい、家族のLINEグループで、兄と妹が「修理に出したら?」とか「新しいの買ってもいいかもね」とか午前中にやりとりしているのを、夕方になってから発見。

あちゃーと思い、一気に修復にかかるべく時計修理屋をネットで調べにかかった。心の機微事案は(唯一役に立つ)私の担当だ。

さて、「時計修理 地元の地名」などで検索すると、中身のない地域情報ポータルサイトっぽいのが検索上位にあがってきて、行く手を阻む。そういうのをよけてかわして、それらしき店舗のサイトをあれこれ物色。しかし時計修理というと腕時計専門のところばかり。掛け時計や置き時計の修理に対応してくれるところを分け入って探していくと、素敵なサイトにたどり着いた。

時計職人の店 三井堂

見た目は、だいぶイケてない。1990年代によく見られたサイトデザインだ。ENTERボタンを押さないとコンテンツページにたどりつけないし、リンクが貼られていないところが青字のアンダーラインつきだったりイタリック表記だったり、画像文字も読みづらいし、アルファベットは全角だし。写真も比率がおかしくて人物がつぶれている。ナビゲーションも、階層間の移動を行ったり来たり大変。

だけど、テキストがいい。掲載情報も時計修理に関する情報や店舗情報が盛りだくさん書いてあって、トラブルの原因や対策、置き時計や掛け時計に対応していることもわかる。キーワードは盛りだくさん、かつ適切な言葉選びなので、SEO効果を発揮してファインダビリティに優れている。

またその文章の内容とボリュームから、そのお店の職人の腕のみならず、お人柄も伝わってくる。

柱時計や、置き時計はそれこそ生活に密着している時計ですので皆さんの思い入れも一段と深いようですね。また最近ではメーカーでも直す職人さんがいなくなっているのが現状の様で、メーカーさんの紹介でお客様から修理のご依頼を受けることもしばしばです。手巻の柱時計や、置き時計のカチ、コチという音を聞いていると懐かしいような、癒されるような気分になるのは私だけではないでしょう。お歳をめしたお客様がご夫婦でご来店になり、新婚当事に買って動かなくなったので放置しておいた柱時計を直して下さい、というような心温まる修理もよくあります。なんかいいい話ですよね。

信頼感や好印象を与えることに見事に成功しており、私的には「父が一人で店を訪ねても大丈夫そうだな」という感触を覚えた。

そこで家族のLINEグループに「これは直せるなら直したいね」と送り、お店の情報を父に共有。散歩がてら一人で行ってもいいし、私が帰った時に持っていくのでもいいよと言って、京成津田沼駅を南に出て、駅前すぐ、マクドナルドとダイソーの間にあることを伝えた。

ビジュアルデザインがイケてないだけに、コンテンツマーケティング施策の強みが際立つ好事例では…。ギャップ萌えも相まって、職人の専門性と人柄が強く印象づけられる。父の回答がどちらにせよ、一度自分で訪れてみたいお店だわ。

2018-01-25

「UX JAM 23」LT登壇の後書き #uxjam_jp

毎週月曜日になると、Facebookでつながっている方の「しいたけ占い更新されたよ!」という投稿が流れてくる。それを見かけると見に行くのだけど、今週行ってみたら、とにかく今週の魚座は地味にしてろ!とのことだった。「今週のあなたは地味であればあるほどいい」という。

しかし今週は、以前書いた通り「UX JAM」というイベントでライトニングトーク(LT)をする週なのだった。5分間と言えど、来場者は150名(100名から増枠した)。私にとってはだいぶ派手な部類にあたる活動なのだけど大丈夫だろうか…と腰ひけながらも、本日イベント当日を迎え、地味に実直に頑張ってきました。

「UX JAM」は、Webサイト/アプリを作る人向けのUser eXperienceを題材にした「ゆるい」勉強会/交流会イベント。交流会とLTを交互に行っていくスタイルで、参加者同士が気軽にUXについて話し合える場とのふれこみ。あと、参加者層が若くて、アラフォーというよりアラサーというイメージ(行ったことはないが)。

もともと人が大勢集まる所に苦手意識がある上、若い層が集まるともなると出向くこともなかったのだけど、私が普段足を運んでいる業界コミュニティのイベントは自分と同年代の参加率が高いので、世代違いに触れるのも大事だなぁと思ってエントリーした面もある。

そもそも私は、自分の同業たる人材開発コミュニティに参加することはほとんどなく、自分のクライアント市場にあたるWeb業界コミュニティにぽつぽつ足を運んできたのだけど、自分と同世代が多く集まるコミュニティだとこの頃は、クライアント市場の中でも相談・発注いただく側(経営・マネージャー層)に類する方々との交流に寄ってくる。もちろん、それはそれで大変有意義だし、私はネット系の思考/志向/嗜好?の人がそもそも気があって大好きなので、同志のように感じる方とのおしゃべりは弾む。

ただ一方で、若い人たちのコミュニティに出向けば、クライアント市場の中でも受講いただく側(現場リーダーや実務者層)との情報・意見交換ができる。そう考えると、そちらの人たちの考えていること、感じていることを聴く機会ももつって大事だなと。

そちらの空気感に触れていなくて、現場の肌感覚が養われていないと、どうしても「白け」に対して鈍感になって、(学習の)場づくりする人間にとっては致命的なミスをやらかしかねない。その場に投下したとき何がウケて何がシラケるかの感度が鈍いと、適切な場づくりはできない。作り出す「場」の有効性を高める肝とも言えるのが、現場の肌感覚だ。なので歳が離れていっても、直接現場の人たちと話したり交流する機会をもつのは大事だなと思う。

LTで自分が5分話すことで、あとの時間たっぷり、その人たちの話を聴くことができたら、すごく有意義である。きちんとお話しして、いろんな人とお話しできるといいなぁと思って、恐る恐る会場に向かった。

で、実際どうだったか。すごい良かった。私の話は、とりあえず時間内に収まって伝えたいことはざっくり届けられたか…くらいの感じだったけど、その後ほんとにいろんな方がお声がけくださって、20人くらいと、そこそこ時間をとってお話ができた。

実際には、さほど若い人ばかりという感じもなく、年齢層も幅広かった印象。お話しさせていただいた方も、育てる立場、教える立場、学ぶ立場といろいろ。また主催者が挙手アンケートをとったところ、デザイナー、エンジニア、ディレクター&プロデューサーが三等分くらいの割合で、職種もバラエティ豊かだった。

お声がけくださった方の中には、以前より私がSlideshareにあげていたスライドを見て仕事の参考にしていたという方もいらして、そこから先ネットで何者か調べようと思っても同姓同名の作家ばかり情報が出てきて、ずっと謎の人だったので、ようやく会えて良かったと声かけてくださる方も複数。ありがたすぎた…。

というわけで、今回のスライドもアップロードしましたので、いつか何かのつまみになれば幸いです。今回はLTのスライドなので、問いかけ的な内容に終始していますが…。

UX JAM 23 LT「UXデザイナーのUXデザイン学習のデザイン」

あとはいかに今週を地味に暮らして、魚座バランスを取るかである。今日は大変だったけど、素敵な一日でした。感謝の気持ちでいっぱい。ありがとうございました。

2018-01-23

壇上の有名人と、客席の一般人

半年ほど前、ジェーン・スーさんと秀島史香さんのトークショーに足を運んだとき、ジェーン・スーさんが話していたことを思い出した。

最近は「無関心社会」とか言われるけど、実は真逆。関係ないことに首突っ込んで「関心過剰な社会」だよねって話をしていた。有名人の私生活にあーだこーだ言うなど。そもそも、あなたそれをいいの悪いの判定する立場にないよね、みたいなところに口を挟む関心過剰社会。ジェーン・スーさんはほんと、こういうのを端的にうまいこと言う。

そんな社会の窮屈さに触れた後、彼女は確かこんな考えを述べた。

関心過剰な監視社会を作るのか、あるいは寛容な社会を作るのかに、私たち30、40代が重要な役割を担う。

あぁ、そうだなと思って書き留めたメモがある。最近の世事にふれると、なんとなくこんな感じのことをよく思い浮かべては、私たち次第で変わるんだよな、私たちが作っているんだよな、世の中の空気を、と思う。その一方で、そのことを、まだきちんとわかっていないな、視点やふるまいは旧態依然としたままだな、とも思う。

例えば、小室哲哉が引退を宣言した記者会見の言葉を読むと、最後にこんなことを言っている。

このソーシャルな時代ですから、その方たちの声は耳に届いたり、目にすることはできますので、見させていただくというか。読ませていただくというか。声を聞きたいと思っています。その中から答えが出てくるのかなぁという気もしています。(中略)こういったことを発信することで、みなさんも含めて、日本をいい方向に少しでもみなさんが幸せになる方向に動いてくれたらいいなと心から思っております。微力ですが、少し(でも)なにか響けばいいなと思っております。ありがとうございます。

*【全文4/4】小室哲哉「“悔いなし”なんて言葉は一言も出てこない」 音楽活動引退への複雑な胸中│logmiより

彼のほうは、言わば私たち一般の人と同じグラウンドに立って交信を試みているようにも思われる。私たちが小室哲哉に向かってメッセージを返す道は開通している。21世紀とは、そういう時代だ。

だけど、私たちは未だ20世紀型の屋内施設の客席に着席したまま、舞台上の小室哲哉と文春を見比べては良し悪し判定するふるまいから抜け出せていないのではないか。文春に向かってあーだこーだ反応を返しているのは、「向き」の明後日感を覚える。

壇上の誰かが叩かれるのを見て、一緒に叩くのか、叩く側を叩くのか、いずれにしても自分は客席にいて、安全な場所から壇上に上がっているプレイヤーの良し悪し判定するだけという世界観は、なんだか前時代的な感じがする。

もう端っこでもなんでもとりあえず皆、グラウンドに立つ一員に立場は変わっていて、そのふるまいによってインタラクティブに試合展開は変わっていくのだという世界観のほうが21世紀的だなと感じる。壇上でもないし、客席でもない、フラットなグラウンドの上に、みんなして立っている感じ、みんなが相互作用しあう関係にある感じ。

私たちは文春を叩くことじゃなくて、小室さんに活動を続けてほしいとか、ゆっくり休んでほしいとか、休みつつも音楽活動は続けたらいいんじゃないかとか、思っていることを伝えることができるし、怒っているのか共感しているのか、軽蔑しているのか応援しているのかも、伝えることができる。それが最もシンプルな「向き」の合わせ方だと思うのだけど、どうも20世紀後半に覚えた客席目線に慣れてしまって、そこから抜け出せていない気がする。

向かう先を間違えちゃいけないなぁと。まっすぐ向く先、声をかけて働きかける先はきっと、外なら応援する対象だし、内なら自分がどうするかだし。もう、明後日の方向に向かってしか、もの言えない時代じゃないのだし。

「壇上の有名人と、客席の一般人」に限らず、生活者としての企業・プロダクト・サービスとの向き合い方も、良し悪しの判定を下すだけのふるまいから自分は次の時代にまだ移行していないと省みることが、ままある。

何かのサービスを利用して不具合があって、それを企業に直接返せる窓口は大企業であれ開通しているのに、それを直接、事業者にフィードバックするふるまいをなかなか採ろうとはしない。企業側がSNSなど使って消費者の声を拾いにくればいいと言えばそうなんだけど、客も事業者もフラットにつながって友好関係を結ぶ世界観に立つなら、消費・利用する立場の自分も率直な感想や意見を返して、より良いサービス・プロダクトになっていくよう働いてもよいものだけど、そういう生活者にはなかなかシフトできていないなぁと我が身を振り返る。それが適切な道筋なのかどうかも、よくわからないけれど。

外部の何かについて批評めいたことを思うと、後から苦い思いが募る。SNSで誰でも発信できる時代とか、誰もが作り手になるのだとか言っていても、結局のところ有名人を壇上にあげて、自分は客席にいる、ゲームには参加していない、あくまで観客であるという縦構造に収まろうと無意識にしているのかもしれない。

インターネット時代に生きる私たちは、このフラットな世の中を、もっと自在に行き来できる世界観の中で、もっと良い形にふるまいを変えられるんじゃないかと思う。

もちろん世界観は多様なもので、皆がそれをともにするわけじゃないけど、インターネット時代の、この世界観を共有する人は一定数いるはずで、その世界をどう有意義なものにしていくかという世間づくりの一端を自分も担っているわけで、自分もたとえものすごーく微細な影響であれ、この世界の空気を作っている一員なんだよね、と思ったりする。

いい社会を作るかって、壇上に立っている有名な人がいい人かどうかという他人任せじゃなくて、自分がいい行いをしているか。自分が楽しんでいるか、心豊かか、人に感謝しているか、お礼を言っているか、配慮しているか、許容しているか、まっすぐ率直にその人に伝えるべきを伝えているか、下手に首突っ込んで腹立てていないか、助けているか、声かけているか、挨拶しているか、謝っているか、何をシェアするか、何を黙認するか、何を言葉にするか、何を言葉にしないか、日々の、自分の、そういうことの小さな小さな積み重ねが、いい世界を作るのだよな、と。ちっちゃなちっちゃな自分も、おっきなおっきな世間の構成員の一人なのだよなと。

Qちゃんのこのお話は、とってもとっても素敵だったな。と同時に、「明らかにわたしたち一般人とは違うものを持っていました」と切り取ることもできるけど、私たち誰もが、こういうことができる世の中の構成員の一人であるとも言えるなって思った。

*高橋尚子が千葉マリンマラソンで見せた機転と美しさ│月間走行距離なんて知りません

2018-01-20

風邪の必殺技

新年早々(といっても年明けたのはもう数ヶ月前のことのように思えるが)わりとヘビーな風邪をひいてしまい、先週末は寝通し寝ていた。

私は風邪をひいたときって、毎回ずるずると長引かせてしまうことが多く、風邪の予兆があって対策したら1日で治ったとか、かかる前にどうにかなったという経験が記憶にない。かかったら1週間コースとか、長いと3〜4週間ずるずるやっている。ずっと、風邪をひいたときの必殺技が欲しかった。

今週は予定が立て込んでいて絶対休めなかったので、熱だけでも週末のうちに退治する必要があり、先週は金曜の晩から月曜の朝まで、次の対策を講じて、寝ても覚めてもひたすら寝た。

・電気敷毛布を、いつもは7段階中3のところ5
・上は3枚着て厚着する
・水をよく飲む
・足が温まるまで靴下をはいて寝る(温まったら脱ぐ)
・汗をかいたら上下とも着替える
・首にタオルを巻く
・暑い、熱い、あついーと頭の中で念じる

私は全然汗をかけないタチなのだけど、これでずいぶんと汗をかいて、数時間で2〜3度上がった熱を、週が明けるまでにじわりじわり平熱まで落とすことができた。

首にタオルを巻くというのは、この正月に実家に帰ったとき、父がこうするとあったかいんだと言ってやっていた技で、今回取り入れてみたら、これがなかなか良い。かいた汗も吸収してくれるし。

高校1年のときの担任の先生が厳しい人で、熱が38度超えても家に帰してくれない人だったけど、彼女は「水を2リットル飲んで、首にネギ巻いて寝れば風邪は一晩で治る」と言っていた。あれって、ネギじゃなくてタオルでも、つまりなんか巻いて首をあっためれば良かっただけなんじゃ…と、熱にうなされながら思ったりした。ネギはネギ臭くなりそうで、なかなか試す気になれない。ネギも風邪ひきの首に巻かれて生涯を終えるのは、なんだか不憫である。先生は後で食べていたんだろうか…。

とりあえず、週末のうちに熱の攻防戦は抜けた。が、回復とは言えぬまま月曜日に放り出され、今週はずっと気が気でなかった。

クライアントさんに提供する研修本番が2日。準備して、本番して、レビューしてレポート出して、次どうするか練って、それを反映して次の準備して、本番して、レビューして。

その間に別のクライアントさんの提案書提出の締め切りが迫ってくる。金曜の午前中にそれを仕上げて提出。

そこから、なかなか進まなかった週末の準備。土曜の今日は、久しぶりに「MBTIを用いたキャリアカウンセリング」を引き受けていて、今はそれの準備をなんとなく終えたところ。イレギュラーだけど、このブログを読んで年末お便りをくださった方で、今日が初対面の方なのだ。

今週は素敵な人たちと会って語らう予定もいくつか織り込まれていて、束の間ながら豊かなひと時を過ごした。視線を合わせてゆったり親密に話しこむ時間が、心を開放的にすーっとさせる。不思議な感覚、尊い友だち。1月は濃密に、気がつけばあっという間に終わってしまいそう。

来週は来週で、継続案件と新しい案件と詰まっているので、風邪がぶり返さないようにして一つひとつ丁寧に歩を進めたい。健康かどうかで「綱渡り」か「充実」かが一変してしまうので、大事にしないと。

2018-01-11

LT登壇:UX JAM 23「UXデザイナーのUXデザイン学習のデザイン」

今月末「UX JAM」( #uxjam_jp )*というイベントで、5分間のライトニングトーク(LT)をすることになりました。

UX JAM 23 -新年会スペシャル-

「なんで?」と問われると、自分でも「なんででしょう⁈」 という感がないではないのですが、誰かに頼まれたわけではなく自分でエントリーしています。年末の私がエントリしたのです。気は確か、記憶も確かです。

その時は、とにかくこれはエントリーするのだという、よくわからない意思が働いて、それにただ従ったという感じだったのですが(LTに自ら応募したの初めて)、今振り返ってみると、2つの理由が挙げられそうです。

ひとつは、ここに集まる皆さんに伝えたいこと、それを話題に情報・意見交換したいテーマがあったから。UX JAMというのは、交流会とLTを交互に行っていくスタイルをとっていて(行ったことないけど…)、LTで自分が話題提供したことについて、関心ある方とフランクに直接お話しできるなんていいなぁと。誰もいなかったら、ぽつんとさびしいわけですが…。

もうひとつは、人に共有する以前に、しばらく自分の頭の中にあってこちらに訴えかけ続けていたものを、まずは自分の中で整理したかった。人に伝わるレベルの言語化をしてみて、自分で自分の考えを解像度上げて確認したかったというのがある気がします。

あと、理由というよりきっかけとして、今回のLTのテーマが「新年のUX抱負」って設定されていたこともあります。そういう呼びかけでなかったら私は反応していなかったので、ご縁だなぁというか、ありがたかったなぁというか。呼びかけ時にコンセプトを一言添える添えないが、人を動かしたり動かさなかったりするんだなぁとも思いました。

ともあれ、5分程度の尺を前提において、この日までに人にきちんと伝わるだけの準備をしなきゃという締切がある状態に身を置くことで、自分の考えていることを整理し、話の筋道を立てて言葉とイメージに表してみる、という試みができて、まずは良かったです。

って、まだ準備しただけなので道半ばですが。その話をしてご参加の皆さんに届くかどうか、おしゃべりにつながるかどうかは、相手があることなので当日になってみないとわかりません。とにかく、やれるかぎり力を尽くしてがんばります。

タイトルは「UXデザイナーのUXデザイン学習のデザイン」。UX、UX連ねていますが、IAに想いを馳せつつ話を整理したところがあり、わりとUXに限らぬ話になります…。広くこの界隈の実務者の、学習から現場パフォーマンス向上までを話題にします。

今回は7人のLT登壇者がいるようなので、テーマも幅広く、いろんな面白い話が聴けそうです。参加想定は100名程度を見込むそうで、いろんな方と知り合うにも良さそうです。開催は1月25日の晩、場所はゲートシティ大崎にあるオイシックスドット大地のオフィス。

というわけで、UX関連に興味のある方や、その関連の人たちと交流したい方、新年のご挨拶がてらという方、ぜひ会場に足をお運びくださいませ。

私は、誰も知り合いがいない可能性もあるので…、ご参加の方で、これをここまで読んでしまった方は、ぜひともマイルドな笑顔を浮かべてLTを聴いていただき、交流タイムにお声がけいただければ幸いです。

一つ前に書いた話で、「自分が発する言葉以上のことを行動している人間であろう」と新年の抱負めいたものを書いたけど、それで自分の発する言葉を抑制してかかるようでは意味がなく、言葉も丁寧に起こしながら行動が伴うようにやっていきたいところ。のびのび、こつこつ、丁寧に生きよう。

*「UX JAM」は、Webサイト/アプリを作る人向けメディア「UX MILK」が主催する、UXを題材にした「ゆるい」勉強会/交流会イベント。交流会とLTを交互に行っていくスタイルで、参加者同士が気軽にUXについて話し合える場をつくる。

2018-01-02

言葉あふれる世界で

妹が年末年始に旅行に出かけるというので、昨年同様2018年も、お正月のあれこれを一手に引き受けることに。といっても母の代理には程遠く、私がやるのはお雑煮を作るのと、おせちの手配、買い物、配膳、皿洗いくらいか…。

今年は父と兄一家に加え、母方の伯父伯母も実家に来てくれることになり、急遽8人分のお雑煮を作ってもてなした。伯母はおせち料理も手作りする人なので、出して大丈夫だろうか…と不安だったけど、おいしい、どうやって味つけしたの?と言っていたそう。ミツカンのおかげで事なきを得た。

伯父伯母と兄一家を引き合わせられたし、甥っ子らも、しっかりお年玉をゲットして、餅を焼いたり、たらふく食べたり、リラックスしてくつろいでいたようなので、良い元日だった。

今年は活動の一年だ。と書いたことを来年の今頃覚えているかどうかは全く自信がないが。

思索やら内省やら言葉を巡らせるのが癖で、しかも理想主義っぽいところのある私のような手合いは、発する言葉ばかり達者になって、行動はお粗末という滑稽にはまりやすい。頭の中で、あるいは文章の中であれこれ考えを巡らせていると、発する言葉はいくらでも立派になっていく。

そうやって考えを洗練させていくこと、真実を突き止めんと思考を巡らすこと自体は、大事なことだと思っている。優秀な人の中には、研ぎ澄まされた言葉そのもので価値を生むことができる人もいると思う。だけど、私はそういう人間ではない。思索や内省の結果、誰もがはっとするような立派なビジョンや批評を提言できるわけじゃなく、同時代に生きて私が直接関わる人たちへの少数ながら具体的な貢献・行動成果を生んでこそ、働きに意味を生み出せる人間だ。

そこんとこをわきまえて、この年始に再確認するのは、自分が発する言葉以上のことを行動している人間であろうということ。いくらでも、どこにでも、だれでも言葉にすることがたやすい世界で、声にのせて人に届ける言葉も、文章にしたためる言葉も、心のうちで言葉にする考えや想いのかたまりも、言葉ばかりが増幅していって、行動が伴わない滑稽な人間にならないように、地に足つけて身の丈で、ちょっと背伸びして、やっていきたいなと思う。

まぁ、だいたい、「〜していきたい」「〜でありたい」なんてのが最も危険キーワードなんだけど…。2018年も、おつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。

2017-12-31

2017年においていくもの

今日は2017年の大晦日。帰省前に都心のカフェに寄り道して朝食をとっていると、窓越しに雪が舞い始めた。このあたりでは初雪じゃないかしら。雪は音を立てず静かに降るけど、目に映る雪景色も人に静けさを感覚させるものだな、と思う。

今年を振り返るといっても、一年区切りで出来事をあまり整理できていないので難しいのだけど、いろいろとありがたいなぁと思うことが多い、豊かな一年だったと思う。一つがっかりなことを挙げないわけにはいかない節目の一年にはなるんだけど、それ以外のさまざまなことを思えば、やっぱり感謝の一年だ。

ひっそり大変だった時期は、粉々になって地面に落ちた自尊心を、しゃがんで、しばらくぼーっと見ていたのだけど、しばし時間をおいたら、その地面に落ちたのから確かそうなかけらを拾い上げて、ひとつ、ふたつと手もとに戻していくことができた。そうすると、あぁ、まったくゼロになるわけではないのかもしれない、と思い直せた。これと、あれと、それとを持って、立ち上がったら、大丈夫だろう。

ずっと前に一度似た経験をもっていたので、そのときよりだいぶ自己コントロールできる状態になっていて、程なく這い上がってこられたところもあり、経験って糧だなぁと思った。30代の私にはできなかったことだ。

そもそも、外的要因の一つや二つでぐらつく自尊心など、もともと虚構であって、はなから自分のものではなかったと思えば、話はすっきりする。最初からなかったものとして、素の自分が今持っているものを見直して、この先をそこから作っていったらいいし、コツコツやっていったらいい。目がよくなったのだ。などと理屈をこねて喝を入れる時期もあった。まぁ、そんなにいつも強気じゃいられないのも人の常ではあるんだけど。

しかし30代を経て、「人間、基本は孤独なんである」ということを自覚的に受け容れるようになったのは大きい。すると、矛盾するようだけど、ほんとに孤独そのものだったら自分は絶対生きていけないなぁとも実感させられることになる。そうやってゼロベースに立って、自分が日々どれだけ人に支えてもらっているかを意識して生きていけると、がっかりなことも致命傷を負う手前で、どうにかそれを受け容れてやっていけるし、時間をかければ立ち上がれる。人への感謝が安定して自分の内側を満たすようになる。

私よりずっと波乱万丈な人生で歩んでいる人に、同じようなことが言えるかどうかはわからないけれど、私はこの道をそうやって、周囲の人たちに感謝しながら丁寧に歩んでいけたら、それできっとOKだ。それだけだって、けっこう難しいことだったりするから、身の丈でやっていこう。

来年に向けては、なんだかオープンな心もちに移行している感がある。なんとなく開けていく風向きを感じるので、それを快く受け容れてやっていきたい。というわけで、こんなぐだぐだを時折書いてしまう私ではありますが、来年もおつきあいのほど、よろしくお願いします。どうぞ、良いお年をお迎えください。

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